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2008年2月

2008年2月29日 (金)

3月8日「義経、屋島合戦を頼朝に報ず」

「吾妻鏡」元暦2年(1185)3月8日辛卯
「義経、屋島合戦を頼朝に報ず」
 源廷尉〔義經〕様の伝令が、関西から(鎌倉へ)到着して、申し上げた。「先月の十七日に、わずかに百五十騎を連れて、暴風の中を渡辺の津から乗船しました。翌日の朝六時頃には阿波の国(徳島県)へ着きました。直ぐに合戦をしました。平家の軍勢は、殺されたり、逃げてしまいました。そして十九日に源廷尉〔義經〕は屋島へ向かわれました。」
「屋島内裏焼亡す」
 この使いは、その屋島での合戦の結果を待たずに走り向かってきたのです。そして播磨国(兵庫県)に着いて、後ろを振り返って見た所、屋島の方に黒煙が空へ上って見えたので、合戦は既に終わって、平家の陣営が燃えていることは疑いがないと確信したようです。

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2008年2月28日 (木)

3月4日「義経が凶党を追討」

[玉葉]3月4日 
「義経が凶党を追討」
 隆職が追討の間の事を記録し送る。義経が許より申し上げる書状のようだ。去る月十六日出航した。十七日阿波の国に着いた。十八日屋島に押し寄せ、凶党を追い落とした。然れども、未だ平家を伐ち取らないようだ。

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2008年2月27日 (水)

2月27日「住吉神鏑鳴る日義経阿波国に着す」

[玉葉]2月27日 
「住吉神鏑鳴る日義経阿波国に着す」
 伝聞、九郎(義経)は去る十六日出航し、無事に阿波の国(徳島県)に到着したようだ。十六日は住吉神社の鏑が鳴る日である。まことに厳かな事というべし。

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2008年2月26日 (火)

2月21日「平家讃岐志度道場に籠もり、義経追撃す」

「吾妻鏡」元暦2年(1185)2月21日乙亥
「平家讃岐志度道場に籠もり、義経追撃す」
 平家軍が、讃岐国(香川県)志度の志度道場(志度寺)へ立てこもりました。源九郎義經様は、八十騎の軍隊を連れて、そこへ追いつきました。平家の家来の田内左衛門尉は、源九郎義經に降伏し服従しました。又、河野水軍の河野四郎通信が三十艘の軍船を整えて参加しました。源九郎義經は阿波国へ船で行きました。それは熊野神社長官の湛増が源氏方へ加勢するために、同様に海を渡ると噂が京まで届いたようです。

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2008年2月25日 (月)

