« 2007年12月 | トップページ | 2008年2月 »

2008年1月

2008年1月31日 (木)

2月13日「平氏の首六条室町より八条河原へに渡し、梟首す」

「吾妻鏡」寿永3年(1184)2月13日壬申
「平氏の首六条室町より八条河原へに渡し、梟首す」
平氏の首を源九郎義經様の六条室町の屋敷に集めました。それは、通盛卿・忠度・經正・教經・敦盛・師盛・知章・經俊・業盛・盛俊等の首です。約束の時間になったので、皆で八条河原へ持って行き、檢非違使の大夫判官仲頼が受け取って、それぞれを長刀に結わえ付けました。また、赤い札「平家の誰それと名前を書いてある」を付けて、獄舎の門へ向かいて、樹木に架けました。見物人たちは市場開催日の様に大勢が集まっていたそうです。

|

2008年1月30日 (水)

2月11日「平氏の首大路を渡すことを定む」

「吾妻鏡」寿永3年(1184)2月11日庚午
「平氏の首大路を渡すことを定む」
 平氏等の首を都大路をさらしながら歩いていくべきであると源氏の蒲冠者範頼源九郎義經二大將軍は、朝廷に伺いをたてました。それなので、関白等大臣の三人と堀川(忠親)亜相(大臣に次ぐ人)が天皇から質問を受けました。この藤原の人たちは朝廷に仕えてずいぶんとなるので、理解しているので優れた結論を出すであろう。あるいは、蒲冠者範頼・源九郎義經の親の敵を討ち憂さを晴らす爲に願い出ている事は、道理が無い訳ではないのか。どちらにしたらよいのか、後白河法皇はよい知恵が出ないので決められないので、旨くやってくださいと、云っていたようです。ようするに意見はまちまちになっていたけれども、両將軍が無理強いに要望するので、しょうがなくて渡すことに決めたようです。勅使の右衛門權佐定長は、何度も朝廷と源氏の屋敷の間を行き来したようです。

|

2008年1月29日 (火)

2月10日「義経等義仲と平氏の首に差あるを欝申す」

[玉葉]2月10日 天晴 
「兼実母遠忌」
「義経等義仲と平氏の首に差あるを欝申す」
 夜に入り蔵人右衛門権佐定長が来て申した。法皇のお言葉に云く、平氏の首等、渡すべきではないの旨お思いである。而るに九郎義経・加羽の範頼等申して云く、義仲の首を渡され、平氏の首を渡されないの條、太だその謂われ無し。何故平氏を渡されないのかの由、殊に不満を申したようだ。この條はいかに協議し申すべしといえり。申して云く、その罪科を論ずるに、義仲と同様ではない。また帝の外戚(がいせき、母方の親類)等である。その身或いは大臣や納言に昇り、或いは近臣となる。誅伐(罪ある者を攻め討つ)を遂げられたと雖も、首を渡されるの條、不義と謂うべし。近くは則ち平治の乱の時、信頼卿の首は渡されざる所であると。
「神爾宝剣なお賊手にあり」
 之に加え、三種の神器は猶残りの賊の手中にある。無為に帰来の条、第一の大事である。もしこの首を渡されば、かの賊等いよいよ恨みの心を励ましむるか。よって傍々その首を渡すべきではない。将軍等は只ひたすらに所存を申すか。詳細を仰せられる上は、何ぞ強ち(あながち)に執り申すだろうか。頼朝は定めてこの旨を承り申さざるか。この上の処置は天皇の定めにあるべしといえり。定長云う、左大臣(経宗)、内大臣(実定)、忠親卿等に問われた。各渡すべきではない由を申し、一同したようだ。
「重衡書札を宗盛に送り剣爾を進上すべしという」
定長叉語りて云う、重衡が申して言うには、書状に使者を副え(重衡の郎従と)、前内府(宗盛)の許に遣わし、三種の神器を乞い取り進上すべしと。この事叶わずと雖も、試みに申請に任せ試さるべしと。

|

2008年1月28日 (月)

2月9日「義経入京す」

「吾妻鏡」寿永3年(1184)2月9日戊辰
「義経入京す」
源九郎義經様が京の都へ入りましたが、お供の人達は幾らもおりません。軍隊は後から追って京へ参るのでしょうか。それは、平氏一族のさらし首を披露行進する段取りを、法皇様へ申し上げる為に、先に飛んできたそうです。

|

2008年1月27日 (日)

