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2007年6月

2007年6月30日 (土)

十三. 承久の乱との比較

十三. 承久の乱との比較

 約四十年後に起きた「承久の乱」というのがある。寿永の頃即位した天皇が上皇(後鳥羽)となり、勢力を拡大した武家政権から公家政権を復活しようと企画した、鎌倉政権打倒計画である。失敗して、その後鳥羽上皇は「島流し」となる。後鳥羽上皇は隠岐の島に配流、上皇の持っていた荘園はすべて没収
、順徳上皇は佐渡が島に配流、土御門上皇は土佐に配流となる。討幕計画に反対していた土御門上皇は自ら望んで土佐国へ配流された。後鳥羽上皇の皇子の六条宮、冷泉宮もそれぞれ但馬国、備前国へ配流された。仲恭天皇(九条廃帝、仲恭の贈名は明治以降)は廃された。鎌倉幕府は新天皇として後堀河天皇を擁立した。まさに「勝てば官軍、負ければ賊軍」の典型である。清盛や義仲が法皇を幽閉したと非難したがその比ではない。この承久の乱を記述したのが「承久記」であるが、事実をほぼ淡々と記述している。この承久の乱の後の執権北条氏の非情な処置を非難することは出来ないので、敗者となっていた義仲に置き換えたものだろう。

十三.一 皷判官め打破て捨よ
 「平家物語」によると義仲が法住寺事件の前に放った言葉は、(現代文)「われらが信濃を出発した時より、麻績・会田の戦より始めて、北国には、砥浪山・黒坂・塩坂・篠原、西国には福隆寺縄手・ささ(篠)のせまり(迫り)・板倉が城を攻撃したけれども、いまだ敵にうしろを見せた事は無い。例え十善帝王(天皇)にてありましょうとも、甲をぬぎ、弓をはずして降参する事はあり得ない。例えば都の守護してあろう者が、馬一頭づつ飼わずにいられるか。いくらもある田ども刈らせて、ま草にするのを、あながちに法皇のとがめなさるべきでは無い。兵粮米も無ければ、若者共が片田舎に行きて、時々入り捕りするのが何かまんざら不都合な事でもあるまい。大臣家や宮々の御所へも参上すればこそ不都合な事である。これは皷判官が元凶と思われるぞ。其の皷めを打ち破りて捨てよ。今度は義仲が最後の戦にてあるだろうぞ。頼朝が帰り聞くかもしれぬ処もある。存分にいくさせよ。者ども」と言ったとされている。

十三.二 「秀康・胤義等を討ち取れ」
 「吾妻鏡」によると約四十年後に起きた「承久の乱」の時の北条政子の言葉は、(現代文)「皆心を一にして奉公するべし。これは最期のことばである。亡き右大将軍の頼朝様が朝敵を征罰し、関東の鎌倉幕府政権を創設してから以降、官位を受けたり俸禄を頂くなど、その恩は既に山岳より高く、暗い海より深い。御恩に報い徳を謝する志は、これは浅くないものである。而るに今や逆臣の告げ口に依って、非正義の天皇の命令書を下された。名を惜しむところの武士族は、早く藤原秀康・三浦胤義等を討ち取り、三代将軍の残した官職や領地を全うするべきである。但し上皇側に参ろうと欲する者は、只今申し出るべきである。」(藤原秀康・三浦義村の弟胤義は首謀者とされる)参照「吾妻鏡」一二二一年 (承久三年)五月十九日
 (解説)ともに天皇や法皇(上皇)に仕える者の告げ口が原因であるので、それらを逆臣として討とうとしている。これは平家物語の編集者が吾妻鏡の文章を参考にしたか。逆に吾妻鏡の編集者が平家物語の文章を参考にしたか。偶然か。
 義仲に言わせている「例えば都の守護してあろう者が、馬一頭づつ飼わずにいられるか。いくらもある田ども刈らせて、ま草にするのを、とがめなさるべきでは無い。兵粮米も無ければ、若者共が片田舎に行きて、時々入り捕りするのが何かまんざら不都合な事でもあるまい。」は平家滅亡後、京都の守護として滞在した関東武士の兵糧の現地調達を非難したものである。これはまた、派遣された関東武士の本音だろう。「吾妻鏡」にも関東武士の現地調達の横暴が多数記録されている。
 
十四.まとめ

 「平家物語」の記述は、「玉葉」「愚管抄」と比較して、かなりの捏造が見られ、後の鎌倉政権の強引さを義仲軍に置き換えて非難しているようだ。現政権をあからさまに非難することは出来ない。「平家を源氏に替え劣りたり」の嘆きは平家滅亡後、京都に駐留する鎌倉軍の兵粮米の現地調達のための乱暴狼藉、群盗、義経追討の名目で全国に配置された「守護」「地頭」の横暴、乱暴狼藉を非難したものだろう。
 約四十年後に起きた「承久の乱」の後、後鳥羽上皇は「島流し」となる。清盛や義仲が法皇を幽閉したと非難したがその比ではない。この承久の乱の北条氏の非情な処置を非難することは出来ないので、敗者となっていた義仲に置き換えたものだろう。同時代に制作された軍記物語として、保元の乱を記述した「保元物語」、平治の乱を記述した「平治物語」、承久の乱を記述した「承久記」などがあるが、いずれも現政権の鎌倉方を非難する事は出来ない。

