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2007年6月20日 (水)

2.黒幕は誰か。

2.黒幕は誰か。

 右大臣の九条兼実は「玉葉」の一一八三年(寿永二年)十一月十九日の「法住寺合戦後」に記述した。「義仲はこれ天の不徳の君を誡むる使い」と、およそ中国や日本国で天下の乱逆は、沢山あるが、このような乱は無かった。義仲は不徳の法皇をいましめるための神の使いである。十一月二十一日「義仲今後世間の事は基房に申し合わすという」「義仲もし善政を行はば、余其の仁に当たる」「義仲の政に預からざる旨を仏神に祈謝す」。私(兼実)は密かに願かけしていた。今度義仲が善政を行うなら私も一役買うと。この事極めて不吉であった。よって今度義仲の仲間に入らず、義仲に従う必要が無いことを神様仏様に感謝した。
 兼実は当時、右大臣ではあるが、法皇やその近臣と意見が合わず、権力中枢から遠ざけられていた。敵の敵は味方とみなす心理が働いたようである。法住寺合戦の後、義仲は法皇の不徳を誡める使いとか、義仲が善政をしようとすれば助力しようと思ったが、すぐ撤回した。次兄の基房がしゃしゃり出てきたからである。次兄の基房が黒幕と気づいたのだろう。
 「義仲はこれ天の不徳の君を誡むる使い」との一部の記述のみで、兼実は義仲の擁護者とか正当な評価者と誤解する人もいるようだ。義仲敗北後、解官されたのは基房の子の師家(内大臣、摂政)のみである。兼実の記述では基房は法皇の不興を買っている。義仲が西国の平家追討の旗印として法皇を連れて行こうと提案したとき、強く推薦したのが気に入らなかったようだ。参照「玉葉」一一八四年(寿永三年、元歴元年)二月十一日「基房院の不興を蒙る」「基房義仲に与し西国御幸を勧め申す」
 慈円の「愚管抄」によれば「法皇に仕える北面の武士の友康・公友などと云者、ひたすらに武士を立て、頼朝こそ猶本者とひしと思い込み、人柄も良いと聞こえたので、それを思い頼朝の上京を期待した。又義仲など何ごとかと思いまして、法住寺殿の院御所を城のように構築してひしひしとあふれるほどに、源氏の将兵や比叡山や三井寺の僧兵などを招集して、比叡山の座王の明雲も参りまして、比叡山の僧兵を引き連れてひしひしと固めて待機しました。義仲は又、今はと思ひ切りまして、山田・樋口・楯・根の井と云四人の家来がいました。我勢は落ちて行こう、落ちぬる先にと考えました。寿永二年十一月十九日に、法住寺殿へ千騎のうちの五百余騎など云うほどの勢にてはたはたと押し寄せました。・・・いかにもこの法皇の木曾義仲との戦は、天狗の仕業に疑い無き事である。」と記述している。慈円も後に頼朝の推薦により権力中枢に復帰した兄の兼実の推薦により、天台座主に就任したから、誰の悪口も言えない。天狗の仕業にしている。

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