2月8日「一谷合戦の子細」

[玉葉]2月8日 天晴 
「一谷合戦の子細」
未明、人走り来たりて云う、式部権の少輔範季朝臣の許より申して云く、梶原平三景時の許より、飛脚を進め申して云く、平氏皆悉く伐ち取りのようだ。その後、12時頃に、定能卿が来た。合戦の詳細を語る。一番に九郎の許より告げ申した(搦手である。先ず丹波城を落とし、次いで一谷を落としたようだ)。次いで加羽の冠者(源範頼)からの案内を申した(大手、浜地より福原に寄せたようだ)。8時頃より10時頃に至るまで、猶一時に及ばず、程無く責め落とされた。多田(源)行綱は山方より寄せ、最前に山手を落としたようだ。大略城中に籠もるの者一人も残らず。但し素より乗船の人々四五十艘ばかり島辺に在るようだ。而るに廻し得るべからず。火を放ち焼死した。疑うに内府(平宗盛)等のようだ。伐ち取る所の輩の連名書が未だ報告無し。仍って進上しないようだ。
「劔璽神鏡の安否未だ聞かず」
三種の神器の安否、同じく以て未だ聞かないようだ。
(注釈)
搦手(からめて)・・・城の裏門を攻める軍勢。
大手(おおて)・・・城の正面に攻めかかる軍勢。

|

2008年1月26日 (土)

2月7日「一谷合戦に源氏大勝す」

「吾妻鏡」寿永3年(1184)2月7日丙寅
「一谷合戦に源氏大勝す」
 雪が降りました。午前四時頃に、源九郎義經様は、特に強い精兵七十余騎を選び分けて、一の谷の裏山「ひよどり超えと云います」に到着しました。
ここで、武蔵の国の土豪の熊谷次郎直實・平山武者所季重等が、午前六時頃に人目につかないようにこっそりと一の谷の前へ回って、山陽道から平家の建物のそばへ、競争しながら襲撃して、源氏側の一番乗りだぞと、大きな声で名乗ったので、飛騨三郎左衛門尉景綱、越中次郎兵衛盛次、上總五郎兵衛尉忠光、悪七兵衛尉景淸達が廿三騎を引き連れて、防御用の木戸を開いて、熊谷達の軍と戦いあいました。直実の子熊谷小次郎直家は傷を受け、季重の家来は殺されました。
 その後、大手の蒲冠者範頼と足利や秩父、三浦、鎌倉党の軍が競争するようにやってきました。源平の軍隊がお互いに入り乱れて、源氏軍の白旗と平家軍の赤旗が混ざり合って戦う様は、山を響かせて、地を動かすかのようです。さしもの中国の漢王朝成立の立役者の樊會や張良が攻めてさえも、簡単には負けられない勢いです。しかもそればかりか、平家軍の構えは城郭の岩山は高くそびえて、馬の蹄では通りにくく、流れる谷は深山幽谷のようで、人の通った気配さえありません。
 源九郎義經様は、三浦十郎義連を初めとする勇敢な男達を連れ立って、鵯越「この山は猪・鹿・兎・狐以外は通れない険しさです」から攻め寄せたので、状況を測り考える暇も無く敗走したり、又は馬に乗り鞭を当てて一の谷の建物から逃げたり、又は船に乗って出発して四国へ逃げました。
 そして、本三位中將重衡は、明石浦で梶原平三景時・家国たちに捕まり捕虜になりました。越前三位通盛は、湊川の辺りまで逃げて、源三俊綱に殺されました。そのほかに薩摩守忠度朝臣・若狹守經俊・武藏守知章・大夫敦盛・業盛・越中前司盛俊の以上七人は、蒲冠者範頼・源九郎義經の軍が討ち取りました。但馬前司經正・能登守教經・備中守師盛は、遠江守義定の軍が捕虜にしたようです。

|

2008年1月25日 (金)

2月5日「源氏両将摂津に到る」

「吾妻鏡」寿永3年(1184)2月5日甲子
「源氏両将摂津に到る」
 午後六時頃に蒲冠者範頼・源九郎義經の両將軍は摂津國(播磨との境の一の谷のそば)に到着しました。七日の午前六時頃に開戦の鏑矢を射あう時間と決めました。正面の大手口の総大将は蒲冠者範頼です。
「一谷合戦の軍勢」
これに従うのは、小山四郎朝政、武田兵衛尉有義、板垣三郎兼信、下河邊庄司行平、長沼五郎宗政、千葉介常胤、佐貫四郎廣綱、畠山次郎重忠、稻毛三郎重成、同四郎重朝、同五郎行重、梶原平三景時、同源太景季、同平次景高、相馬次郎師常、國分五郎胤道、東六郎胤頼、中條藤次家長、海老名太郎、小野寺太郎通綱、曾我太郎祐信、庄司三郎忠家、同五郎廣方、塩谷五郎惟廣、庄太郎家長、秩父武者四郎行綱、安保次郎實光、中村小三郎時經、河原太郎高直、同次郎忠家、小代八郎行平、久下次郎重光を始めとして五万六千騎です。