2月19日「義経、阿波讃岐国境を越え屋島内裏の向に到る」

「吾妻鏡」元暦2年(1185)2月19日癸酉
「南御堂の事始」
 今日は、南御堂の事始(地鎮祭?)です。頼朝様は香の水干を着て、月毛の馬に乗られ、その場所へ参られました。南御堂建立の谷戸の南の山麓に、仮設小屋を作り、御臺所(政子)も一緒に入りました。今日の儀式を見るためです。午後四時ごろには、大工らに祝儀を与えました。祝儀に馬を引き出しました。
「没官領三河国竹谷・蒲形両庄を熊野山に還付す」
 その後、熊野神社領地の三河国竹谷(蒲郡市竹谷町)蒲形(蒲郡市御幸町)の両方の荘園の事を、裁決なされました。これ等の荘園の本来は、開発した領主の散位俊成が熊野神社に寄付したので、熊野別当の湛快がこれを領有して、娘に譲渡しました。その娘は最初は行快僧都の妻でしたが、その後前薩摩守忠度朝臣と再婚しました。忠度は一ノ谷合戰で討たれてしまい、平家没官領として朝廷が召し上げて、後白河法皇から頼朝様が戴いた土地です。しかし、開発領主の俊成の娘は、先の夫の行快に懇望して云うには、「早く事情を関東に訴えて、その両方の荘園を安堵して貰って下さい。もし、そうなれば、先々行快の子供(彼女が生んだ)に譲渡するから。」そこで、この話を了解して、行快僧都は熊野から使いの僧の栄増を鎌倉へよこして申し上げて来たのです。行快と云うのは、行範の息子で、頼朝様の祖父の廷尉禪門〔爲義〕の外孫に当たります。源氏の親戚なので、縁は他人とは一緒に出来ないので、元々大事にしようと思っていたので、この窮状訴えがあったので、是非も無く命令を出しました。信仰心も厚いのであるようです。
「義経、阿波讃岐国境を越え屋島内裏の向に到る」
 一方、源九郎義經は、昨日の夜通しかかって、阿波国と讃岐国の境の中山を越えて、今日の午前八時頃に屋島の平家軍の向かいの浦へ着きました。牟礼や高松の民家を焼き払った。その煙を見て安徳天皇は建物から出られ、宗盛は平家一族を連れて船に乗り海上へ逃げ出しました。
 源九郎義經様は赤地の錦の直垂に、紅の下濃の鎧を着けて、黒馬に乗り、田代冠者信綱、金子十郎家忠、息子の余一近則、伊勢三郎能盛らを引き連れて、波打ち際へ攻め向かいました。平家は又、船を移動させながら、弓矢を応戦をしました。
「佐藤繼信戦死す」
 一方、佐藤三郎兵衛尉繼信・佐藤四郎兵衛尉忠信・後藤兵衛尉實基・同養子後藤新兵衛尉基淸らは、安徳天皇がおられた内裏や宗盛がいた陣営の建物を燃やしました。黒い煙が空へなびき、日の光を遮るほどでした。これを見た平家の家来の越中二郎兵衛尉盛継・上総五郎兵衛尉忠光達は、船を降りて宮の門前に陣営を構えました。合戦が始まると源九郎義經の家来の佐藤忠信が弓矢で討ち取られました。源九郎義經はとても悲しんで、一人の僧侶にお願いして、千株松の根元に埋葬しました。大事にしている名馬をお布施としてその僧侶に与えました。この名馬は大夫黒と呼ばれ、元々は後白河院の厩においていた馬で、法王のお出ましにお供をするときに、院から戴いたのです。戦場に出るたびにこの馬に乗っていました。この話は、自分の強い家来を大事に慰めた行いなので、美談だと褒めない人はないということです。
「住吉社、鳴鏑の奇瑞を奏上す」
 話し変わって、同じ日に住吉神社の神主津守長盛が京都へやってきて、院への取次ぎを通して云うには、先日の十六日に、住吉神社恒例のお神楽を奉納したら、真夜中の零時頃になって、音の出る鏑矢が神殿から飛び出し、西の方を目指して飛んでいきました。これは、平家追討のお祈りをしていたので、神様の霊験が現れたと云う事でしょう。

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2008年2月24日 (日)

2月18日「義経渡部を発し阿波椿浦に上陸、桂浦に桜庭良遠を攻略す」

「吾妻鏡」元暦2年(1185)2月18日壬申
「義経渡部を発し阿波椿浦に上陸、桂浦に桜庭良遠を攻略す」
 源九郎義經様は、昨日渡部の津(大阪市北区中之島)から船で海を渡ろうとしたところ、急に暴風が起きて、船が沢山壊れてしまいました。それで兵達は、船を一艘たりとも出そうとはしませんでした。そしたら、源九郎義經様は言いました。「京都朝廷の敵を追討する役目が多少でも留まり待つことは、朝廷に恐れ多いことである。風や波による損害を考えるべきではない。」と。そう云うので、午前二時頃にまず五艘の船を出航させました。午前六時頃に阿波国(徳島県阿南市)椿浦に着きました。普通なら三日はかかる行程です。直ぐに百五十騎の武士を連れて上陸しました。阿波国の豪族の近藤七親家を呼びつけて、案内人として屋島へ向けて出発しました。途中の桂浦で、散位成良の弟である桜庭介良遠を攻めたところ、良遠は城を捨てて逃げたようです。
 一方関東では、夜になって頼朝様は伊豆から鎌倉へ帰りついたようです。

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2008年2月23日 (土)

2月16日 「義経の発向を制止」

[玉葉]2月16日 
「義経の発向を制止」
 伝聞、大蔵卿泰経卿は御使として渡辺に向かった。これは義経が出発を制止させる為のようだ。これ京中の武士無きに依って御用心の為であるようだ。然れども敢えて承引せずのようだ。泰経すでに公卿である。此の如き小事に依って、安易に義経が許に向かうこと、太だ見苦しいものだ。

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2008年2月22日 (金)