参考文献
 一.訓読玉葉    高橋貞一著   高科書店
 二.全訳吾妻鏡   永原慶二監修  新人物往来社
 三.吾妻鏡・玉葉データベース 福田豊彦監修 吉川弘文館
 四.新訂吉記二   高橋秀樹    和泉書院
 五.愚管抄全註解  中島悦次     有精堂
 六.源平合戦の虚像を剥ぐ 川合康  講談社
 七.平家物語上下  山下宏明     明治書院
 八.延慶本平家物語六七八九       汲古書院
 九.圖書寮叢刊九条家本玉葉 宮内庁 明治書院

頼朝の妾妻
「吾妻鏡」寿永1年6月1日良橋太郎の娘、亀前。
「吾妻鏡」寿永1年11月10日亀前の住居を破壊。
「吾妻鏡」寿永1年12月10日亀前住居変更。
「吾妻鏡」文治2年2月26日常陸介藤時長の娘、子は出家して貞暁。
「吾妻鏡」建久2年1月23日常陸介藤時長の娘に伊勢を与える。

義経の正妻
「吾妻鏡」元歴1年9月14日河越太郎の娘。
「吾妻鏡」文治1年11月12日河越太郎領地没収。
「吾妻鏡」元歴1年9月14日河越太郎殺される。

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2007年6月29日 (金)

十一.安田義定や仁科盛家などの動向

 入京後、義仲は京中守護に任命され、保田(安田)三郎義定は一條北より、東洞院東より、会坂に至る。仁科次郎盛家は鳥羽四至内を担当している。参照「吉記」寿永二年七月三十日。これを「吾妻鏡」では義仲、義定は頼朝の代官として入京したものとしている。
 京都入京後、市内の警備を命じられた武将は次の通りである。
源三位入道子息・・・馬場源氏。頼政の孫。右衛門尉有綱
高田四郎重家・泉次郎重忠・・・尾張源氏。尾張の国の住人
葦数太郎重隆・・・尾張源氏。尾張の国の住人。佐渡の守。
出羽判官光長・・・美濃源氏。検非違使。(伯耆の守)
保田三郎義定・・・甲斐源氏。(遠江守)
村上太郎信国・・・信濃源氏村上系。右馬助  
山本兵衛尉義経・・・近江源氏、甲斐源氏。(伊賀の守、若狭の守)
甲斐入道成覺(義兼法師)・・・近江源氏、       
仁科次郎盛家・・・信濃領主、平姓。左衛門尉
 いずれも京都近国の武将が多いが、義仲軍入京の時、同時に入京したようだ。仁科次郎盛家や村上太郎信国は義仲と同一行動していたか、当時京都の警備の当番で在京であったが、平家と西国へ行かず、義仲軍に合流した。その後、市内の乱暴狼藉は軍勢が多すぎるのが原因とする法皇方の意見により、京都近国の武将の兵は一部の警備兵以外は本国へ帰還したようだ。また義仲軍も西国での敗戦により若干の軍勢が減少した。
 安田三郎義定は富士川の合戦の後、遠江の守護に任命された。義仲の入京と同じく頼朝の代官として入京したことになつている。平家物語や吾妻鏡によると、富士川の合戦において平家軍は鳥の羽音を源氏軍の襲来と勘違いして、混乱し退却したことになつている。「山槐記」にもその風聞が記述されている。「玉葉」や「吉記」の著者は事情を詳細に調査したようで、武田方は四万騎、平家方は四千騎でさらに武田方に寝返る者があり、平家方は二千騎以下となり、副将の平忠清の意見により、撤退すべきとなったようである。富士川の合戦の前に武田方と敵対し敗退したようである。
 村上太郎信国は法皇方に付き、法住寺合戦の時討たれたようだ。合戦の後、仁科盛家は解官されているので、合戦後に義仲離反を決めたようだ。義定はこの時期に名前が無く、「吾妻鏡」の一一八四年 (壽永三年)二月五日には義経の平家追討軍に従っているので、法住寺合戦の前に離反し頼朝に追従したようだ。しかし後に他の多くの武将と同じく謀反の疑いをかけられ殺害された。

十二.合戦の人数

 平家物語では、法皇方が法住寺御所に二万人を集めた。義仲軍は七千騎で攻めたとなっているが、例の軍記物語の特徴でおおげさな表現による。実際は多分、十分の一の法皇側が二千人と義仲軍が七百騎程度だろう。「愚管抄」でも木曽軍は千騎の内五百騎が押し寄せたとなつている。入京時、五千騎(平家物語などでは五万騎)ほどだった木曽義仲連合軍も一部は引き上げ、更に「水島の合戦」で一部減少し、更に法皇側に追従したものなどがあり、総兵力は千騎程度に減少していたようである。法皇側は御所の警備兵たる近衛府などの兵士、比叡山延暦寺の僧兵(寺の警備兵)、三井寺の僧兵、民兵(京都市民の応募者など)、義仲軍からの寝返り組などで、二千人をかき集めたようである。

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2007年6月28日 (木)

10. 法住寺合戦後の解官数は清盛のクーデターより多いか

10. 法住寺合戦後の解官数は清盛のクーデターより多いか

 平家物語によると清盛の場合より解官数が多く、清盛より悪いとなつているが、解官された者の位階、役職の違いが大きい。清盛の場合は太政大臣を含む高位高官の解官が多いのに義仲の場合は高位高官は少なく、位の低い武官の解官が多く、権力中枢への影響は少なく、クーデター(急激な非合法手段に訴えて政権を奪うこと)とは言えない。