裏側の搦手の総大将は源九郎義經です。従う人達は、遠江守義定、大内右衛門尉惟義、山名三郎義範、齋院次官親能、田代冠者信綱、大河戸太郎廣行、土肥次郎實平、三浦十郎義連、糟屋藤太有季、平山武者所季重、平佐古太郎爲重、熊谷次郎直實、同小次郎直家、小河小次郎祐義、山田太郎重澄、原三郎淸益、猪俣平六則綱を始めとした二万騎余です。
「両軍三草山の東西に対陣す」
 平家は、この情報を聞いて、新三位中將資盛卿、小松少將有盛朝臣、備中守師盛、平内兵衛尉淸家、惠美次郎盛方を始めとする七千騎余を摂津の國の三草山の西に着きました。源氏は同様に三草山から東へ三里(12km)ほど離れて陣を敷きました。山を挟んで東西に源平が揃いました。源九郎義經殿は、田代信綱や土肥實平と戦の相談をして、夜明けを待たずに夜中のうちに新三位中將資盛卿を襲撃しました。それなので平家は慌てふためいてばらばらに逃げ散ってしまいました。

|

2008年1月24日 (木)

2月2日「樋口次郎さらし首」

「吾妻鏡」寿永3年(1184)2月2日辛酉
「樋口次郎さらし首」
樋口次郎兼光をさらし首にしました。澁谷庄司重國がこれを任されて、家来の平太男に命じました。しかし、うまく首を切れませんでしたので、重國の息子の澁谷次郎高重がこれを切りました。しかし先月二十日の戦で怪我をしていたので、片手で切ったようです。この兼光は、武蔵國児玉党の人達と仲良くしていたので、児玉党の今までの手柄に免じて、樋口次郎兼光の命を預かりたいとお願いをしましたので、源九郎義經はそのことを朝廷に申し上げましたが、罪がとても重いという事で、とうとう許可にはならなかったようです。

|

2008年1月23日 (水)

1月28日 「義経勢史大夫と大夫史を取り違え小槻隆職を追捕す」

[玉葉]1月28日 天晴れ
「隆職追捕さる」
早朝、大夫史隆職(小槻隆職宿祢)が使者を進上して云く、忽ち追捕(ついぶ)され、家中恥辱に及ぶ。これをなす如何。九郎の一族と家来どもの所為のようだ。召し使う人の滅亡を思ふに依り、使いを九郎の許に行かせて、詳細を相知らせる。縦えその身に罪科有りと雖も、当時の狼藉を停止すべきの由である。
「親能頼朝代官として義経を補佐し入洛」
また書状を以て前の源納言(雅頼)の許に示し行かせた。次官親能は彼の納言の家に在り。件の男は頼朝の代官となり、九郎に付き上京された所である。仍って万事の指図を為すの者のようだ。
「義経勢史大夫と大夫史を取り違え小槻隆職を追捕す」
これに因って知らせる為、件の男は彼の納言に示す所である。九郎の返事に云く、この事、平氏が書状を京都に進上した。件の使者は搦め取られた。各々謝礼を持つようだ。その中にこれ有り。左衛門の尉時成の指図として、史大夫の者を召し進上すべきの由、法皇より仰せ下された。仍って相尋ねるの間、大夫史の宅に罷り向かう。次第は乱暴で無法である。狼藉に於いては、早く止むべしと。また納言(雅頼)の返札が到来した。親能は一切知らぬ事の由を申すようだ。叉宰相中将(定能)に相尋ねる処、返事の上、全くご存知無い事のようだ。
「隆職の文庫義経従類に打ち破られ文書を奪わる」
 晩に及び使いを隆職の許に行かせ、詳細を尋ね問う。帰り来て云う。文書等は少々片山里に遣わすと雖も、要須の文書においては併しながら身辺に随う。にわかの尋ねに備えるためである。しかるに文庫の戸を打ち破り、併しながら取られたようだ。凡そ官中の文書、古来只一本書である。然るに肝要を失えば、即ち我が朝の滅亡である。誠に天下の運滅尽の期か。悲しむべし悲しむべし。
(注釈)
追捕(ついぶ)・・・ついふ。ついほ。ついふく。悪者を追いかけて捕らえること。没収。奪い取る。

「吾妻鏡」寿永3年(1184)1月29日己未。

關東の両方の將軍(蒲冠者範頼源九郎義經)は、平家を征伐するために軍勢を引き連れて九州へ向かい、全ての人達が京都を出発したようです。

|

2008年1月22日 (火)

1月27日「義仲誅殺の報鎌倉に到る」

「吾妻鏡」寿永3年(1184)1月27日丁巳
「義仲誅殺の報鎌倉に到る」
未尅(午後二時頃に)安田遠江守義定・蒲冠者範頼・源九郎義經・一條次郎忠頼などの伝令が鎌倉へ着きました。先日の二十日の合戦をして、木曾冠者義仲とその家来達を撃ち殺した事を報告しました。三人の使者は全員(頼朝様の)お呼びによって、北側屋敷の内庭へ来ました。
「頼朝、景時の思慮に感ず」
細かいことを尋ねているところへ、梶原平三景時の伝令がまた着きました。この人は討ち取った敵の死者や捕虜の名簿を持って来ておりました。他の人々の使者が来ましたけれど、記録書面を持ってきていません。梶原平三景時の判断はとても適切であると、何度も感心をされたようです。

|

2008年1月21日 (月)

