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2007年6月30日 (土)

十三. 承久の乱との比較

十三. 承久の乱との比較

 約四十年後に起きた「承久の乱」というのがある。寿永の頃即位した天皇が上皇(後鳥羽)となり、勢力を拡大した武家政権から公家政権を復活しようと企画した、鎌倉政権打倒計画である。失敗して、その後鳥羽上皇は「島流し」となる。後鳥羽上皇は隠岐の島に配流、上皇の持っていた荘園はすべて没収
、順徳上皇は佐渡が島に配流、土御門上皇は土佐に配流となる。討幕計画に反対していた土御門上皇は自ら望んで土佐国へ配流された。後鳥羽上皇の皇子の六条宮、冷泉宮もそれぞれ但馬国、備前国へ配流された。仲恭天皇(九条廃帝、仲恭の贈名は明治以降)は廃された。鎌倉幕府は新天皇として後堀河天皇を擁立した。まさに「勝てば官軍、負ければ賊軍」の典型である。清盛や義仲が法皇を幽閉したと非難したがその比ではない。この承久の乱を記述したのが「承久記」であるが、事実をほぼ淡々と記述している。この承久の乱の後の執権北条氏の非情な処置を非難することは出来ないので、敗者となっていた義仲に置き換えたものだろう。

十三.一 皷判官め打破て捨よ
 「平家物語」によると義仲が法住寺事件の前に放った言葉は、(現代文)「われらが信濃を出発した時より、麻績・会田の戦より始めて、北国には、砥浪山・黒坂・塩坂・篠原、西国には福隆寺縄手・ささ(篠)のせまり(迫り)・板倉が城を攻撃したけれども、いまだ敵にうしろを見せた事は無い。例え十善帝王(天皇)にてありましょうとも、甲をぬぎ、弓をはずして降参する事はあり得ない。例えば都の守護してあろう者が、馬一頭づつ飼わずにいられるか。いくらもある田ども刈らせて、ま草にするのを、あながちに法皇のとがめなさるべきでは無い。兵粮米も無ければ、若者共が片田舎に行きて、時々入り捕りするのが何かまんざら不都合な事でもあるまい。大臣家や宮々の御所へも参上すればこそ不都合な事である。これは皷判官が元凶と思われるぞ。其の皷めを打ち破りて捨てよ。今度は義仲が最後の戦にてあるだろうぞ。頼朝が帰り聞くかもしれぬ処もある。存分にいくさせよ。者ども」と言ったとされている。

十三.二 「秀康・胤義等を討ち取れ」
 「吾妻鏡」によると約四十年後に起きた「承久の乱」の時の北条政子の言葉は、(現代文)「皆心を一にして奉公するべし。これは最期のことばである。亡き右大将軍の頼朝様が朝敵を征罰し、関東の鎌倉幕府政権を創設してから以降、官位を受けたり俸禄を頂くなど、その恩は既に山岳より高く、暗い海より深い。御恩に報い徳を謝する志は、これは浅くないものである。而るに今や逆臣の告げ口に依って、非正義の天皇の命令書を下された。名を惜しむところの武士族は、早く藤原秀康・三浦胤義等を討ち取り、三代将軍の残した官職や領地を全うするべきである。但し上皇側に参ろうと欲する者は、只今申し出るべきである。」(藤原秀康・三浦義村の弟胤義は首謀者とされる)参照「吾妻鏡」一二二一年 (承久三年)五月十九日
 (解説)ともに天皇や法皇(上皇)に仕える者の告げ口が原因であるので、それらを逆臣として討とうとしている。これは平家物語の編集者が吾妻鏡の文章を参考にしたか。逆に吾妻鏡の編集者が平家物語の文章を参考にしたか。偶然か。
 義仲に言わせている「例えば都の守護してあろう者が、馬一頭づつ飼わずにいられるか。いくらもある田ども刈らせて、ま草にするのを、とがめなさるべきでは無い。兵粮米も無ければ、若者共が片田舎に行きて、時々入り捕りするのが何かまんざら不都合な事でもあるまい。」は平家滅亡後、京都の守護として滞在した関東武士の兵糧の現地調達を非難したものである。これはまた、派遣された関東武士の本音だろう。「吾妻鏡」にも関東武士の現地調達の横暴が多数記録されている。
 
十四.まとめ

 「平家物語」の記述は、「玉葉」「愚管抄」と比較して、かなりの捏造が見られ、後の鎌倉政権の強引さを義仲軍に置き換えて非難しているようだ。現政権をあからさまに非難することは出来ない。「平家を源氏に替え劣りたり」の嘆きは平家滅亡後、京都に駐留する鎌倉軍の兵粮米の現地調達のための乱暴狼藉、群盗、義経追討の名目で全国に配置された「守護」「地頭」の横暴、乱暴狼藉を非難したものだろう。
 約四十年後に起きた「承久の乱」の後、後鳥羽上皇は「島流し」となる。清盛や義仲が法皇を幽閉したと非難したがその比ではない。この承久の乱の北条氏の非情な処置を非難することは出来ないので、敗者となっていた義仲に置き換えたものだろう。同時代に制作された軍記物語として、保元の乱を記述した「保元物語」、平治の乱を記述した「平治物語」、承久の乱を記述した「承久記」などがあるが、いずれも現政権の鎌倉方を非難する事は出来ない。

参考文献
 一.訓読玉葉    高橋貞一著   高科書店
 二.全訳吾妻鏡   永原慶二監修  新人物往来社
 三.吾妻鏡・玉葉データベース 福田豊彦監修 吉川弘文館
 四.新訂吉記二   高橋秀樹    和泉書院
 五.愚管抄全註解  中島悦次     有精堂
 六.源平合戦の虚像を剥ぐ 川合康  講談社
 七.平家物語上下  山下宏明     明治書院
 八.延慶本平家物語六七八九       汲古書院
 九.圖書寮叢刊九条家本玉葉 宮内庁 明治書院

頼朝の妾妻
「吾妻鏡」寿永1年6月1日良橋太郎の娘、亀前。
「吾妻鏡」寿永1年11月10日亀前の住居を破壊。
「吾妻鏡」寿永1年12月10日亀前住居変更。
「吾妻鏡」文治2年2月26日常陸介藤時長の娘、子は出家して貞暁。
「吾妻鏡」建久2年1月23日常陸介藤時長の娘に伊勢を与える。

義経の正妻
「吾妻鏡」元歴1年9月14日河越太郎の娘。
「吾妻鏡」文治1年11月12日河越太郎領地没収。
「吾妻鏡」元歴1年9月14日河越太郎殺される。

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