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2007年6月27日 (水)

9.合戦の前に乱暴狼藉はあったか

9.合戦の前に乱暴狼藉はあったか

 平家物語によると、合戦前に市内の治安が悪くなったとか、義仲軍が乱暴狼藉したので、「治安を回復せよ」との法皇の命令を鼓判官の知康が使者として来たのに、侮辱されたので征伐すべしとなったように記述しているが、「玉葉」「愚管抄」にそのような乱暴狼藉の記述は無い。「平家を源氏に替え劣りたり」の嘆きは平家滅亡後、京都に駐留する鎌倉軍の兵粮米の現地調達のための乱暴狼藉、群盗、義経追討の名目で全国に配置された「守護」「地頭」の横暴、乱暴狼藉を非難したものだろう。「源氏にゆかりのあるものは喜ぶがさしたるゆかりの無い者は何の喜びも無い。」とは、源氏にゆかりのある者、例えば頼朝の妹の夫の一条能保は頼朝代官になり次々と出世する。その他清盛平家の時代には冷遇されていた源氏ゆかりの者が復活する状況が「吾妻鏡」の記述に見られる。

九.一 源氏ゆかりの者の取り立て

一.一条能保・・・頼朝の妹の夫。頼朝代官から讃岐の守となる。 
二.平賀義信・・・平治の乱のとき義朝や頼朝に従い戦った。武蔵の守に任命された。
三.但馬の山口太郎家任(吾妻鏡文治三年十一月二十五日参照)本領に安堵。

九.二 「泣く子と地頭には勝てぬ」平家滅亡前後の乱暴狼藉

 「平家を源氏に替え劣りたり」の嘆きは平家滅亡後、京都に駐留する鎌倉軍の兵粮米の現地調達のための乱暴狼藉、群盗、義経追討の名目で全国に配置された「守護」「地頭」の横暴、乱暴狼藉を非難したものだろう。ざっと拾い上げただけでも数十件ある。法皇や頼朝に報告され、記録されたものだけでもこれだけあるのだから、報告漏れや記録漏れを含めまさに「泣く子と地頭には勝てぬ」と泣き寝入りしたものは数え切れないほどあるだろう。
 権力者となった鎌倉を直接非難できないので、義仲に罪を着せたのだろう。以下「吾妻鏡」「玉葉」に記述される乱暴狼藉事件を列記する。いかに「玉葉」の記事が「吾妻鏡」の記述と異なるか。つまり兼実には正確な情報が届いていないかがわかる。法皇や頼朝に伝わる「守護」「地頭」の乱暴狼藉の情報が兼実には届いていない。或いは届いたが地方の事には関心が無いので、記述しなかつたのか。兼実の一大関心事はわが朝廷の安泰と政権中枢への復帰にある。
 「平家を源氏に替え劣りたり」が記述されたり、語られた頃、政治の実権は北条氏(平氏系)に移り、北条氏が源氏に交替する正当性を強調するのに都合の良いものであった。

参照 5月3日参考2.「平家滅亡前後の乱暴狼藉」事件
(これだけ乱暴狼藉事件が続けば、清盛平家の時代のほうが良かったと非難したくもなる。)

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