寿永3年(1184)1月21日「樋口兼光生け捕りとなる」

「吾妻鏡」壽永三年(1184)正月小廿一日辛亥
「樋口兼光生け捕りとなる」
源九郎義經は、木曾冠者義仲の首を獲った事を朝廷に報告しました。今日、夜になって九郎様は義仲の一番の家来の樋口次郎兼光を獲らえました。彼は木曾義仲の使者として石川判官代を攻めるために河内の國に駐屯していました。しかし、石川が逃げてしまったので、空しく手ぶらで京都へ帰ってきました。八幡大渡の辺りで主人が討たれた事を聞きましたが、無駄かも知れないけど、強引に京都へ入った所、源九郎義經の家来達数人が走ってきて戦った末に、これを生捕りました。

|

2008年1月20日 (日)

1月20日「東軍一番手梶原景時」

[玉葉]1月20日 天気晴れ、物忌みなり、
6時頃、人告げて云く、東軍は、すでに勢多に到着した。未だ西地に渡らずのようだ。相次いで人云く、田原の手勢はすでに宇治に到着したようだ。その言葉が未だ終わらざるに、六條川原に武士等が馳走するようだ。仍って人を行かせて見せしむるの処、すでに事実である。
「義広敗績す」
義仲方の軍兵は、昨日より宇治に在り。大将軍は美乃の守義廣のようだ。而るに件の手勢は敵軍の為打ち敗られ、東西南北に散じた。
「東軍入京」
即ち東軍等追い来たりて、大和大路より入京した(九條川原の辺に於いては、一切狼藉無し。最もな神仏のお助けである)。引き返さず六條の末に到着した。義仲の軍勢は元々幾ばくもあらず。。而るに勢多・田原の二手に分けた。その上行家を討伐の為また軍勢を分けた。独身で在京するの間このわざわいに遭う。
「義仲院の御幸を促すも成らず」
先ず法皇御所中に参りお出かけ有るべきの由、すでに御輿を寄せようとと欲するの間、敵軍すでに襲ひ来た。仍って義仲は法皇を棄て奉り、あわてふためき対戦するの間、相従う所の軍兵は僅かに三十四十騎。敵対に及ばざるに依って、一矢も射ず落ちた。
「義仲敗走し近江国粟津にて討たる」
長坂方に懸けようと欲した。更に帰り勢多の手勢に加わらんが為、東に赴くの間、阿波津野の辺に於いて打ち取られたようだ。
「東軍一番手梶原景時」
東軍の一番手、九郎の軍兵は梶原平三のようだ。その後、多く以て法皇の御所の辺に群れ参じたようだ。法皇及びお仕えの者どもは虎口を免がれた。実に三宝の神仏のお助けである。
「義仲の天下六十日」
凡そ日来、義仲の準備では、京中を焼き払い、北陸道に落つべしのようだ。而るにまた一家も焼かず、一人も損せず、独身さらし首にさせられた。天は逆賊を罰した。宜(むべ)なるかな。もっともであるかな。義仲が天下を執る後、六十日を経た。信頼の前例(平治の乱)に比べ、猶そのおそきを思う。
「師家参院すれど追い帰される」
今日、公卿等が参院すと雖も、門中に入れられずのようだ。入道関白(藤原基房)は藤原顕家を以て使者と為し、両度上書(じょうしょ)した。共に答え無し、又甘摂政(藤原師家)は顕家の車に乗り参入した。追い帰されたようだ。弾指すべし、弾指すべし。私は風病に依り参入せず。大将又病悩。よつて参らず。恐ろしや恐ろしや。
(注釈)
上書(じょうしょ)・・・意見を書いて書状を差し出すこと。

|

2008年1月19日 (土)

壽永3年(1184)1月20日「範頼・義經、義仲討伐のため上洛す」

「吾妻鏡」壽永三年(1184)正月小廿日庚戌
「範頼・義經、義仲討伐のため上洛す」
範頼、義經が頼朝の使者として数万騎の軍隊を引き連れて入京しました。これは義仲を追討するためです。今日、源參河守範頼は勢田の大橋から京都へ入り、源九郎義經は宇治道から京都へ入る。木曽、志田三郎先生義広・今井四郎兼平以下の軍兵をもち、かの両道において防戦したが、皆もって敗北した。
蒲冠者範頼・源九郎義經は河越太郎重頼・その長男小太郎重房・佐々木四郎高綱・畠山次郎重忠・澁谷庄司重國・梶原源太景季達を連れて六条殿へ走って行き、法皇の御所を護衛しました。
「義仲戦死す」
その間に、一條次郎忠頼以下の勇士達は、あちこちへ競って走りました。そして遂に近江の国粟津の辺りで、相摸國の石田次郎為久に、木曾冠者義仲を殺させました。その他に錦織義廣等は逃亡したようです。
(没年記事)
 征夷大将軍従四位下行伊予の源朝臣義仲「年三十一」東宮帯刀長義賢の男子
 寿永二年(1183)八月十日左馬頭に任命。越後の守を兼任して従五位下を受ける。同十六日伊予の守へ転任。
 十二月十日に左馬頭を辞任。同十三日には従五位上を受ける。同様に正五位下を受ける。
 元暦元年(1184)正月六日従四位下を受ける。十日には征夷大将軍に任命された。

