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2008年1月 7日 (月)

義経史

「玉葉」「吾妻鏡」に見る義経

前置き

「玉葉」は九条兼実の日記である。「吾妻鏡」は鎌倉幕府の公式記録とされている。ともに第一級の史料とされ、その記述は全て正しいと信じている人もいる。
 九条兼実は当時右大臣であり、後には太政大臣も勤めたので、その記述に間違いは無いと誤解しているようである。彼は右大臣ではあるが、後白河法皇やその近臣と意見があわず、権力中枢から遠ざけられ、単なるご意見番のような存在であった。しかし権力中枢への復帰に備え、自己及び子孫の参考のために情報を集め記録していた。朝廷の行事は前例を重んじた。前例を参考にして合議していた。当然専門の記録係はいたのであるが、一々記録係に問い合わせるのも面倒である。また火災や盗難などにより記録が紛失する事もある。そのため日記をつけている公家は多かったようであり、吉田中納言の「吉記」なども有名である。ただ「吉記」は紛失のためか断片的である。「玉葉」はほぼ連続しており、800年も無事に保存されたのは奇跡でもある。兼実には当然公式な情報は入らない。知人や友人その他から情報を集めていた。伝聞も多く信用出来ないので、後日確認のためとりあえず記録していた。例えば「頼朝上洛」の伝聞の記述は実際の上洛までに10回くらいある。但し殆ど訂正していない。記述した事が事実とは限らない。また屋敷の近くを平家軍が通過するので、騎馬数を数えさせたら1080騎だった。これを世間の噂では7ないし8千騎とか一万騎としている。「有名無実の風聞かくの如し」と風聞や伝聞の不確かさを確認している。
 「吾妻鏡」はかなり後の北条氏の子孫が北条氏の正当性を強調するため編纂したようであり、当然ながら北条時政の善政を強調し、その他の武将の乱暴狼藉を強調している。ただし義仲が活躍した寿永2年や頼朝が死亡した年などが欠落している。
 正確には義経の登場する場面の前後についても記述しなければならないのだが、とりあえず義経の登場する月日のみ記述する。

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