十.一 清盛のクーデターの処分

解官(「玉葉」治承三年十一月十七日より)
太政大臣藤原師長、権大納言按察使源資賢、春宮大夫藤原兼雅、右衛門督平盛頼、御中納言藤原実綱、右近衛権中将藤原隆忠、参議光能、太宰大弐親信、越前の守季能、右近衛権中将雅賢、右近衛権中将定能、大蔵卿泰経、右中弁親宗、右近権少将時家、備中の守光憲、右近権少将顕家、右近権少将資時、陸奥の守範季、大膳大夫信業、蔵人右少弁基親、左衛門佐業房、美濃の守定経、右馬頭定輔、加賀の守親国、出羽の守顕経、左馬権頭業忠、阿波の守孝貞、河内の守光遠、淡路の守知光、周防の守能盛、但馬の守信賢、甲斐守為明、大蔵大輔宗家、佐渡の守尚家、検非違使遠業扶行、信盛、上総の守為保、右少将雅賢、常陸の守経仲(合計四十人)
辞退 権中納言雅頼、流人 太宰権師藤原基房、平業房
関外追却 資賢、雅賢、資時、信賢
使を止む 左衛門少志中原清重、右衛門志同重成、右衛門府生安倍久忠
辞退 主殿頭藤家綱、亭任 伊勢守大中臣忠清
実際の処分者は四十三人以上だが、平家物語では解官が四十三人としている。

十.二 法住寺合戦後の解官

 「解官」「玉葉」寿永二年十一月二十九日より
中納言籐朝方、参議右京大夫同基家、太宰大貳同實清、大蔵卿高階泰経、参議右大弁平親宗、右中将播磨守源雅賢、右馬頭源資時、肥前守同康綱、伊豆守同光遠、兵庫頭藤章綱、越中守平親家、出雲守藤朝経、壱岐守平知親、能登守高階隆経、若狭守源政家、備中守源資定、左衛門の尉平知康(大夫の尉)、この外衛府二十六人と。(小計四十三人)(解職 頼兼)、(出仕止め 兼雅)
「解官」「吉記」十二月三日より
佐渡守源重隆、右馬助同信国、左衛門尉藤助頼、源経国、平(仁科)盛家、右衛門尉源有綱、左兵衛尉源義任、右兵衛尉平康盛(小計八人)
「解官」の合計は五十一人だが、平家物語では四十九人としている。

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2007年6月27日 (水)

9.合戦の前に乱暴狼藉はあったか

9.合戦の前に乱暴狼藉はあったか

 平家物語によると、合戦前に市内の治安が悪くなったとか、義仲軍が乱暴狼藉したので、「治安を回復せよ」との法皇の命令を鼓判官の知康が使者として来たのに、侮辱されたので征伐すべしとなったように記述しているが、「玉葉」「愚管抄」にそのような乱暴狼藉の記述は無い。「平家を源氏に替え劣りたり」の嘆きは平家滅亡後、京都に駐留する鎌倉軍の兵粮米の現地調達のための乱暴狼藉、群盗、義経追討の名目で全国に配置された「守護」「地頭」の横暴、乱暴狼藉を非難したものだろう。「源氏にゆかりのあるものは喜ぶがさしたるゆかりの無い者は何の喜びも無い。」とは、源氏にゆかりのある者、例えば頼朝の妹の夫の一条能保は頼朝代官になり次々と出世する。その他清盛平家の時代には冷遇されていた源氏ゆかりの者が復活する状況が「吾妻鏡」の記述に見られる。

九.一 源氏ゆかりの者の取り立て

一.一条能保・・・頼朝の妹の夫。頼朝代官から讃岐の守となる。 
二.平賀義信・・・平治の乱のとき義朝や頼朝に従い戦った。武蔵の守に任命された。
三.但馬の山口太郎家任(吾妻鏡文治三年十一月二十五日参照)本領に安堵。

九.二 「泣く子と地頭には勝てぬ」平家滅亡前後の乱暴狼藉

 「平家を源氏に替え劣りたり」の嘆きは平家滅亡後、京都に駐留する鎌倉軍の兵粮米の現地調達のための乱暴狼藉、群盗、義経追討の名目で全国に配置された「守護」「地頭」の横暴、乱暴狼藉を非難したものだろう。ざっと拾い上げただけでも数十件ある。法皇や頼朝に報告され、記録されたものだけでもこれだけあるのだから、報告漏れや記録漏れを含めまさに「泣く子と地頭には勝てぬ」と泣き寝入りしたものは数え切れないほどあるだろう。
 権力者となった鎌倉を直接非難できないので、義仲に罪を着せたのだろう。以下「吾妻鏡」「玉葉」に記述される乱暴狼藉事件を列記する。いかに「玉葉」の記事が「吾妻鏡」の記述と異なるか。つまり兼実には正確な情報が届いていないかがわかる。法皇や頼朝に伝わる「守護」「地頭」の乱暴狼藉の情報が兼実には届いていない。或いは届いたが地方の事には関心が無いので、記述しなかつたのか。兼実の一大関心事はわが朝廷の安泰と政権中枢への復帰にある。
 「平家を源氏に替え劣りたり」が記述されたり、語られた頃、政治の実権は北条氏(平氏系)に移り、北条氏が源氏に交替する正当性を強調するのに都合の良いものであった。

参照 5月3日参考2.「平家滅亡前後の乱暴狼藉」事件
(これだけ乱暴狼藉事件が続けば、清盛平家の時代のほうが良かったと非難したくもなる。)

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2007年6月26日 (火)