 檢非違使右衛門權少尉源朝臣義廣 伊賀の守義經の男子
 寿永二年(1183)十二月二十一日右衛門權少尉に任命。「元は無位無官」檢非違使の宣旨を戴きました。

|

2008年1月18日 (金)

壽永三年(1184)1月13日「九郎の勢僅かに千余騎」

[玉葉]壽永三年(1184)1月13日 天晴
「九郎の勢僅かに千余騎」
今日明け方より午後2時ごろに至り、義仲は東国に下向の事、有無の間変々七八度、遂に以て下向せず。これ近江に遣わす所の郎従が飛脚を以て申して云く、九郎の勢は僅かに千余騎のようだ。敢えて義仲の勢に敵対すべからず。仍って忽ち御下向有るべからずと。これに因って下向は延引したようだ。
「平氏入洛せざる三つの由緒」
平氏今日入京すべき一定の処、然らざる條三つの由緒が有るようだ。
一は義仲は法皇をお連れなさり、北陸に向かうべき由が風聞の故、
二は平氏は武士を丹波の国に派遣し、郎従等を招集させた。仍って義仲また軍兵を派遣し相防がせた。然る間、平氏は和平を決定した。仍って事が決定の後、飛脚を遣わし引き退くべき由仰せ遣わす処、猶合戦を企て、平氏方の郎従十三人の首すでにつるしたようだ。茲に因って心を置き遅怠した。
三は行家は渡野陪(わたのべ)に出で逢いて、一矢射るべきの由を称したようだ。この事に因って遅延した。
縦横の説信じ取り難しと雖もデマに非ずに依りこれを記録した。

|

2008年1月17日 (木)

12月1日 「大江公朝頼朝代官に義仲乱逆の次第を告ぐ」

[玉葉]12月1日 天気晴れ、
今朝、女房が最吉の夢あり。天下の穢れ気に依り、般若心経は書かず。件の写は春日神社のお供えの為である。よって穢れの限りを過ぎ書き奉るべきである。
「大江公朝頼朝代官に義仲乱逆の次第を告ぐ」
伝聞、去る21日法皇の北面に仕える下級役人2人(大江公友)が伊勢の国に到着し、乱逆の次第を頼朝の代官(九郎並びに斎院次官親能等である)に告げ示した。たちまち飛脚を頼朝の許へ差し遣わした。彼の帰来を待ち、命に随い入京すべし。当時九郎の勢は僅かに500騎、その外伊勢(三重県)の国人(在地の武士)等多く相従うようだ。又和泉(大阪府南部)の守平信兼同じく以て味方したようだ。信性闍梨が帰来した。比叡山より法印(慈円)の返事を示した。先日私の使となり登山する所である。
(注釈)
斎院(さいいん)・・・賀茂神社に奉仕した未婚の皇女の居所。
闍梨(じゃり)・・・阿闍梨(あじゃり)?。僧位の一つ。

|

2008年1月16日 (水)

11月15日「義仲頼朝代官の入京を承伏す」

[玉葉]11月15日 天気晴れ、
晩に及び宰相(藤原定能)中将が来た。法皇御所中の事を語る。武士の守護は、ひましに怠らないようだ。法皇御所中の上下の人々或るいは受けず、或いは感心し、両様のようだ。又云う、頼朝の代官九郎、入京すべきや否や、頗る豫議有り。大略は進上する所の物並びに使者等、帰国すべき様其の指図有り。
「義仲頼朝代官の入京を承伏す」
然るの間又議案が出で来た。澄憲を以て重ねて義仲の許へ仰せ遣わされるの処、其の勢幾ばくも無いのならば、入京を許されるべき由、ねがいに承伏したようだ。又云う、只今主典代景能が来たり入る(頼朝の許に派遣された所の御使いなり)。此の一両日入京したようだ。よって頼朝の報奏の趣を問う処、大略御返事を申すに及ばず、専ら悦ばざる様子有り。詳細に於いては、始めの御使い(庁官康直)に申した。今の仰せ只前と同じである。早く帰参すべしと。敢えてもてなしの気配は無く、殆ど憤りと謂ふべきかのようだ。

|

2008年1月15日 (火)

11月10日「頼朝の使い九郎近江に在り」

[玉葉]11月10日 天気陰、午後雨下る、
「方違」
「北斗堂供養」
「頼朝の使い九郎近江に在り」
伝聞、頼朝の使い供物に於いて江州に到着した。九郎猶近江に在るようだ。澄憲法印を以て御使いと為し、義仲の許に遣わし、頼朝の使いの入京は、不安あるべからずの由と。悦ばずの様子有りと雖も、ねがいに承諾のようだ。勢が少なきに於いては、あながちに相防ぐべきでもない由申さしめたようだ。

|

2008年1月14日 (月)