2月16日「義経、東軍の先陣として讃岐に向ふ」

「吾妻鏡」元暦2年(1185)2月16日庚午
「義経、東軍の先陣として讃岐に向ふ」
 関東の軍隊は、平家追討のため、讃岐国(香川県)へ向かいました。源九郎義經様は、先陣として今日午後6時頃船出しました。大蔵卿藤原泰經様は、源九郎義經様の晴れ晴れしい出陣の様子を見たいと云って、前の日から源九郎義經様の旅の宿に来ていました。そして、泰經卿は諫めて言うのには、「泰經は武士ではないので兵法は知らないけれども、おおよそ推測してみると、大將軍は昔から一戦の先陣を争ったりしないで、先に副将を行かせるべきではないか。」源九郎義經様は言いました。「私は特に思うところがあって、先陣をきって命を捨てようと思います。」と、直ぐに出発をしました。さすがに優れた武士であるというべきである。
「平家、屋島・彦島に陣を構ふ」
 一方平家は、陣営を二箇所に分けて構え、前内大臣の宗盛は讃岐国(香川県)の屋島に陣営を築いて、新中納言知盛は九州の兵隊を集めて門司関(下関)を固め、彦島を本陣と決めて、源氏軍を待ち構えているようです。
「頼朝重ねて範頼および義時・親能ら諸士に書を送る」
 今日、頼朝様は、相州鎌倉郡の山野を巡察していたので、藍澤原(横浜市瀬谷区相沢)で、源參河守範頼様への返書に添えて、追加のお手紙をお渡しになりました。又、別な手紙を北条義時殿、中原親能、比企藤内朝宗、比企四郎能員達にも出されました。それは、平家を滅ぼすまでは、皆で心を一つにして戦うようにという内容である。

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2008年2月21日 (木)

(1月6日の続き)「頼朝、九国の家人に下文を遣わす」

「吾妻鏡」元暦2年(1185)1月6日庚寅

(1月6日の続き)

 地元の人達が降伏してくるようなことがあれば、もてなして、よおく大切にするようにしなさい。豊後(大分県)の船を調達できれば、攻めるのはたやすいことである。四国へも船が少々あれば攻めるように云いたい。関東からの船は2月十日ごろに出発させる。
 今一度九州の事は、よく考えて支度して、急がず平穏に処置するように。また、侍たちがそのように自分勝手にしているのは返す返すもってのほかのけしからぬことである。実際そのようなことがないように。あちこちから自分の事を訴えてくるかもしれないが、いちいち人の云うことなんか聞いていることはない。誠にわかったというふうに振る舞っていれば、それだけでよいことである。また人が言わずとも、仕方がないようにしていることこそ、もっての外のことである。又、小山一族の人達は、どの人も特に大事にするように。宜しく。
 こちらより行ったものは、自分のことを考えれば、現在の知行や所領を支配していなくとも、そのような争論をしている状況ではないはずだ。そうした妨げはとどめさせるように。今はとにかく地元の人達をなだめすかしてでも旨く取り計らわれたい。九州の武士たちに四國を攻めさせるようにしなさい。
 此の使いは、下級役職の宗光・定遠・信方の三人を行かせました。信方・定遠は、京都に居たのを下させて、宗光だけが関東から京都へ上りました。委しい事は宗光が持っている文書に書きました。すべて良く取りはからって処置しなさい。宜しく。
  正月六日參河守殿 御返事
 重ねて命ずる。
 命令書を一枚送付しましたので、九州の地元の武士たちに見せてください。人を惑わす法師は用いないように。宜しく。
甲斐の武士たちの中で、伊澤五郎信光殿・加々美次郎長淸殿等は特に大事にしてください。加々美太郎光朝(武田信義)殿は、加々美次郎長淸の兄ではありますけど、平家についたり、木曾冠者義仲につ付くなど、よからぬ心で仕えているひとなので、所領などを与えるべき人ではない。弟の次郎殿だけを大事にしてあげるべきです。

