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2008年1月26日 (土)

2月7日「一谷合戦に源氏大勝す」

「吾妻鏡」寿永3年(1184)2月7日丙寅
「一谷合戦に源氏大勝す」
 雪が降りました。午前四時頃に、源九郎義經様は、特に強い精兵七十余騎を選び分けて、一の谷の裏山「ひよどり超えと云います」に到着しました。
ここで、武蔵の国の土豪の熊谷次郎直實・平山武者所季重等が、午前六時頃に人目につかないようにこっそりと一の谷の前へ回って、山陽道から平家の建物のそばへ、競争しながら襲撃して、源氏側の一番乗りだぞと、大きな声で名乗ったので、飛騨三郎左衛門尉景綱、越中次郎兵衛盛次、上總五郎兵衛尉忠光、悪七兵衛尉景淸達が廿三騎を引き連れて、防御用の木戸を開いて、熊谷達の軍と戦いあいました。直実の子熊谷小次郎直家は傷を受け、季重の家来は殺されました。
 その後、大手の蒲冠者範頼と足利や秩父、三浦、鎌倉党の軍が競争するようにやってきました。源平の軍隊がお互いに入り乱れて、源氏軍の白旗と平家軍の赤旗が混ざり合って戦う様は、山を響かせて、地を動かすかのようです。さしもの中国の漢王朝成立の立役者の樊會や張良が攻めてさえも、簡単には負けられない勢いです。しかもそればかりか、平家軍の構えは城郭の岩山は高くそびえて、馬の蹄では通りにくく、流れる谷は深山幽谷のようで、人の通った気配さえありません。
 源九郎義經様は、三浦十郎義連を初めとする勇敢な男達を連れ立って、鵯越「この山は猪・鹿・兎・狐以外は通れない険しさです」から攻め寄せたので、状況を測り考える暇も無く敗走したり、又は馬に乗り鞭を当てて一の谷の建物から逃げたり、又は船に乗って出発して四国へ逃げました。
 そして、本三位中將重衡は、明石浦で梶原平三景時・家国たちに捕まり捕虜になりました。越前三位通盛は、湊川の辺りまで逃げて、源三俊綱に殺されました。そのほかに薩摩守忠度朝臣・若狹守經俊・武藏守知章・大夫敦盛・業盛・越中前司盛俊の以上七人は、蒲冠者範頼・源九郎義經の軍が討ち取りました。但馬前司經正・能登守教經・備中守師盛は、遠江守義定の軍が捕虜にしたようです。

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