11月7日「義経上京其の勢僅か56百騎」

[玉葉]11月7日 天気陰、晩に及び雨下る、
「義仲を院中警護の人数に入る」
伝聞、義仲は征伐されるべき由により、殊に用心し心配の余り、此の如く承り及ぶ由、法皇に申し上げさせたようだ。よって法皇御所中の警護の武士中に入れられ申したようだ。行家以下、皆悉く其の宿直を勤仕した。しかるに義仲一人其の人数から漏れる由、殊に奇を成すの上、又両者の間に立って告げ口する者が有るようだ。行家は明夕に下向が必定のようだ。
「義経上京其の勢僅か56百騎」
頼朝の代官が今日江州に到着したようだ。其の勢僅か56百騎のようだ。忽ち合戦の儀を存せず。只物を法皇に差し上げるための使いのようだ。次官中原親能(広季の子)並びに頼朝の弟(九郎)等が上京したようだ。
「梅宮祭の弊河原より立つ」
「院の返札あり」

|

2008年1月13日 (日)

11月3日「義経以下5千騎上京か」

[玉葉]11月3日 癸巳 天晴 
両息子を伴い堂に向かう、師景文書の事を指図した。
「義経以下5千騎上京か」
伝聞、頼朝の上京の決定は延引した。其の弟九郎冠者、五千騎の勢を副えて上京せしむべしのようだ。然れども猶以て不定のようだ。
「北斗堂」
来る10日北斗堂を供養せらるべし(蓮華王院内のようだ)

|

2008年1月12日 (土)

11月2日「頼朝、弟義経を遣わしむ」

[玉葉]11月2日 天気晴れ、
「頼朝去月鎌倉城を出るも上洛を停止し、弟義経を遣わしむ」
伝聞、頼朝は去る月5日鎌倉の城を出で、すでに京に上り、旅館に宿すこと三ケ夜に及ぶ。
しかるに頼盛卿の行向かひ議定あり、食糧や牛馬の飼料等叶うべからずにより忽ち上京を停止し、本城に帰り入りました。
其の替り九郎御曹司(誰人か、聞き尋ねるべし)が出立し、すでに上洛させたようだ。
ある人云う、今日義仲が法皇御所に参るようだ。

|

2008年1月11日 (金)

1183年(壽永二年)閏10月17日「頼朝弟上洛という」

1183年 (壽永二年 癸卯)
[玉葉]閏10月17日 戊寅 天陰 
「義仲院への申状」
静賢法印が内密に告げ送り言いました。昨日義仲が法皇御所に参り、申し上げた。平氏は一旦勝ちに乗ると雖も、始終不安に及ぶべきではない。九州の者ども、味方すべきではない由の命令を遣はした。又山陰道の武士等、併しながら備中(岡山県西部)の国に在り。更に恐れ及ぶべきではないと。
「頼朝弟上洛という」
又頼朝の弟九郎(源の義経、実名知らず)、大将軍となり、数万の軍兵を統率し、上京を企てる由、承り及ぶ所である。其の事を防ぐため、急ぎ上洛する所である。もし事一定たらば行向かうべし。実でないならば此の限りに非ず。今二三日内、其の指図を承るべしということである。以上が義仲の申し状である。只今外聞に及ぶべきではない。密かに告げ申す所であると。平氏の不安有るべきでは無い由申しあげるの条、甚だ以て大言壮語の事か。
「秀衡東西より頼朝を攻むべき旨を義仲に示すという」
ある人云う、頼朝の家来等が多く以て秀衡の許へ向かう。依って秀衡は頼朝の士卒に異心有りの由を知り、内々飛脚を以て義仲に連絡した。この時東西より頼朝を攻めるべしの由であるようだ。此の告げを得て、義仲は戦をしないで、迷いながら帰京したようだ。此の如き事は実否は知り難き事か。

|

2008年1月10日 (木)

「吾妻鏡」11月5日 「義兼、義經ら遠江発向を延ばす」

「吾妻鏡」11月5日 丁丑
「義兼、義經ら遠江発向を延ばす」
 足利上総介義兼、源九郎義經、土肥次郎實平、土屋三郎宗遠、和田太郎義盛などが、平惟盛の攻撃を迎え撃つために、遠江(静岡県西部)へ出発しようとしたところ、佐々木源三秀義が云うには、例の平惟盛は現在近江(滋賀県)にいますが、それからのこちらへ向かっている様子は分かりません。叔父の十郎蔵人行家が尾張(愛知県)に陣を張っているので構えるようにさせよう。そうすれば、あわてて出発しなかったとしても、さほど問題はないと思う。そこで延期したようです。

|

2008年1月 9日 (水)