8.法住寺御所への攻撃・法皇の幽閉は義仲追討の理由か

8.法住寺御所への攻撃・法皇の幽閉は義仲追討の理由か

 頼朝が義仲を追討した理由として、法住寺御所への攻撃や法皇の幽閉を挙げる記述を見かけるが、「吾妻鏡」によれば、義仲追討の正式な理由は平家と和議を企てた事が頼朝への謀反とされたようである。参考「吾妻鏡」寿永三年三月一日「頼朝、平氏追討の下文を西国住人に遣わす」「・・・東海道は遠江の守義定朝臣、北陸道は左馬頭義仲朝臣、鎌倉殿の御代官として、両人上洛するところである。兼ねてまた義仲朝臣、平家と和議のために謀反の条、不慮の次第である。よって院宣の上に、私に処罰を加え、かの義仲を追討せしめました。」
 とにかく頼朝は謀反の名目で義経や範頼など平家追討に貢献した多くの武士を追討している。後の北条氏の行状から推測すれば、北条氏の策略の可能性が高い。
 平家や義仲追討の根拠として、以任王の令旨以外に後白河法皇の密命を挙げる解説が見られるが、「吾妻鏡」文治元年十二月六日の九条兼実への書状に「頼朝は伊豆国の流人として、特別なご指示も頂かなかったにもかかわらず」となっている。つまり頼朝が勝手にやったようだ。

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2007年6月25日 (月)

7.法皇は幽閉されたか

7.法皇は幽閉されたか

 「平家物語」やその他の解説書では法皇は摂政の五條亭に幽閉されたことになっている。しかし、「玉葉」によると、かなり出入りは多く、また法皇は落胆した様子は無いようである。
「玉葉」十一月二十五日「法皇殊に御嘆息の気無きかのようだ」
「玉葉」十二月四日 天晴れ、定能卿が法皇御所より退出し、来た。語りて云う、昨日義仲は法皇に申し上げて曰く、頼朝の代官が日来伊勢の国に在り。家来等を派遣し追い落とした。其の中の最上級者を一人、生け捕りにしたようだ。又語り云う、法皇御所中の警護は、近日日来に於いて倍増し、女車に至るまで検知を加えるようだ。義仲軍はそれまで女性に甘かったので、女装して逃げられた。または女装して御所に出入りしていたようだ。 
「吉記」十二月十日「後白河院平業忠邸に還御」法皇は六条西洞院の左馬権守平業忠宅においでになられた。五条殿には奇怪な事が有りの故のようだ。
最期に義仲が法皇に拝謁しようとしたが、門内に入れなかったようである。義仲軍の警備でなく、近衛兵の警備のようである。

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2007年6月24日 (日)

6.法住寺御所は炎上したか

6.法住寺御所は炎上したか

 後世の歴史解説者や小説家の記述で、法住寺焼き討ちとか、法住寺御所が炎上し焼け落ちたという記述を見る。しかし「平家物語」ですら、樋口次郎が火矢を放ったので、御所が炎上という記述があるのみである。「玉葉」には御所方面に煙が上がる、これは河原の民家を焼き払うようだの記述のみである。「吉記」には四面放火の記述がある。周囲の民家に放火したようだ。戦いのときどちらかが火を放つのは当時の合戦の常識である。「吾妻鏡」一一九一年 (建久二年)十月一日に「文治元年の地震により傾いたので、頼朝の指図として修理を加えられた。」との記述がある。合戦の時、建物自体に大きな被害は無かったようである。いかに大袈裟に捏造しているかがわかる。
 その他「吉記」の意外な記述としては「四方に逃走の殿上人以下その数を知らず。女官等多く以て裸形。」。逃走の殿上人以下は女官の衣類を奪い取り女装して逃げたのだろうか。

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2007年6月23日 (土)

5.松殿(基房)の娘は義仲の妻になったか。

5.松殿(基房)の娘は義仲の妻になったか。

 当時は現代のような一夫一婦制とする法律や道徳律は無かった。嫁入り婚より通い婚が多く一夫多妻は不思議ではない。義仲に何人もの妻または妾がいても不思議ではない。頼朝の父義朝も何人もの妻や妾がいた。義経や頼朝にも正妻と妾妻がいた。頼朝の御家人となった武将でもかなり妾妻がいる。公家でも何人かの妻がいて、嫡妻(正妻)、本妻、妾妻の区別はしていたようである。葬儀のときどのような区別をすべきかなどの議論をしている程度である。(参照「玉葉」一一七五年(承安五年)六月十三日。)その子についての差別はない。長男だからといって父親と同じ官位官職につけるとは限らない。頼朝の母は熱田神宮の神官の娘で、他の本妻または妾妻の子より若干有利だったに過ぎない。義経や範頼はもちろん、義仲や甲斐源氏の安田氏でもトップになれる可能性はある。鎌倉幕府の「御成敗式目」でも家の後継ぎについては男女の区別なく、息子や娘または親類や家来からも有能な人物を選べとしている。男女平等である。長男優先でもない。相続について長男優先になったのは江戸時代の三代将軍家光の頃からである。一夫一婦制とする法律を制定したり、「貞女二夫にまみえず」などと言いだしたのは明治政府からで、欧米の制度やキリスト教の真似をしたようだ。
 基房は兼実や慈円の兄である。その兄の娘が反感を抱いている時の権力者の義仲に縁付くのに、兼実の「玉葉」、慈円の「愚管抄」にその風聞すらない。そのような事実は無いようだ。「平家物語」では単なる女房、「延慶本平家物語」では「まつどのの姫君」、「源平盛衰記」では「松殿殿下基房公の御娘、十七」となつているが後日の創作のようだ。
 「玉葉」には、基房の息子の「師家」は五十一回、「基房子」は十七回、「基房女」は九回、「基房妻」は十七回出てくるが、十七才前後の娘は登場しない。兼実の娘「任子」(「宜秋門院」「後鳥羽天皇中宮」)は約三百五十回も記述されている。任子は十八才で中宮(天皇の側室)となった。頼朝も娘の大姫を中宮にしようと画策し、兼実と不和になり、兼実は失脚した。当時は養子縁組も多かったようだから、血縁でない娘を養子として扱う事も考えられる。
 ついでに、巴御前について述べる。巴については、弁慶や山本勘助と同じく、その存在自体が疑問視されるほどのものである。同名または類似の人物がいたかもしれない。しかし、後世の物語のような大活躍をしたのか不明である。
 法律や道徳律で一夫一婦制に縛られている現代人から見ると、巴が正妻であるかないかは重要に思えるのだが、当時は一夫一婦制のような法律や道徳律は無い。一夫一婦制や嫁入り婚が多くなったのは鎌倉時代からのようである。政子の仕打ちを恐れた頼朝を真似た家臣が多かった。あるいは「一所懸命」に領地を守る武士には嫁入り婚の方が都合が良かった。

