« 9.合戦の前に乱暴狼藉はあったか | トップページ | 十一.安田義定や仁科盛家などの動向 »

2007年6月28日 (木)

10. 法住寺合戦後の解官数は清盛のクーデターより多いか

10. 法住寺合戦後の解官数は清盛のクーデターより多いか

 平家物語によると清盛の場合より解官数が多く、清盛より悪いとなつているが、解官された者の位階、役職の違いが大きい。清盛の場合は太政大臣を含む高位高官の解官が多いのに義仲の場合は高位高官は少なく、位の低い武官の解官が多く、権力中枢への影響は少なく、クーデター(急激な非合法手段に訴えて政権を奪うこと)とは言えない。

十.一 清盛のクーデターの処分

解官(「玉葉」治承三年十一月十七日より)
太政大臣藤原師長、権大納言按察使源資賢、春宮大夫藤原兼雅、右衛門督平盛頼、御中納言藤原実綱、右近衛権中将藤原隆忠、参議光能、太宰大弐親信、越前の守季能、右近衛権中将雅賢、右近衛権中将定能、大蔵卿泰経、右中弁親宗、右近権少将時家、備中の守光憲、右近権少将顕家、右近権少将資時、陸奥の守範季、大膳大夫信業、蔵人右少弁基親、左衛門佐業房、美濃の守定経、右馬頭定輔、加賀の守親国、出羽の守顕経、左馬権頭業忠、阿波の守孝貞、河内の守光遠、淡路の守知光、周防の守能盛、但馬の守信賢、甲斐守為明、大蔵大輔宗家、佐渡の守尚家、検非違使遠業扶行、信盛、上総の守為保、右少将雅賢、常陸の守経仲(合計四十人)
辞退 権中納言雅頼、流人 太宰権師藤原基房、平業房
関外追却 資賢、雅賢、資時、信賢
使を止む 左衛門少志中原清重、右衛門志同重成、右衛門府生安倍久忠
辞退 主殿頭藤家綱、亭任 伊勢守大中臣忠清
実際の処分者は四十三人以上だが、平家物語では解官が四十三人としている。

十.二 法住寺合戦後の解官

 「解官」「玉葉」寿永二年十一月二十九日より
中納言籐朝方、参議右京大夫同基家、太宰大貳同實清、大蔵卿高階泰経、参議右大弁平親宗、右中将播磨守源雅賢、右馬頭源資時、肥前守同康綱、伊豆守同光遠、兵庫頭藤章綱、越中守平親家、出雲守藤朝経、壱岐守平知親、能登守高階隆経、若狭守源政家、備中守源資定、左衛門の尉平知康(大夫の尉)、この外衛府二十六人と。(小計四十三人)(解職 頼兼)、(出仕止め 兼雅)
「解官」「吉記」十二月三日より
佐渡守源重隆、右馬助同信国、左衛門尉藤助頼、源経国、平(仁科)盛家、右衛門尉源有綱、左兵衛尉源義任、右兵衛尉平康盛(小計八人)
「解官」の合計は五十一人だが、平家物語では四十九人としている。

|

« 9.合戦の前に乱暴狼藉はあったか | トップページ | 十一.安田義定や仁科盛家などの動向 »