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2008年1月 9日 (水)

1181年 ( 養和元年)7月20日「義経大工の馬を引く」

1181年 (治承5年、7月14日改元 養和元年 辛丑)
「吾妻鏡」7月20日 甲午
「鶴岡若宮上棟、頼朝臨席す」
 鶴岡若宮の社殿の上棟式です。その境内の東方に仮屋を作り、頼朝様が着座しました。御家人達はその南北に座り、携わった技術者達に褒美に馬を与えます。
「義経大工の馬を引く」
しかし、頼朝様が大工の棟梁に与える馬を引く役を義經殿に言いつけたところ、「(上の手綱を私が引くと私は貴方の弟なので)これに見合った下の手綱を引く身分のものがいないのではないか。」と云われました。頼朝様が続けて言われるのには「畠山次郎重忠がいる。次には佐貫四郎広綱がこれをするのだから、何で見合う相手がいないなどと云うのだ。それとも、この役が身分の低いもののやる役だから、文句をつけて渋っているのか。」と云われました。義經殿はとても恐れ入り、直ぐに立って、二頭の馬を引きました。初めの馬の下の手綱を畠山次郎重忠が引き、後の馬の下の手綱を佐貫四郎広綱がひきました。この他には、土肥實平、工藤景光、新田忠常、佐野忠家、宇佐美實政等が引きました。午後四時頃に式典が終わって、頼朝様が引き上げはじめました。
「刺客左中太常澄を捕ふ」
しかし、供の中に今まで見たことの無い人がいて、やたらと後ろへ付こうとします。その背丈は2メートル余りもあり、とても只者ではありません。頼朝様はこれを見つけて、不審に思い立ち止まりました。何かを云おうとする前に下河邊庄司行平がこの男を取り押さえました。御所へ帰った後、庭に引き出しました。渋柿色の直垂の上下の下に腹巻(簡易な鎧の一種)を着けて、髷に札をつけて、これに安房国の長狹六郎常伴の部下で左中太常澄と書かれていました。その様子が不思議だったので、どう云う訳か聞いてみたけれども、事の良し悪しを弁解するつもりは無いので早く切り殺してくれと云いました。下河邊庄司行平が云いました。「死刑になるのは当たり前だけど、その趣旨を知らしていかなければ、お前が何の為に死んだか知る由も無いでのは死ぬ意味が無いではないか。早く話して見なさい。」と云えば、やっと常澄も言いました。「去年の冬、安房国で主人が征伐されてから、部下達は全てが流浪者となって、寝ても覚めてもその苦しさは休まる思いがありませんでしたので、敵を打つ為にお屋敷の辺りに来ていました。敵を打ってもどうせ皆に打たれて死骸となってしまった時に、名前を知って貰う為に髪に名札を付けておりました。」との事です。頼朝様が仰せられるには「理由を糺す必要は無いから、直ぐに死刑にしてしまえ。但し、今日は八幡宮の上棟式なので縁起が悪いので明日にしなさい。と云って、(侍所所司の)梶原景時に預けられました。
「行平貢馬免除の下文を受く」
次に下河邊庄司行平を呼び寄せて云いました。「今日の処置はとても良かった。この手柄の褒美として何か要望を一つ出しなさい。直接に何とかしてあげよう。」下河邊庄司行平は云いました。「これといって大きな望みはありませんけれども、毎年朝廷を税として馬を献上する事が、農民達の負担になっていると嘆いています。」との事でした。頼朝様が仰せられました。「手柄の褒美を要求する時は、官位の昇給か、領地の増加かいずれかなものなのだが、今臨んで云った事は、この場の余興のように思えるけれども、早く要望どおりにしてあげよう。」と云いました。これによって、頼朝様の御前で、命令書を作ってくれました。義勝房成尋が担当しました。

「命令する 下総国下河邊御厨の別当へ
早く、税として馬を献上することを免除すること
下河邊庄司行平に課されている馬の献上
右の通り、下河邊庄司行平に分担されている馬の献上は免除したので、御厨の別当は承知して間違えぬようにすること 命令する」

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