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2007年6月 3日 (日)

11月25日「熊谷直實・久下直光対決す」

11月25日 甲午 白雲飛散す、午以後霽に属す
「熊谷直實・久下直光対決す」
 早朝、熊谷次郎直實と久下(くげ)権の守直光と、御前に於いて論議に一つの決論を出しました。これ武蔵の国熊谷・久下の境堺の争論の事である。直實は武勇に於いては一人当千の名を施すと雖も、対決に至っては再度十を知るの才能が不足しています。頗る御疑惑をはらむに依って、将軍家が度々尋問なさる事が有りました。時に直實申して云く、この事は梶原平三景時が直光をひいきするの間、前もってに道理を申し入るの由か。仍って今直實頻りに下問に預かるものである。御成敗の処、直光は定めて愁眉を開くべし。その上は理運の文書は必要無し。左右に能わずと称し、未だ事が終えないのに、手道具・文書等を巻き御壺中に投げ入れ座を起ちました。
「直實剃髪逐電す」
 猶いきどおり怒りに堪えず、西侍に於いて自ら刀を取り、もとどりを除いた。言葉を吐いて云く、殿の御侍へ登りはてと。則ち南門を走り出で、私宅に帰るに及ばず急に行方をくらまし逃げました。将軍家殊に驚きなされました。或る説に、西を指し駕で馳けた。若しくは京都の方に赴いたようだ。則ち下級役人等を馳せ遣わし、相模・伊豆の所々並びに箱根・走湯山等に於いて、直實が前途を遮って、遁世の儀を止むべきの由、御家人及び衆徒等の中に仰せ遣わされました。
 直光は直實の母の姉妹の夫である。そのよしみに就いて、直實は先年直光の代官として、京都の大番に勤仕せしむるの時、武蔵の国の同僚等の同役を勤め在京した。この間各々人々代官を以て、直實に対し無礼を現わした。直實その不満を散ぜんが為、新中納言知盛卿に従属し多年を送りました。あからさまに関東に下向するの折節、石橋合戦が有りました。平家の味方として源家を射ると雖も、その後また源家に仕え、度々戦場に於いて勲功をあげました。而るに直光を棄て新黄門(知盛)の家人に列するの條、かねてからのうらみの基として、ひごろ境堺の違乱に及ぶと。
「永福寺供養」
 今日永福寺の供養である。曼陀羅供有り。導師は法務大僧正公顕と。前の因幡の守廣元が行事である。導師・請僧の施物等は勝長壽院の供養の儀式に同じ。布施取り十人を採用された。また導師の加布施銀劔は、前の少将時家これを取る。将軍家が御出でである。
  先陣の随兵
    伊澤の五郎信光          信濃の三郎光行
    小山田の三郎重成         渋谷の次郎高重
    三浦左衛門の尉義連        土肥の彌太郎遠平
    小山左衛門の尉朝政        千葉の新介胤正
  将軍家
    小山の七郎朝光御劔を持つ
    佐々木三郎盛綱御甲を着す
    勅使河原の三郎有直御調度を懸く
  御後の供奉人(各々布衣)
    「武蔵の守(大内)義信」           参河の守(源)頼範
    遠江の守(安田)義定           上総の介(足利)義兼
    相模の守(大内)惟義           信濃の守(加々美)遠光
    越後の守(安田)義資           豊後の守(毛呂)季光
    伊豆の守(山名)義範           加賀の守(源)俊隆
    兵衛判官代(石河)義資          村上判官代義国
    籐判官代邦通           源判官代高重
    修理の亮義盛           新田蔵人義兼
    奈胡蔵人義行           佐貫の大夫廣綱
    所の雑色基繁           橘右馬大夫公長
    千葉の大夫胤頼          野三左衛門の尉義成
    八田左衛門の尉知家        足立左衛門の尉遠元
    比企左衛門の尉能員        梶原刑部の丞朝景
    梶原兵衛の尉景茂(童時景定の子) 左衛門の尉景季
    後藤兵衛の尉基清         景定(朝景の男)
    畠山の次郎重忠          土屋の三郎宗遠
    工藤の庄司景光          加藤次景廉
    梶原平三景時           因幡の前司廣元
  後陣の随兵
    下河邊の庄司行平         和田左衛門の尉義盛
    小山田の四郎重朝         葛西兵衛の尉清重
    工藤左衛門の尉祐経        野三刑部の丞成綱
    小山の五郎宗政          佐々木の五郎義清

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