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2007年6月19日 (火)

法住寺合戦の真相1.あらまし

法住寺合戦の真相

一.あらまし
二.黒幕は誰か
三.「義仲の天下六十日」」「天は逆賊を罰す」
四.「平治・治承と異なり今度の乱は義仲一人の最たり」
五.松殿(基房)の娘は義仲の妻になったか
六.法住寺御所は焼失したか
七.法皇は幽閉されたか
八.法住寺御所の攻撃・法皇の幽閉は義仲追討の理由か
九.合戦の前に乱暴狼藉はあったか
十.法住寺合戦後の解官数は清盛のクーデターより多いか
十一.安田義定や仁科盛家などの動向
十二.合戦の人数
十三.承久の乱との比較
十四.まとめ
参考文献

1.あらまし

 「平家物語」その他の解説書によれば、合戦前に市内の治安が悪くなった叉は義仲軍が乱暴狼藉を働いた。「治安を回復せよ」との法皇の命令を鼓判官の平知康が使者として来たのに、侮辱されたので征伐すべしとなった。義仲を征伐するために法住寺御所に兵を集めた。それを義仲軍が攻撃した。法住寺を焼き討ちし、法住寺御殿が焼け落ちた。合戦後、法皇を幽閉した。清盛のクーデターの場合より解官数が多く清盛より悪い。また松殿(基房)の娘を義仲は強引に妻にした。基房の子息で十二才の藤原師家を摂政にした。頼朝が義仲を追討した理由として法住寺御所への攻撃や法皇の幽閉を挙げる。はたして真相はいかに。これは約四十年後の承久の乱というのがある。この頃即位した後鳥羽天皇が上皇となっていた。鎌倉幕府打倒を計画し挙兵したが、たちまち鎮圧され、後鳥羽上皇は壱岐島に配流された。仲恭天皇は廃止された。鎌倉幕府は新天皇として後堀河天皇を即位させた。まさに「勝てば官軍、負ければ賊軍」の典型である。清盛や義仲が法皇を幽閉したなどと非難しているが北条氏の処置はその比ではない。時の権力者を非難することは出来ないので、やはり運悪く敗者となっていた義仲や清盛を置き換えて非難したものだろう。

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