「頼朝、九国の家人に下文を遣わす」
又、命令書を一通、九州の御家人たち全体へ発行しました。その命令書に書いてあることは、
 命じる 九州地方の武士たちへ
早く、鎌倉殿(頼朝様)の御家人になって、本領を保証してもらい、三河守(蒲冠者範頼)の命令に従って、心を一つに力を合わせて、朝敵である平家を滅ぼしなさい。
 右のとおり、九州の武士たちに命令して、朝敵を退治するように、後白河法皇の命令書が出されています。それなので鎌倉殿の代官の二人が京都へ上ったところ、三河守(蒲冠者範頼)は九州へ行き、源九郎義經は四国へ派遣されました。たとえ平家が四国に居ても、九州へ着いたとしても、皆それぞれに後白河法皇の命令を大事にして、三河守(蒲冠者範頼)の命令に従って、心を一つに力を合わせ、平家の賊徒を追討するように。そこで九州の官兵はこの点を承知し、すぐに勲功の恩賞を得るよう努めるように。以上を命令する。
  元暦二年正月日  前右兵衛佐源朝臣

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2008年2月20日 (水)

元暦2年(1185)1月6日「西海向兵粮米輸送を命ず」

「吾妻鏡」元暦2年(1185)1月6日庚寅
「西海向兵粮米輸送を命ず」
 平家を追討するための中国四国九州地方にいる関東武士達は、船も食料も無くて、戦いようがありません。という情報が関東へ通じてきたので、この数日間幕府で評議がありました。船を用意して、戦用の食料米を送るようにと、関東地方の各地へ命令を下された。その事を西国の軍隊に伝えようと、しているところへ、去年の九月に出京し西国へ出かけた源參河守範頼から去年十一月十四日に出発した伝令が今日到着しました。軍事用食料が無くなって、武士達の団結心や戦闘意欲が失い、故郷が恋しくて、殆どが勝手に逃げ帰ろうとしているようです。その他の九州での出来事が書かれています。又、乗馬用の馬を所望しています。この申し出により少し疑問は解消しましたが、下級役職の定遠・信方・宗光を九州へ行かせる事にしました。但し、定遠・信方は京都におりましたので、京都から一緒に行くように宗光に言い聞かせました。宗光は、詳しい手紙を持ちました。その内容は九州での占領統制下の代官としてのやるべき事を書き出してあります。その内容は、
「頼朝、範頼に消息を送る」
 十一月十四日の手紙が、正月六日に到着した。今日こちらから飛脚を出そうと思っていたら、この手紙の飛脚が着いた。伝言したことは詳しく承知しました。九州の連中はどうして従わないのかと思うようなことであっても、いたずらに騒がないで、よくよく落ち着いて対処してください。けっして現地の人達に憎まれないようにしてください。
 馬の事だが、確かにそうするべきではあろうけれども、平家は常に京都へ戻ろうと思って情報収集をしているので、馬を送って、若し横取りでもされて、人に伝わればみっともないことなので送りません。又、内藤六(藤性足利盛家)が周防の遠石庄を横領した事は、以ての外の事である。現在は地元の人達を怒らせないようにする事こそ、大事なのです。
 又、屋島においでの安徳天皇やに二位殿(平時子)や女房たち等、いささかの過ちやなどで、悪いようになることの無いように、お迎えしするようにされたい。そのように伝われば、二位殿などは、安徳天皇をお連れなされて、(あの世に)向かわれるかも知れません。大方は帝王への配慮は、今に始まった事ではないが、木曾義仲は比叡山の明雲と鳥羽の四宮(円恵法親王)を討ち奉ったので、運が尽きて滅びました。平家も又、三條高倉宮以仁王を討ち奉ったので、このように滅びようとしている。そういうことなので、良く考えて、敵を洩らさないようにじっくりと計略を立てて、沈着に処置しなければならない。
 内大臣平宗盛は、とても億病な人なので、自害などはやりはしないだろう。生け捕りにして京都へ連れて上りなさい。さて世の末にも聞くところによれば、いまは少しばかり吉の世である。考えれば考えるほど安徳天皇が心配事です。どのようにしても、何とか無事にうまくやりなさい。大勢の武士たちにも、このことを良く言い含めるようにしなさい。くれぐれも宜しく。
 それから、武士たちに、ぜひとも自分勝手にならないようにく良く詳しく教えなさい。決して九州の人達に憎まれたれしないように、振舞いなさい。関東の軍勢を中心として、九州の者どもも加えて屋島を攻めさせて、急がず沈着に処置しなさい。もう敵は弱くなってしまったと人はいっても、敵を侮るようなことは、絶対にあってはいけない。良く考えて、敵を打ち漏らすことの無いように、よくよく検討をして、事を決定しなさい。なお、念には念を入れて、天皇の事は、何事も無いように計らいなさい。2月十日頃には、ある程度船を上洛させられると思う。
 話は違うが、佐々木三郎盛綱が、九州へ下っていったので、命令してその途中で備前の児島を攻め落とさせました。良く落ち着いて考えて、じたばたしないで、沈着に軍隊を使うように心得なさい。侍たちには、あれだこれだとひそひそ話などをすることによって、他人から見て疎まれてはならない。また、道中で食料などが足りなくなったなどと、京都から方々へ訴えがきているが、それほど大勢の軍隊用食料を持って上洛したわけではないので、どうしてそうならないことがあろうかと思う。関東でも、時に変わったことはないので、騒ぐようなことはありません。詳しいことは使いの役人に言い含めてあります。宜しく。千葉介常胤は、特に戦でも高名を得た人なので、大事にしてください。正月六日 蒲殿

