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2007年6月21日 (木)

3.「義仲の天下六十日」「天は逆賊を罰す」

3.「義仲の天下六十日」「天は逆賊を罰す」

 [玉葉]十二月一日「大江公朝頼朝代官に義仲乱逆の次第を告ぐ」伝聞、去る二十一日法皇の北面に仕える下級役人二人(大江公友)が伊勢の国に到着し、乱逆の次第を頼朝の代官(九郎並びに斎院次官親能等である)に告げ示した。たちまち飛脚を頼朝の許へ差し遣わした。彼の帰来を待ち、命に随い入京すべし。
 「玉葉」1184年(寿永3年、元歴元年)1月20日「義仲敗走し近江国粟津にて討たる」。「義仲の天下六十日」。「義仲天下を執る後、六十日を経たり。信頼の前蹤(ぜんしょう、前例)に比べ、猶その晩(ばん、おそい)きを思う。」「天は逆賊を罰す」「凡そ日来、義仲の準備では、京中を焼き払い、北陸道に落つべしのようだ。而るにまた一家も焼かず、一人も損せず、独身さらし首にさせられた。天は逆賊を罰した。宜(むべ)なるかな。もっともであるかな。」
 義仲の天下は六十日だった。信頼とは、平治の乱の敗者側の公家で藤原信頼である。次兄の藤原基房がこれに対応するのだろうか。武家の義仲と比較するのなら、何故、平治の乱の武家の義朝や清盛のクーデターの例が出ないのだろう。やはり黒幕は次兄の基房と考えていたようだ。義仲敗北後、公家で変更があったのは基房の子の師家が摂政を解官され、前摂政の基通は、合戦のとき逃亡したが復活した。参照1183年(壽永二年)11月19日 「基通宇治の方に逃げる」1184年(寿永3年、元歴元年)1月21日「基通摂政に還補せらる」。
 また、「義仲の準備では、京中を焼き払い、北陸道に落つべしのようだ。而るにまた一家も焼かず、一人も損せず、」とあるように、義仲は京都から退却するとき、京都を焼き払うといううわさだったが、そのような事はなく、放火や略奪は無かった。平家のように放火し、はやばやと退却したので、京都市内は略奪と放火の大混乱になったが、義仲の場合はそのような混乱はなかった。
 「義仲はこれ天の不徳の君を誡むる使い」との一部の記述のみで、兼実は義仲の擁護者と誤解している人も義仲の敗死を「天は逆賊を罰す」と断じている記述を見れば誤解と納得するだろう。後日、義仲や義経を回顧する記述があるが、いずれも義仲や義経の乱逆とか反逆と記述している。

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