1181年 ( 養和元年)7月20日「義経大工の馬を引く」

1181年 (治承5年、7月14日改元 養和元年 辛丑)
「吾妻鏡」7月20日 甲午
「鶴岡若宮上棟、頼朝臨席す」
 鶴岡若宮の社殿の上棟式です。その境内の東方に仮屋を作り、頼朝様が着座しました。御家人達はその南北に座り、携わった技術者達に褒美に馬を与えます。
「義経大工の馬を引く」
しかし、頼朝様が大工の棟梁に与える馬を引く役を義經殿に言いつけたところ、「(上の手綱を私が引くと私は貴方の弟なので)これに見合った下の手綱を引く身分のものがいないのではないか。」と云われました。頼朝様が続けて言われるのには「畠山次郎重忠がいる。次には佐貫四郎広綱がこれをするのだから、何で見合う相手がいないなどと云うのだ。それとも、この役が身分の低いもののやる役だから、文句をつけて渋っているのか。」と云われました。義經殿はとても恐れ入り、直ぐに立って、二頭の馬を引きました。初めの馬の下の手綱を畠山次郎重忠が引き、後の馬の下の手綱を佐貫四郎広綱がひきました。この他には、土肥實平、工藤景光、新田忠常、佐野忠家、宇佐美實政等が引きました。午後四時頃に式典が終わって、頼朝様が引き上げはじめました。
「刺客左中太常澄を捕ふ」
しかし、供の中に今まで見たことの無い人がいて、やたらと後ろへ付こうとします。その背丈は2メートル余りもあり、とても只者ではありません。頼朝様はこれを見つけて、不審に思い立ち止まりました。何かを云おうとする前に下河邊庄司行平がこの男を取り押さえました。御所へ帰った後、庭に引き出しました。渋柿色の直垂の上下の下に腹巻(簡易な鎧の一種)を着けて、髷に札をつけて、これに安房国の長狹六郎常伴の部下で左中太常澄と書かれていました。その様子が不思議だったので、どう云う訳か聞いてみたけれども、事の良し悪しを弁解するつもりは無いので早く切り殺してくれと云いました。下河邊庄司行平が云いました。「死刑になるのは当たり前だけど、その趣旨を知らしていかなければ、お前が何の為に死んだか知る由も無いでのは死ぬ意味が無いではないか。早く話して見なさい。」と云えば、やっと常澄も言いました。「去年の冬、安房国で主人が征伐されてから、部下達は全てが流浪者となって、寝ても覚めてもその苦しさは休まる思いがありませんでしたので、敵を打つ為にお屋敷の辺りに来ていました。敵を打ってもどうせ皆に打たれて死骸となってしまった時に、名前を知って貰う為に髪に名札を付けておりました。」との事です。頼朝様が仰せられるには「理由を糺す必要は無いから、直ぐに死刑にしてしまえ。但し、今日は八幡宮の上棟式なので縁起が悪いので明日にしなさい。と云って、(侍所所司の)梶原景時に預けられました。
「行平貢馬免除の下文を受く」
次に下河邊庄司行平を呼び寄せて云いました。「今日の処置はとても良かった。この手柄の褒美として何か要望を一つ出しなさい。直接に何とかしてあげよう。」下河邊庄司行平は云いました。「これといって大きな望みはありませんけれども、毎年朝廷を税として馬を献上する事が、農民達の負担になっていると嘆いています。」との事でした。頼朝様が仰せられました。「手柄の褒美を要求する時は、官位の昇給か、領地の増加かいずれかなものなのだが、今臨んで云った事は、この場の余興のように思えるけれども、早く要望どおりにしてあげよう。」と云いました。これによって、頼朝様の御前で、命令書を作ってくれました。義勝房成尋が担当しました。

「命令する 下総国下河邊御厨の別当へ
早く、税として馬を献上することを免除すること
下河邊庄司行平に課されている馬の献上
右の通り、下河邊庄司行平に分担されている馬の献上は免除したので、御厨の別当は承知して間違えぬようにすること 命令する」

|

2008年1月 8日 (火)

1180年(治承四年)10月21日「義経が奥州より来たり頼朝に会見した」

1180年(治承四年、庚子)