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2008年2月19日 (火)

12月3日「頼朝の園城寺帰依を時政義経に伝ふ」

「吾妻鏡」元暦元年(1184)12月3日戊午
「頼朝の園城寺帰依を時政義経に伝ふ」
 園城寺の使いの僧侶が帰りました。そこで北條時政殿は、特に三井寺に信仰しているので、丁寧な手紙を渡して、この園城寺への事を源九郎義經様に伝えました。その書いてある内容は、
 園城寺の僧侶達が、わざわざ願い事を書いて鎌倉殿に言ってきたので、元平家の領地二箇所を特別に寄進されました。これは大変重要なことだと思われたからです。そこで、もしその僧侶達が何か申し上げてくるようなことがあれば、特に御心を込めて対処して下さい。決して粗略になされる事のないようお願いします。これは又、頼朝様の意向によって申し上げるところです。色々と伝えたいことは沢山ありますけれど、急いでいるので、そうはいたしません。謹んで申し上げます。

「吾妻鏡」元暦元年(1184)12月20日乙亥
「義経より西国領沙汰の請文至る」
 今日、源九郎義經の返事が京都から来ました。これは、中国九州地方の所領を与えられた御家人の連中に対し、頼朝様の言いつけの通りに、処理しますとの事でした。

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2008年2月18日 (月)

11月26日「頼朝、亡父のため一寺建立を企つ」

「吾妻鏡」元暦元年(1184)11月26日辛亥
「頼朝、亡父のため一寺建立を企つ」
 頼朝様は、お寺を建立するために、鎌倉中の最適地を探されました。幕府事務所の東南の方向に一つの神聖な場所がありました。それなので、寺院の造営をその場所に決められました。これは、亡き父の徳に報いて感謝したいとの願いのためです。但し、京都の新天皇の大嘗祭が終わってから、地曳き(縄張り)を始めるように決められたところ、先月の二十五日にその儀式「源九郎義經がお供をしたようです」は終ったとの事なので、今日犯土(鍬入れ式)を行いました。大江広元と筑後權守俊兼などが指揮をしました。頼朝様は監督をされたようです。

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2008年2月17日 (日)

11月14日「西国所領充て賜りの沙汰を義経に命ず」

「吾妻鏡」元暦元年(1184)11月14日己亥
「西国所領充て賜りの沙汰を義経に命ず」
 左衛門尉宇都宮朝綱・刑部丞左衛門尉成綱を始めとする所領を四国中国九州に与えられた武士達が多く居ます。だからそのことを良く理解して、それぞれに手続きをして与えるように、頼朝様は、その命令書を源廷尉義經の所へ送られたようです。

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2008年2月16日 (土)

10月24日「義経、院の昇殿を許さる」

「吾妻鏡」元暦元年(1184)10月24日己卯
「義経、院の昇殿を許さる」
 因幡守大江廣元〔九月十八日に任命されました。〕が云いました。先月の十八日に源九郎義經が檢非違使の尉の官職はそのままで位を従五位下へ昇進を受け、今月十五日に後白河法皇の院や内裏の殿上へ昇る資格を与えられたようです。その昇殿の式には、五位以上の公卿が乗る八葉模様の牛車に乗り、お供には、近衛府の役人が三人、自分の供の侍が二十人「皆馬に乗る」です。殿上の前庭で喜びを表す儀式の舞を舞い、太刀としゃく(儀式用の木の板)を持って、建物の上へ上がったようです。

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2008年2月15日 (金)