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2007年6月22日 (金)

4.「平治・治承と異なり今度の乱は義仲一人の最たり」

4.「平治・治承と異なり今度の乱は義仲一人の最たり」

 「玉葉」1184年(寿永3年、元歴元年)1月25日「逆賊朝務を執りて後の叙位等無効とすべし」「平治・治承と異なり今度の乱は義仲一人の最たり」「君臣共に幼稚、未だ成人の量に及ばず。」
 法住寺合戦の後、義仲は逆賊だから、義仲の推薦により任命された人事などは無効にすべきだと主張している。平治とは平治の乱の例、治承とは清盛のクーデターの例と比較している。黒幕の次兄の基房の責任が藤原一門の我が身に及ぶ可能性がある。君臣共に幼稚、未だ成人の量に及ばず。天皇は4才(後鳥羽天皇)で、摂政は12才の藤原師家(基房の子)で責任はとれない。責任は義仲におしつけよう。しかし意外にも義仲の意見が公家身分に与えた影響は少なかったようである。合戦の後、任命されたり昇任した公家は多いが、義仲の敗死後に解官されたり降任された例は少ない。師家のみが解官されている。基房と師家親子のみが責任をとらされたようである。多分、基房や義仲の一存でなく、合戦の後任命されたり昇任した公家などと合議の上決定されたものだろう。
 「愚管抄」も事実のみを淡々と記録している。法皇の近臣が義仲に対抗して兵を集めたので、義仲がこれを排除したようだ。義仲は以後の政治的処理を基房に託したようだ。著者の慈円は兼実の弟で、基房は兄である。兄を悪役とは書きにくい。兄の基房の不始末の責任が同じ藤原一門の兄の兼実や自分にふりかかるのは避けたい。

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2007年6月21日 (木)

3.「義仲の天下六十日」「天は逆賊を罰す」

3.「義仲の天下六十日」「天は逆賊を罰す」

 [玉葉]十二月一日「大江公朝頼朝代官に義仲乱逆の次第を告ぐ」伝聞、去る二十一日法皇の北面に仕える下級役人二人(大江公友)が伊勢の国に到着し、乱逆の次第を頼朝の代官(九郎並びに斎院次官親能等である)に告げ示した。たちまち飛脚を頼朝の許へ差し遣わした。彼の帰来を待ち、命に随い入京すべし。
 「玉葉」1184年(寿永3年、元歴元年)1月20日「義仲敗走し近江国粟津にて討たる」。「義仲の天下六十日」。「義仲天下を執る後、六十日を経たり。信頼の前蹤(ぜんしょう、前例)に比べ、猶その晩(ばん、おそい)きを思う。」「天は逆賊を罰す」「凡そ日来、義仲の準備では、京中を焼き払い、北陸道に落つべしのようだ。而るにまた一家も焼かず、一人も損せず、独身さらし首にさせられた。天は逆賊を罰した。宜(むべ)なるかな。もっともであるかな。」
 義仲の天下は六十日だった。信頼とは、平治の乱の敗者側の公家で藤原信頼である。次兄の藤原基房がこれに対応するのだろうか。武家の義仲と比較するのなら、何故、平治の乱の武家の義朝や清盛のクーデターの例が出ないのだろう。やはり黒幕は次兄の基房と考えていたようだ。義仲敗北後、公家で変更があったのは基房の子の師家が摂政を解官され、前摂政の基通は、合戦のとき逃亡したが復活した。参照1183年(壽永二年)11月19日 「基通宇治の方に逃げる」1184年(寿永3年、元歴元年)1月21日「基通摂政に還補せらる」。
 また、「義仲の準備では、京中を焼き払い、北陸道に落つべしのようだ。而るにまた一家も焼かず、一人も損せず、」とあるように、義仲は京都から退却するとき、京都を焼き払うといううわさだったが、そのような事はなく、放火や略奪は無かった。平家のように放火し、はやばやと退却したので、京都市内は略奪と放火の大混乱になったが、義仲の場合はそのような混乱はなかった。
 「義仲はこれ天の不徳の君を誡むる使い」との一部の記述のみで、兼実は義仲の擁護者と誤解している人も義仲の敗死を「天は逆賊を罰す」と断じている記述を見れば誤解と納得するだろう。後日、義仲や義経を回顧する記述があるが、いずれも義仲や義経の乱逆とか反逆と記述している。

