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2007年6月23日 (土)

5.松殿(基房)の娘は義仲の妻になったか。

5.松殿(基房)の娘は義仲の妻になったか。

 当時は現代のような一夫一婦制とする法律や道徳律は無かった。嫁入り婚より通い婚が多く一夫多妻は不思議ではない。義仲に何人もの妻または妾がいても不思議ではない。頼朝の父義朝も何人もの妻や妾がいた。義経や頼朝にも正妻と妾妻がいた。頼朝の御家人となった武将でもかなり妾妻がいる。公家でも何人かの妻がいて、嫡妻(正妻)、本妻、妾妻の区別はしていたようである。葬儀のときどのような区別をすべきかなどの議論をしている程度である。(参照「玉葉」一一七五年(承安五年)六月十三日。)その子についての差別はない。長男だからといって父親と同じ官位官職につけるとは限らない。頼朝の母は熱田神宮の神官の娘で、他の本妻または妾妻の子より若干有利だったに過ぎない。義経や範頼はもちろん、義仲や甲斐源氏の安田氏でもトップになれる可能性はある。鎌倉幕府の「御成敗式目」でも家の後継ぎについては男女の区別なく、息子や娘または親類や家来からも有能な人物を選べとしている。男女平等である。長男優先でもない。相続について長男優先になったのは江戸時代の三代将軍家光の頃からである。一夫一婦制とする法律を制定したり、「貞女二夫にまみえず」などと言いだしたのは明治政府からで、欧米の制度やキリスト教の真似をしたようだ。
 基房は兼実や慈円の兄である。その兄の娘が反感を抱いている時の権力者の義仲に縁付くのに、兼実の「玉葉」、慈円の「愚管抄」にその風聞すらない。そのような事実は無いようだ。「平家物語」では単なる女房、「延慶本平家物語」では「まつどのの姫君」、「源平盛衰記」では「松殿殿下基房公の御娘、十七」となつているが後日の創作のようだ。
 「玉葉」には、基房の息子の「師家」は五十一回、「基房子」は十七回、「基房女」は九回、「基房妻」は十七回出てくるが、十七才前後の娘は登場しない。兼実の娘「任子」(「宜秋門院」「後鳥羽天皇中宮」)は約三百五十回も記述されている。任子は十八才で中宮(天皇の側室)となった。頼朝も娘の大姫を中宮にしようと画策し、兼実と不和になり、兼実は失脚した。当時は養子縁組も多かったようだから、血縁でない娘を養子として扱う事も考えられる。
 ついでに、巴御前について述べる。巴については、弁慶や山本勘助と同じく、その存在自体が疑問視されるほどのものである。同名または類似の人物がいたかもしれない。しかし、後世の物語のような大活躍をしたのか不明である。
 法律や道徳律で一夫一婦制に縛られている現代人から見ると、巴が正妻であるかないかは重要に思えるのだが、当時は一夫一婦制のような法律や道徳律は無い。一夫一婦制や嫁入り婚が多くなったのは鎌倉時代からのようである。政子の仕打ちを恐れた頼朝を真似た家臣が多かった。あるいは「一所懸命」に領地を守る武士には嫁入り婚の方が都合が良かった。

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