9月28日「季弘所帯職を停めらる」

「吾妻鏡」元暦元年(1184)9月28日甲寅
「季弘所帯職を停めらる」
 先日の九月五日に掃部頭(かもんのかみ)阿部季弘(木曾冠者義仲の祈祷した)は解任されたとの事が、後白河法皇から源九郎義經に通知されました。源九郎義經がそのことを通知してくる手紙が今日鎌倉へ届きました。

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2008年2月14日 (木)

9月14日「河越重頼女、義経に嫁するため上洛す」

「吾妻鏡」元暦元年(1184)9月14日庚子
「河越重頼女、義経に嫁するため上洛す」
 河越太郎重頼の娘が京都へ向かって出発しました。これは源九郎義經に嫁ぐ為です。頼朝様の命令で、前々から約束だ出来ていたのです。河越太郎重頼の家中の家来が二人、身分の低い家来が三十数人お供をして出発したようです。

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2008年2月13日 (水)

9月9日「平信兼以下没官地を義経に管理せしむ」

「吾妻鏡」元暦元年(1184)9月9日乙未
「平信兼以下没官地を義経に管理せしむ」
 出羽前司平信兼入道を始めとする平家一族が住んでいた京都の屋敷の地は、源廷尉義經が管理をするように、頼朝様は命令書を送りました。
 平家が持っていた領地の内の京都の屋敷の地は、未だにどうするか決めていなかったので、だから、一箇所足りと言えど誰にも与えてはいない。
 武士達が勝手にそれを自分の分だと決めていることは、全然命令を下してはいない。すべて、後白河院のご意見によるものだ。
 和泉守信兼の屋敷地は源九郎義經が管理をしなさい。     花押

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2008年2月12日 (火)

8月26日「義經、兼衡・信衡・兼時らを切る」

「吾妻鏡」元暦元年(1184)8月26日壬午
「義經、兼衡・信衡・兼時らを切る」
 源九郎義經様の飛脚が着きました。先日の十日に和泉守信兼の子供の左衛門尉兼衡・次郎信衡・三郎兼時を呼び寄せて、宿舎内でこれを殺しました。翌日の十一日に和泉守信兼は役職を解かれたようです。

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2008年2月11日 (月)

8月17日「義經左衛門少尉に任官のことを報ず」

「吾妻鏡」元暦元年(1184)8月17日癸酉
「義經左衛門少尉に任官のことを報ず」
 源九郎義經様からの使いが到着して言うには、先日の六日に左衛門(皇宮警察)少尉の任官と檢非違使(警察兼裁判官)の宣旨を受けました。私が望んだわけではありませんが、今までの合戰の沢山の手柄を放っても置けないので、当然の褒美だと云われ、辞退出来なかったので受けたとの事でした。しかし、この出来事は、頼朝様のご機嫌を損ねました。源參河守範頼や源武藏守義信達が官職を貰ったのは、頼朝様の意思で推薦したからです。
「頼朝怒り、平家追討使任命を猶予す」
 源九郎義經様の任官については、内々に疑義を申し出た者があったので、安易に推薦しなかったのでしたが、先立って希望したのではないかと疑いを持ちました。頼朝様の意思に反する行動は、今度に限ったことではないので、見せしめに平家追討の將軍は見合わせました(謹慎させ、反省の機会を与えた)との事です。

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2008年2月10日 (日)

8月6日「義経明日任官すべし」

[玉葉]8月6日 晴
「義経明日任官すべし」
 12時ごろ、源雅頼中納言が来。数時間言談した。語りて云く、去る比頼朝納言に還るべきの由、推挙を泰経(大蔵卿、高階)に付け申し上げたようだ。定めて不快の事有るか。恐れを為す。また云く、明日人事異動有るべし。九郎が任官すべしといえり。

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2008年2月 9日 (土)