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2007年6月20日 (水)

2.黒幕は誰か。

2.黒幕は誰か。

 右大臣の九条兼実は「玉葉」の一一八三年(寿永二年)十一月十九日の「法住寺合戦後」に記述した。「義仲はこれ天の不徳の君を誡むる使い」と、およそ中国や日本国で天下の乱逆は、沢山あるが、このような乱は無かった。義仲は不徳の法皇をいましめるための神の使いである。十一月二十一日「義仲今後世間の事は基房に申し合わすという」「義仲もし善政を行はば、余其の仁に当たる」「義仲の政に預からざる旨を仏神に祈謝す」。私(兼実)は密かに願かけしていた。今度義仲が善政を行うなら私も一役買うと。この事極めて不吉であった。よって今度義仲の仲間に入らず、義仲に従う必要が無いことを神様仏様に感謝した。
 兼実は当時、右大臣ではあるが、法皇やその近臣と意見が合わず、権力中枢から遠ざけられていた。敵の敵は味方とみなす心理が働いたようである。法住寺合戦の後、義仲は法皇の不徳を誡める使いとか、義仲が善政をしようとすれば助力しようと思ったが、すぐ撤回した。次兄の基房がしゃしゃり出てきたからである。次兄の基房が黒幕と気づいたのだろう。
 「義仲はこれ天の不徳の君を誡むる使い」との一部の記述のみで、兼実は義仲の擁護者とか正当な評価者と誤解する人もいるようだ。義仲敗北後、解官されたのは基房の子の師家(内大臣、摂政)のみである。兼実の記述では基房は法皇の不興を買っている。義仲が西国の平家追討の旗印として法皇を連れて行こうと提案したとき、強く推薦したのが気に入らなかったようだ。参照「玉葉」一一八四年(寿永三年、元歴元年)二月十一日「基房院の不興を蒙る」「基房義仲に与し西国御幸を勧め申す」
 慈円の「愚管抄」によれば「法皇に仕える北面の武士の友康・公友などと云者、ひたすらに武士を立て、頼朝こそ猶本者とひしと思い込み、人柄も良いと聞こえたので、それを思い頼朝の上京を期待した。又義仲など何ごとかと思いまして、法住寺殿の院御所を城のように構築してひしひしとあふれるほどに、源氏の将兵や比叡山や三井寺の僧兵などを招集して、比叡山の座王の明雲も参りまして、比叡山の僧兵を引き連れてひしひしと固めて待機しました。義仲は又、今はと思ひ切りまして、山田・樋口・楯・根の井と云四人の家来がいました。我勢は落ちて行こう、落ちぬる先にと考えました。寿永二年十一月十九日に、法住寺殿へ千騎のうちの五百余騎など云うほどの勢にてはたはたと押し寄せました。・・・いかにもこの法皇の木曾義仲との戦は、天狗の仕業に疑い無き事である。」と記述している。慈円も後に頼朝の推薦により権力中枢に復帰した兄の兼実の推薦により、天台座主に就任したから、誰の悪口も言えない。天狗の仕業にしている。

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2007年6月19日 (火)

法住寺合戦の真相1.あらまし

法住寺合戦の真相

一.あらまし
二.黒幕は誰か
三.「義仲の天下六十日」」「天は逆賊を罰す」
四.「平治・治承と異なり今度の乱は義仲一人の最たり」
五.松殿(基房)の娘は義仲の妻になったか
六.法住寺御所は焼失したか
七.法皇は幽閉されたか
八.法住寺御所の攻撃・法皇の幽閉は義仲追討の理由か
九.合戦の前に乱暴狼藉はあったか
十.法住寺合戦後の解官数は清盛のクーデターより多いか
十一.安田義定や仁科盛家などの動向
十二.合戦の人数
十三.承久の乱との比較
十四.まとめ
参考文献

1.あらまし

 「平家物語」その他の解説書によれば、合戦前に市内の治安が悪くなった叉は義仲軍が乱暴狼藉を働いた。「治安を回復せよ」との法皇の命令を鼓判官の平知康が使者として来たのに、侮辱されたので征伐すべしとなった。義仲を征伐するために法住寺御所に兵を集めた。それを義仲軍が攻撃した。法住寺を焼き討ちし、法住寺御殿が焼け落ちた。合戦後、法皇を幽閉した。清盛のクーデターの場合より解官数が多く清盛より悪い。また松殿(基房)の娘を義仲は強引に妻にした。基房の子息で十二才の藤原師家を摂政にした。頼朝が義仲を追討した理由として法住寺御所への攻撃や法皇の幽閉を挙げる。はたして真相はいかに。これは約四十年後の承久の乱というのがある。この頃即位した後鳥羽天皇が上皇となっていた。鎌倉幕府打倒を計画し挙兵したが、たちまち鎮圧され、後鳥羽上皇は壱岐島に配流された。仲恭天皇は廃止された。鎌倉幕府は新天皇として後堀河天皇を即位させた。まさに「勝てば官軍、負ければ賊軍」の典型である。清盛や義仲が法皇を幽閉したなどと非難しているが北条氏の処置はその比ではない。時の権力者を非難することは出来ないので、やはり運悪く敗者となっていた義仲や清盛を置き換えて非難したものだろう。

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2007年6月18日 (月)

1212年 (建暦2年) 2月14日「武蔵の国諸郷に郷司職を補す」

1212年 (建暦2年 壬申)

