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2008年2月20日 (水)

元暦2年(1185)1月6日「西海向兵粮米輸送を命ず」

「吾妻鏡」元暦2年(1185)1月6日庚寅
「西海向兵粮米輸送を命ず」
 平家を追討するための中国四国九州地方にいる関東武士達は、船も食料も無くて、戦いようがありません。という情報が関東へ通じてきたので、この数日間幕府で評議がありました。船を用意して、戦用の食料米を送るようにと、関東地方の各地へ命令を下された。その事を西国の軍隊に伝えようと、しているところへ、去年の九月に出京し西国へ出かけた源參河守範頼から去年十一月十四日に出発した伝令が今日到着しました。軍事用食料が無くなって、武士達の団結心や戦闘意欲が失い、故郷が恋しくて、殆どが勝手に逃げ帰ろうとしているようです。その他の九州での出来事が書かれています。又、乗馬用の馬を所望しています。この申し出により少し疑問は解消しましたが、下級役職の定遠・信方・宗光を九州へ行かせる事にしました。但し、定遠・信方は京都におりましたので、京都から一緒に行くように宗光に言い聞かせました。宗光は、詳しい手紙を持ちました。その内容は九州での占領統制下の代官としてのやるべき事を書き出してあります。その内容は、
「頼朝、範頼に消息を送る」
 十一月十四日の手紙が、正月六日に到着した。今日こちらから飛脚を出そうと思っていたら、この手紙の飛脚が着いた。伝言したことは詳しく承知しました。九州の連中はどうして従わないのかと思うようなことであっても、いたずらに騒がないで、よくよく落ち着いて対処してください。けっして現地の人達に憎まれないようにしてください。
 馬の事だが、確かにそうするべきではあろうけれども、平家は常に京都へ戻ろうと思って情報収集をしているので、馬を送って、若し横取りでもされて、人に伝わればみっともないことなので送りません。又、内藤六(藤性足利盛家)が周防の遠石庄を横領した事は、以ての外の事である。現在は地元の人達を怒らせないようにする事こそ、大事なのです。
 又、屋島においでの安徳天皇やに二位殿(平時子)や女房たち等、いささかの過ちやなどで、悪いようになることの無いように、お迎えしするようにされたい。そのように伝われば、二位殿などは、安徳天皇をお連れなされて、(あの世に)向かわれるかも知れません。大方は帝王への配慮は、今に始まった事ではないが、木曾義仲は比叡山の明雲と鳥羽の四宮(円恵法親王)を討ち奉ったので、運が尽きて滅びました。平家も又、三條高倉宮以仁王を討ち奉ったので、このように滅びようとしている。そういうことなので、良く考えて、敵を洩らさないようにじっくりと計略を立てて、沈着に処置しなければならない。
 内大臣平宗盛は、とても億病な人なので、自害などはやりはしないだろう。生け捕りにして京都へ連れて上りなさい。さて世の末にも聞くところによれば、いまは少しばかり吉の世である。考えれば考えるほど安徳天皇が心配事です。どのようにしても、何とか無事にうまくやりなさい。大勢の武士たちにも、このことを良く言い含めるようにしなさい。くれぐれも宜しく。
 それから、武士たちに、ぜひとも自分勝手にならないようにく良く詳しく教えなさい。決して九州の人達に憎まれたれしないように、振舞いなさい。関東の軍勢を中心として、九州の者どもも加えて屋島を攻めさせて、急がず沈着に処置しなさい。もう敵は弱くなってしまったと人はいっても、敵を侮るようなことは、絶対にあってはいけない。良く考えて、敵を打ち漏らすことの無いように、よくよく検討をして、事を決定しなさい。なお、念には念を入れて、天皇の事は、何事も無いように計らいなさい。2月十日頃には、ある程度船を上洛させられると思う。
 話は違うが、佐々木三郎盛綱が、九州へ下っていったので、命令してその途中で備前の児島を攻め落とさせました。良く落ち着いて考えて、じたばたしないで、沈着に軍隊を使うように心得なさい。侍たちには、あれだこれだとひそひそ話などをすることによって、他人から見て疎まれてはならない。また、道中で食料などが足りなくなったなどと、京都から方々へ訴えがきているが、それほど大勢の軍隊用食料を持って上洛したわけではないので、どうしてそうならないことがあろうかと思う。関東でも、時に変わったことはないので、騒ぐようなことはありません。詳しいことは使いの役人に言い含めてあります。宜しく。千葉介常胤は、特に戦でも高名を得た人なので、大事にしてください。正月六日 蒲殿

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