8月3日「義経に平信兼捜索を命ず」

「吾妻鏡」元暦元年(1184)8月3日己未
「大内の行賞要請を戒め、守護の職掌を説く」
 雨が降っています。大内冠者惟義(3月20日に伊賀国の守護に任命。5月15日志田義広を討ち取る。7月5日平家一族により家来を殺された。8月2日平家残党を滅ぼしたので表彰を望む。)の使者を呼び出し、詳しく書かれた手紙を与えました。その内容は、我々に逆らって戦を仕掛けてきた平家の連中を攻撃したことはとっても偉い。しかし、わざわざ表彰してくれなどと云って来ることは、とんでもない事だ。なぜならば、一国の守護に任命されたならば、揉め事を鎮めるのが仕事である。それなのに先日反逆者たちに部下を殺されたではないか。それは用心が足りないからだ。どうして落ち度でないだろうか。だから表彰の事は私の裁量に任せなさい。と言いつけました。又、別な使者を京都へ出発させました。
「義経に平信兼捜索を命ず」
今回の伊賀の国での武装蜂起は、出羽守信兼のせがれ達の仕業である。しかるにこの者どもは囲みの中から逃げ行方不明のようだ。多分京都市内に潜伏のようだ。かれらを早く探し見つけて、速やかに殺すようにと、源九郎義經に対して命令を出されたようです。安達新三郎が飛脚として出発したようです。

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2008年2月 8日 (金)

7月3日「義経を平氏討伐のため差遣を院に奏す」

「吾妻鏡」元暦元年(1184)7月3日己丑
「義経を平氏討伐のため差遣を院に奏す」
頼朝様は、平宗盛をはじめとする平家一門を追討するために、源九郎義經様を司令官として九州方面へ派遣するように、後白河法皇のもとへ申し上げたようです。

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2008年2月 7日 (木)

6月21日「頼朝、義経の官途吹挙を許さず」

「吾妻鏡」元暦元年(1184)6月21日戊寅
「頼朝、義経の官途吹挙を許さず」
頼朝様は、参河守源範頼・武蔵守平賀義信・駿河守源廣綱達を呼び集めて、乾杯の式をしました。次に人事異動について知らせました。それぞれ皆大喜びでしたようです。特に源九郎義經は官職を与える推薦を希望していましたが、頼朝様はわざとそれを許しませんでした。まず兄弟の順番に蒲冠者範頼様を推薦したので、特にその恩義を喜ばれたようです。

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2008年2月 6日 (水)

4月22日「源光行・伊賀光季、平家与力の罪を許さる」

4月16日 「元暦と改元」
  改元。壽永三年を改め元暦元年と為す。

「吾妻鏡」元暦元年(1184)4月22日庚寅
「源光行・伊賀光季、平家与力の罪を許さる」
源民部大夫光行とその父の豊前々司光季は、平家に味方していた罪を許してほしいと、源九郎義經に詫びの手紙を出したようです。

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2008年2月 5日 (火)

4月10日「頼朝、義仲を追討の賞により正四位下に叙せらる」

「吾妻鏡」寿永3年(1184)4月10日戊寅
「頼朝、義仲を追討の賞により正四位下に叙せらる」
源九郎義經様の使者が京都から到着しました。先月二十七日に朝廷で人事異動があり、頼朝様は正四位下を与えられましたと報告をしました。これは、木曾義仲を追討した手柄の賞なのです。その文書を持ってきました。この六階級特進は、藤原秀衡様が天慶三年三月九日六位から従四位下へ上ったのと同じです。頼朝様は、現在従五位下なのです。あの将門の乱平定の例に合わせたようです。又、忠文(宇治民部卿)の例に合わせて、征夷将軍を与えたほうが良いかと、議題に上りました。しかし、位を飛ばした特進のことは、あの例に合わせてもっともだ。將軍の任命については、天皇から征伐用の太刀を与え、軍監(副将軍の次)や軍曹(軍監の下)に任命された後人事異動を行うべきではないか。今度の人事異動の名簿には載せるのは、初めて任命することになるので、簡単に任命はできないと、公卿たちが議論するので、とりあえず位階を与えようとしたようです。

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2008年2月 4日 (月)

3月2日「重衡、實平の許より義經亭に移す」

「吾妻鏡」寿永3年(1184)3月2日辛卯
「重衡、實平の許より義經亭に移す」
三位中將重衡様は、預かっている土肥次郎實平のもとから源九郎義經様の屋敷へと移されました。土肥次郎實平が西国に派遣されるためである。

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2008年2月 3日 (日)