2月14日 辛卯
「武蔵の国諸郷に郷司職を補す」
 武蔵の国の国務の間の事、(北条)時房(父時政・兄義時)朝臣に政道を盛んにするようの指図を致され、郷々に於いて郷司職を任命された。而るに匠作(泰時)いささか執り申されるの旨有りと雖も、「入道武蔵の守(平賀)義信」の国務の例に任せ、指図せしむべきの旨仰せ下されるの間、その趣を存ずる所である。承諾し難きの由答え申されたようです。
(解説)
泰時(やすとき)・・・2代執権北条義時の嫡男

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2007年6月17日 (日)

1211年 (承元5年) 11月3日「永福寺惣門焼く」

1211年 (承元5年、3月9日建暦元年 辛未)

11月3日 辛亥 晴
「永福寺惣門焼く」
 午前4時頃、永福寺の外構えの正門並びに墓一基(「前の武蔵の守源の(平賀)義信」建立である)が焼亡した。他所に及ばなかった。
「天変により泰山府君祭等を行ふ」
午後8時頃、天変の事に依って、御所に於いて泰山府君・歳星等の祭を行わる。加藤判官光員がこれを指図した。清図書の允清定が執行人である。
(解説)
泰山府君(たいざんふくん)・・・中国山東省の山の神。
歳星(さいせい)・・・木星の漢名

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2007年6月16日 (土)

1207年 (建永2年)2月20日 「北条時房武蔵守に任ず」

1207年 (建永2年、10月25日改元承元元年 丁卯)

2月20日 丁卯 霽
「北条時房武蔵守に任ず」
 (北条)時房(父時政・兄義時)朝臣去る月十四日武蔵の守に任ずるの間、国務の事、「故武蔵の守(平賀)義信入道」の例に任せ、指図を致すべきの旨仰せ下されました。
(解説)
故武蔵の守(平賀)義信入道となっているから、1203年以後に入信し、死亡したようだ。

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2007年6月15日 (金)

1203年 (建仁3年) 10月8日「実朝元服す」

1203年 (建仁3年 癸亥)

10月8日 癸卯 天霽、風静々
「実朝元服す」
 今日、将軍家(実朝)(年十二)御元服である。午後8時頃、遠州(時政)の名越の亭に於いてその儀式が有りました。前の大膳大夫(大江)廣元朝臣・小山左衛門の尉朝政・安達九郎左衛門の尉景盛・和田左衛門の尉義盛・中條右衛門の尉家長以下の御家人等百余人、侍の座に着座した。江間の四郎(義時)主・左近大夫将監(源)親廣が武具を持参した。時刻に御出になられました。理髪は遠州。加冠は「前の武蔵の守(大内)義信」。
 次いで休憩所に御渡りになられた。後、御前の物を進上した。江間(義時)・(源)親廣が配膳役です。配膳の取り次ぎ役は結城の七郎朝光・和田兵衛の尉常盛・同三郎重茂・東の太郎重胤・波多野の次郎経朝・桜井の次郎光高等である(各々近習の小官の中、父母見存の者を選ばれ、これを召すと)。次いで鎧・御劔・御馬を献上しました。佐々木左衛門の尉廣綱・千葉の平次兵衛の尉常秀以下この役を勤めた。

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2007年6月13日 (水)

1202年 (建仁2年)3月14日「永福寺の多宝塔供養」

1202年 (建仁2年 壬戌)

3月14日 己未
「蹴鞠」
 御蹴鞠(けまり)有り。人数前に同じ。員三百六十・二百五十。
「永福寺の多宝塔供養」
今日、永福寺内の多宝塔の供養である。尼御台所(政子)並びに金吾(頼家)御結縁の為御参りした。導師は栄西律師。これ金吾の乳母、「入道武蔵の守源の(大内)義信」朝臣亡妻の追福である。導師の施物等、尼御台所よりこれを調え遣わされた。所右衛門の尉朝光が指図した。

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2007年6月12日 (火)

1195年 (建久6年) 7月16日「大内義信の国務を賞す」 

1195年 (建久6年 乙卯)

7月16日 戊戌
「大内義信の国務を賞す」
 武蔵の国務の事、「(大内)義信」朝臣の政治の執り方、尤も人民の意思に叶うの由お聞きなされ及ぶに就いて、今日御感心の御文書を下されました。
「府庁に壁書を掲ぐ」
 以後国の長官に於いては、この時の趣旨を守るべし。壁書(へきしょ)を国府の役所に置かれました。散位(さんに)の(平)盛時が執行人です。
(解説)
壁書(へきしょ)・・・役人の守るべき心得などを壁に張り紙をして掲示した。
散位(さんに)・・・官位があるが、役職のない者。

(参考)
1196年(建久7年)から1199年(建久10年)1月までの記録が無いようだ。

1199年(建久10年)
3月2日
「頼朝49日の仏事」
故将軍(頼朝)49日の御仏事である。導師は大学法眼行慈である。
1200年(正治2年)
1月13日
「頼朝1周忌」

1212年(建歴2年)
2月28日
「頼朝、相模河橋供養の帰路に落馬し、のち死す」

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2007年6月11日 (月)

