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2007年6月22日 (金)

4.「平治・治承と異なり今度の乱は義仲一人の最たり」

4.「平治・治承と異なり今度の乱は義仲一人の最たり」

 「玉葉」1184年(寿永3年、元歴元年)1月25日「逆賊朝務を執りて後の叙位等無効とすべし」「平治・治承と異なり今度の乱は義仲一人の最たり」「君臣共に幼稚、未だ成人の量に及ばず。」
 法住寺合戦の後、義仲は逆賊だから、義仲の推薦により任命された人事などは無効にすべきだと主張している。平治とは平治の乱の例、治承とは清盛のクーデターの例と比較している。黒幕の次兄の基房の責任が藤原一門の我が身に及ぶ可能性がある。君臣共に幼稚、未だ成人の量に及ばず。天皇は4才(後鳥羽天皇)で、摂政は12才の藤原師家(基房の子)で責任はとれない。責任は義仲におしつけよう。しかし意外にも義仲の意見が公家身分に与えた影響は少なかったようである。合戦の後、任命されたり昇任した公家は多いが、義仲の敗死後に解官されたり降任された例は少ない。師家のみが解官されている。基房と師家親子のみが責任をとらされたようである。多分、基房や義仲の一存でなく、合戦の後任命されたり昇任した公家などと合議の上決定されたものだろう。
 「愚管抄」も事実のみを淡々と記録している。法皇の近臣が義仲に対抗して兵を集めたので、義仲がこれを排除したようだ。義仲は以後の政治的処理を基房に託したようだ。著者の慈円は兼実の弟で、基房は兄である。兄を悪役とは書きにくい。兄の基房の不始末の責任が同じ藤原一門の兄の兼実や自分にふりかかるのは避けたい。

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