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2008年1月 8日 (火)

1180年(治承四年)10月21日「義経が奥州より来たり頼朝に会見した」

1180年(治承四年、庚子)

「吾妻鏡」10月21日 庚子
「頼朝、千葉・三浦の諫めに従い軍勢を分けた」
(頼朝は)平左近少將惟盛を追って攻める為に、京都へ行くように武士達に命令した。しかし、千葉介常胤、三浦介義澄、上総權介廣常達が忠告をして、申しました。常陸国の佐竹義政と秀義等は数百の軍兵を擁して、未だに服従していません。中でも、秀義の父の隆義は現在平家に従って京都にいます。その他にも奢れるものが大勢います。だから、関東を平定してから、関西に行くべきですとの事でした。この忠告によって黄瀬川に戻りました。安田三郎義定を守護として遠江国に派遣し、武田太郎信義を駿河の守護として置かれました。
「義経が奥州より来たり頼朝に会見した」
 今日、一人の若者が宿泊所の入口に立って、鎌倉殿にお会いしたと云いました。土肥次郎實平、土屋三郎宗遠、岡崎四郎義實は、怪しく思って取り次がないで、時間が経って行くうちに、頼朝様がこの話を聞いて、年齢を考えると奥州の義経かも知れない。早く対面しようと云いました。そこで、土肥次郎實平はその人を招きました。やっぱり義経でした。直ぐに御前へ進んでお互いに昔を語り、懐かしの涙を流すのでした。中でも、白河上皇の時代の永保三年九月、先祖の陸奥守同朝臣義家が奥州で清原武衡・家衡と合戦をしていました。その時、佐兵衛尉義光は京都に居てこのことを聞き知り、朝廷警護の官職を辞職して、朝廷から授けられている弓弦の袋を投げ出して、奥州へ出向いて兄の軍隊に参加したので、間も無く敵を滅ぼすことが出来ました。今日ここへ来たのは、その良い例に似ていると感動して言われました。この義経は、平治二年に未だ産着の中にいる内に父の死にあった後、継父の一条長成に育てられ、出家させるため鞍馬山に預けられました。成人になった時には、しきりに父の仇討ちを思い立ち、自分で元服をして、秀衡の力を頼って奥州へ出かけ、年月を重ねました。しかし今回頼朝が宿望を遂げようとするのを聞き、出発しようとしたところ、秀衡が強く留めたので、密かに秀衡の館を抜け出した。秀衡は引き留める術を失い、追って秀衡は継信・忠信兄弟という勇士を付けてくれました。
「頼朝、三島社に神領を寄進した」
 夕暮れになって、湯で体を清めて、三島神社へお参りに行きました。願い事が叶ったので、これもひとえに神社のお陰だと信仰深くて、伊豆国のうちの庄園を三島神社の領地として寄附しました。直ぐに本殿の前へ行き寄進状を書きました。その内容は。
伊豆国の御園、河原谷、長崎を三島神社のに寄附いたします。これはご祈祷の効果があったからです。

参考
富士川の合戦について
10月20日に富士川の合戦の記述がある。
「平家物語」「吾妻鏡」には、平家軍は鳥の羽音に驚いて退却したとある。「玉葉」「吉記」(吉田経房の日記)によると副将の進言により前夜に引き払ったようだ。「山槐記」(中山忠親の日記)には鳥の羽音で退却したとの噂話の記述がある。

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