2月29日「宗盛神器・安徳天皇を上洛せしめんと申す」

[玉葉]2月29日 晴
「良通方詩会」
「宗盛神器・安徳天皇を上洛せしめんと申す」
 九郎は平氏を追討の為、来月一日に西国に向かうべきの由議定が有りました。而るに忽ち延引したようだ。何故かはわからない。或る人が言うには、捕虜となっている平重衡が前の内大臣(宗盛)の許に送らせた使者が、この2・3日に帰参した。大臣(宗盛)は申して云く、かしこまりて承りました。三種の神器並びに主上(天皇)・女院・八條院殿(時子)に於いては、命令の如く入京させましょう。宗盛自身は参入出来ません。讃岐の国(香川県)を与えて安住を保証してください。御共等は清宗(宗盛の子)を上京させますというようです。この事は事実だろうか、若しくはこれに因って追討の延引は有るか。

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2008年2月 2日 (土)

2月25日「頼朝、朝務等四ケ条を奏請す」

「吾妻鏡」寿永3年(1184)2月25日甲申
「頼朝、院司高階泰經を経て朝務等四ケ条を奏請す」
朝廷の政務の事について、頼朝様が考えておられる事を、箇条書きにして大藏卿高階泰經様へ送り渡されたようです。その書かれた言葉には

申し上げます。箇条書きにして。

一 政務の事 
この事は、先々からの規則を守り、特に善政を施すこと。但し、諸国の国司達をきちんと決めてください。関東や北陸道の国には謀反人を追討している間は、農民はいないに等しかった。この春から浮浪している者たちを、それぞれの元の村へ戻し、安心して農業を営めるようにしましょう。そうすれば、来年の秋頃には国司を任命して、徴税することも出来ることになるでしょう。
「畿内近國の武士は義経の命令に従うべし」
一 平家追討の事
この事は、畿内近國で、源氏だ平氏だと云って、武芸を業としている武士たちと、又在住の武士達は、義経の命令に従うように命令を出してください。船が無くて海路は楽ではないけれど、それでも特に急いで追討するように義經に云ってあります。手柄を立てたものへの褒美は、後ほど頼朝が推薦します。
一 諸社の事
我国は、神様を崇拝する国です。昔から宛てられた神様へ寄付した領地は変わりません。その他に今回改めてそれぞれに新しく増加してください。中でも、つい少し前に鹿島神宮の神様が京都へ向かったとお告げがあった後なので、反逆者の平家の追討は神様のご利益はあったものに違いない。今後とも、若しあちこちの神社が壊れたり、倒れたりした時は、修理工事手順に合わせて修理を命じているのですが、出来上がった後は官幣社と認めてください。代々継がれている神事は次第の規則を守って、怠けることなく祈りを勤めるように、特に調べて命令をしてください。
「僧侶の武器を没収すべし」
一 佛寺の間の事
どこの寺もどこの山寺も、僧侶たちは元のように決められたお勤めを手を抜くべきではありません。近頃の僧侶たちは暴力に走って、本来の仏法を忘れて、きちんと徳を積んでいるとは聞かないし、経蔵をあけることもない。一番に禁止することです。しかも又、乱暴で信心の足りない僧侶なぞ、朝廷からの支出を使わせるべきではありません。今から以降は、頼朝の仕事として、僧侶たちの武器を法に任せて没収して、朝廷に敵対する平家を追討する官軍に与えるべきだと思って進言いたします。

以上の箇条書きを申し上げるところはこのとおりです。 寿永3年2月日  源頼朝

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2008年2月 1日 (金)

2月15日「範頼・義經、合戦記録を鎌倉に進ず」

「吾妻鏡」寿永3年(1184)2月15日甲戌
「範頼・義經、合戦記録を鎌倉に進ず」
 午前八時頃に蒲冠者範頼・源九郎義經の伝令が攝津国(大阪府)から鎌倉へ到着し、合戦の記録を差し出しました。その内容は、先日の七日、一の谷合戦で平家の人たちが沢山命を落としました。前内大臣宗盛は船に乗って四国のほうへ逃げました。本三位中將重衡は捕虜にしました。越前三位通盛・薩摩守忠度・經俊は、蒲冠者範頼軍が討ち取り、但馬前司經正・備中守師盛・能登守教經の三人は、遠江守義定の軍が討ち取り、大夫敦盛・武藏守知章・業盛・越中前司盛俊以上四人は源九郎義經の軍が討ち取りました。このほかにも、首を上げること千人以上です。武蔵・相模・下野の軍勢がそれぞれに大きな手柄を立てました。それは追って後から書状にした上で、申し上げることにしたようです。

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