「吾妻鏡」10月21日 庚子
「頼朝、千葉・三浦の諫めに従い軍勢を分けた」
(頼朝は)平左近少將惟盛を追って攻める為に、京都へ行くように武士達に命令した。しかし、千葉介常胤、三浦介義澄、上総權介廣常達が忠告をして、申しました。常陸国の佐竹義政と秀義等は数百の軍兵を擁して、未だに服従していません。中でも、秀義の父の隆義は現在平家に従って京都にいます。その他にも奢れるものが大勢います。だから、関東を平定してから、関西に行くべきですとの事でした。この忠告によって黄瀬川に戻りました。安田三郎義定を守護として遠江国に派遣し、武田太郎信義を駿河の守護として置かれました。
「義経が奥州より来たり頼朝に会見した」
 今日、一人の若者が宿泊所の入口に立って、鎌倉殿にお会いしたと云いました。土肥次郎實平、土屋三郎宗遠、岡崎四郎義實は、怪しく思って取り次がないで、時間が経って行くうちに、頼朝様がこの話を聞いて、年齢を考えると奥州の義経かも知れない。早く対面しようと云いました。そこで、土肥次郎實平はその人を招きました。やっぱり義経でした。直ぐに御前へ進んでお互いに昔を語り、懐かしの涙を流すのでした。中でも、白河上皇の時代の永保三年九月、先祖の陸奥守同朝臣義家が奥州で清原武衡・家衡と合戦をしていました。その時、佐兵衛尉義光は京都に居てこのことを聞き知り、朝廷警護の官職を辞職して、朝廷から授けられている弓弦の袋を投げ出して、奥州へ出向いて兄の軍隊に参加したので、間も無く敵を滅ぼすことが出来ました。今日ここへ来たのは、その良い例に似ていると感動して言われました。この義経は、平治二年に未だ産着の中にいる内に父の死にあった後、継父の一条長成に育てられ、出家させるため鞍馬山に預けられました。成人になった時には、しきりに父の仇討ちを思い立ち、自分で元服をして、秀衡の力を頼って奥州へ出かけ、年月を重ねました。しかし今回頼朝が宿望を遂げようとするのを聞き、出発しようとしたところ、秀衡が強く留めたので、密かに秀衡の館を抜け出した。秀衡は引き留める術を失い、追って秀衡は継信・忠信兄弟という勇士を付けてくれました。
「頼朝、三島社に神領を寄進した」
 夕暮れになって、湯で体を清めて、三島神社へお参りに行きました。願い事が叶ったので、これもひとえに神社のお陰だと信仰深くて、伊豆国のうちの庄園を三島神社の領地として寄附しました。直ぐに本殿の前へ行き寄進状を書きました。その内容は。
伊豆国の御園、河原谷、長崎を三島神社のに寄附いたします。これはご祈祷の効果があったからです。

参考
富士川の合戦について
10月20日に富士川の合戦の記述がある。
「平家物語」「吾妻鏡」には、平家軍は鳥の羽音に驚いて退却したとある。「玉葉」「吉記」(吉田経房の日記)によると副将の進言により前夜に引き払ったようだ。「山槐記」(中山忠親の日記)には鳥の羽音で退却したとの噂話の記述がある。

|

2008年1月 7日 (月)

義経史

「玉葉」「吾妻鏡」に見る義経

前置き

「玉葉」は九条兼実の日記である。「吾妻鏡」は鎌倉幕府の公式記録とされている。ともに第一級の史料とされ、その記述は全て正しいと信じている人もいる。
 九条兼実は当時右大臣であり、後には太政大臣も勤めたので、その記述に間違いは無いと誤解しているようである。彼は右大臣ではあるが、後白河法皇やその近臣と意見があわず、権力中枢から遠ざけられ、単なるご意見番のような存在であった。しかし権力中枢への復帰に備え、自己及び子孫の参考のために情報を集め記録していた。朝廷の行事は前例を重んじた。前例を参考にして合議していた。当然専門の記録係はいたのであるが、一々記録係に問い合わせるのも面倒である。また火災や盗難などにより記録が紛失する事もある。そのため日記をつけている公家は多かったようであり、吉田中納言の「吉記」なども有名である。ただ「吉記」は紛失のためか断片的である。「玉葉」はほぼ連続しており、800年も無事に保存されたのは奇跡でもある。兼実には当然公式な情報は入らない。知人や友人その他から情報を集めていた。伝聞も多く信用出来ないので、後日確認のためとりあえず記録していた。例えば「頼朝上洛」の伝聞の記述は実際の上洛までに10回くらいある。但し殆ど訂正していない。記述した事が事実とは限らない。また屋敷の近くを平家軍が通過するので、騎馬数を数えさせたら1080騎だった。これを世間の噂では7ないし8千騎とか一万騎としている。「有名無実の風聞かくの如し」と風聞や伝聞の不確かさを確認している。
 「吾妻鏡」はかなり後の北条氏の子孫が北条氏の正当性を強調するため編纂したようであり、当然ながら北条時政の善政を強調し、その他の武将の乱暴狼藉を強調している。ただし義仲が活躍した寿永2年や頼朝が死亡した年などが欠落している。
 正確には義経の登場する場面の前後についても記述しなければならないのだが、とりあえず義経の登場する月日のみ記述する。

|

2008年1月 5日 (土)

木曽町福島紀行

木曽町福島紀行

木曽義元の墓
(木曽町福島沼田野)
Img_1599





木曽義元の墓
(木曽町福島沼田野)
Img_1603





木曽義元の墓
(木曽町福島沼田野)
Img_1604





真理姫供養塔
(木曽町大通寺)
武田信玄の娘で、木曽義昌に嫁いだ。
Img_1619





大通寺
(木曽町福島)
Img_1621

|

« 2007年12月 | トップページ | 2008年2月 »