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2007年6月29日 (金)

十一.安田義定や仁科盛家などの動向

 入京後、義仲は京中守護に任命され、保田(安田)三郎義定は一條北より、東洞院東より、会坂に至る。仁科次郎盛家は鳥羽四至内を担当している。参照「吉記」寿永二年七月三十日。これを「吾妻鏡」では義仲、義定は頼朝の代官として入京したものとしている。
 京都入京後、市内の警備を命じられた武将は次の通りである。
源三位入道子息・・・馬場源氏。頼政の孫。右衛門尉有綱
高田四郎重家・泉次郎重忠・・・尾張源氏。尾張の国の住人
葦数太郎重隆・・・尾張源氏。尾張の国の住人。佐渡の守。
出羽判官光長・・・美濃源氏。検非違使。(伯耆の守)
保田三郎義定・・・甲斐源氏。(遠江守)
村上太郎信国・・・信濃源氏村上系。右馬助  
山本兵衛尉義経・・・近江源氏、甲斐源氏。(伊賀の守、若狭の守)
甲斐入道成覺(義兼法師)・・・近江源氏、       
仁科次郎盛家・・・信濃領主、平姓。左衛門尉
 いずれも京都近国の武将が多いが、義仲軍入京の時、同時に入京したようだ。仁科次郎盛家や村上太郎信国は義仲と同一行動していたか、当時京都の警備の当番で在京であったが、平家と西国へ行かず、義仲軍に合流した。その後、市内の乱暴狼藉は軍勢が多すぎるのが原因とする法皇方の意見により、京都近国の武将の兵は一部の警備兵以外は本国へ帰還したようだ。また義仲軍も西国での敗戦により若干の軍勢が減少した。
 安田三郎義定は富士川の合戦の後、遠江の守護に任命された。義仲の入京と同じく頼朝の代官として入京したことになつている。平家物語や吾妻鏡によると、富士川の合戦において平家軍は鳥の羽音を源氏軍の襲来と勘違いして、混乱し退却したことになつている。「山槐記」にもその風聞が記述されている。「玉葉」や「吉記」の著者は事情を詳細に調査したようで、武田方は四万騎、平家方は四千騎でさらに武田方に寝返る者があり、平家方は二千騎以下となり、副将の平忠清の意見により、撤退すべきとなったようである。富士川の合戦の前に武田方と敵対し敗退したようである。
 村上太郎信国は法皇方に付き、法住寺合戦の時討たれたようだ。合戦の後、仁科盛家は解官されているので、合戦後に義仲離反を決めたようだ。義定はこの時期に名前が無く、「吾妻鏡」の一一八四年 (壽永三年)二月五日には義経の平家追討軍に従っているので、法住寺合戦の前に離反し頼朝に追従したようだ。しかし後に他の多くの武将と同じく謀反の疑いをかけられ殺害された。

十二.合戦の人数

 平家物語では、法皇方が法住寺御所に二万人を集めた。義仲軍は七千騎で攻めたとなっているが、例の軍記物語の特徴でおおげさな表現による。実際は多分、十分の一の法皇側が二千人と義仲軍が七百騎程度だろう。「愚管抄」でも木曽軍は千騎の内五百騎が押し寄せたとなつている。入京時、五千騎(平家物語などでは五万騎)ほどだった木曽義仲連合軍も一部は引き上げ、更に「水島の合戦」で一部減少し、更に法皇側に追従したものなどがあり、総兵力は千騎程度に減少していたようである。法皇側は御所の警備兵たる近衛府などの兵士、比叡山延暦寺の僧兵(寺の警備兵)、三井寺の僧兵、民兵(京都市民の応募者など)、義仲軍からの寝返り組などで、二千人をかき集めたようである。

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