12月26日「永福寺新造薬師堂供養」

12月26日 壬午
「永福寺新造薬師堂供養」
 永福寺内の新造の薬師堂の供養、導師は前の権僧正勝賢と。将軍家(頼朝)御出で。北條の五郎時連が御劔を持ちました。愛甲の三郎が御弓矢を持ち従いました。
  供奉人(布衣)
    源蔵人大夫頼兼  「武蔵の守(大内)義信」    信濃の守(加々美)遠義   相模の守(大内)惟義
    上総の介(足利)義兼   下総の守(源)邦業    宮内大輔重頼   駿河の守(藤原)宗朝
    右馬の助(村上)経業   修理の亮義盛    前の掃部の頭(中原)親能 前の因幡の守(大江)廣元
    民部大夫(藤原)繁政   小山左衛門の尉朝政 下河邊の庄司行平 千葉の介常胤
    三浦の介義澄     同兵衛の尉義村      八田右衛門の尉知家
    足立左衛門の尉遠元  和田左衛門の尉義盛    梶原刑部の丞朝景
    佐々木左衛門の尉定綱 佐々木中務の丞経高    東大夫胤頼
    境兵衛の尉常秀    野三刑部の丞盛綱     後藤兵衛の尉基清
    右京の進(藤原)季時     江兵衛の尉(大江)能範
  最末
    梶原平三景時
  随兵八騎
    北條の小四郎(義時)      小山の七郎朝光     武田兵衛の尉有義
    加々美の次郎長清    三浦左衛門の尉義連   梶原左衛門の尉景季
    千葉の新介胤正     葛西兵衛の尉清重
  布施取り
    右兵衛の督(一条)高能朝臣   左馬権の頭公佐(三条)朝臣   上野の介憲信
    皇后宮大夫の進(伊佐)為宗   前の対馬の守(藤原)親光    豊後の守季光
    橘右馬権の助次廣    工匠蔵人        安房判官代(源)高重
  導師の布施
    錦被物三重    綾被物七十重  綾百反  長絹二百反    
    染絹三百反    白布千反
  加布施
    金作の劔一腰   香呂箱(綾紫絹等を以てこれを作る)
  この外
    馬二十匹     供米三百石
  請僧の布施(人別)
    色々の被物三十重 絹六十反  染絹三十反 白布二百反
    紺百反      馬二匹     供米百石

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2007年6月10日 (日)

8月8日「頼朝、日向山薬師に参る」

8月8日 丙申
「頼朝、日向山薬師に参る」
 今朝午前4時頃に将軍家(頼朝)は相模の国日向山に参りなされた。これ行基菩薩(奈良時代の名僧)建立の薬師如来の霊場である。当国に於いて祈祷のききめがならぶものがないの間思いなされ立つようです。御騎馬、水干(詰め襟、脇あけの衣服)を着用なされました。
  先陣の随兵
    畠山の次郎重忠    土屋兵衛の尉義清     八田左衛門の尉知重
    曽我の太郎祐信    足立左衛門の尉遠元    比企の彌四郎時員
    渋谷の庄司重国    岡崎の先次郎政宣     三浦左衛門の尉義連
    梶原左衛門の尉景季  加々美の次郎長清     里見の冠者義成
    北條の五郎時連    小山左衛門の尉朝政
  御劔役
    結城の七郎朝光
  御調度懸け
    愛甲の三郎季隆
  御後(水干を着す)
    「武蔵の守(平賀)義信」     上野の介憲信       上総の介義兼
    伊豆の守義範     開瀬修理の亮義盛     因幡の前司廣元
    下河邊の庄司行平   下河邊の四郎政義     千葉の新介胤正
    千葉の六郎大夫胤頼  三浦の介義澄       三浦兵衛の尉義村
    稲毛の三郎重成    葛西兵衛の尉清重     八田右衛門の尉知家
    佐々木中務の丞経高  佐々木の三郎盛綱     加藤次景廉
    江兵衛の尉義範    和田左衛門の尉義盛    梶原平三景時
    北條の小四郎
  後陣の随兵
    武田の五郎信光    榛谷の四郎重朝      小山の五郎宗政
    江戸の太郎重長    長江の四郎明義      梶原三郎兵衛の尉景高
    相馬の次郎師常    野三刑部の丞成綱     新田の四郎忠常
    下河邊の六郎光脩   所の六郎朝光       境兵衛の尉常秀
    梶原刑部の丞朝景   佐々木の五郎義清
 因幡の前司(広元)が下毛利の庄に於いて弁当を献上しました。御礼佛の後、夜半に及びお帰りになりました。御通夜有るべきと雖も、放生会の忌たるに依ってその儀無し。この御参りの事は、内々姫君の御祈りと。

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2007年6月 9日 (土)

1194年 (建久5年) 2月2日「泰時元服す」

1194年 (建久5年 甲寅)

2月2日 甲午 快晴
「泰時元服す」
 夜に入り江間(義時)殿の嫡男(泰時)(童名金剛、年十三)が元服した。幕府(将軍の館)に於いてその儀式が有りました。西侍に敷物を三行に構えた。
  一方の着座
    「武蔵の守(大内)義信」          上総の介(足利)義兼
    伊豆の守(山名)義範          信濃の守遠義
    相模の守(大内)惟義          江間の小四郎(義時)殿
    大和の守重弘          八田右衛門の尉知家
    葛西兵衛の尉清重        加藤次景廉
    佐々木の三郎盛綱
  一方
    千葉の介常胤          畠山の次郎重忠
    千葉の新介胤正         三浦の介義澄
    梶原平三景時          土屋の三郎宗遠
    和田左衛門の尉義盛       籐九郎盛長
    三浦左衛門の尉義連       大須賀の四郎通信
    梶原刑部の丞朝景
  一方
    北條(時政)殿             結城の七郎朝光
    下河邊の庄司行平        小山左衛門の尉朝政
    宇都宮の彌次郎頼綱       岡崎の四郎義實
    宇佐美右衛門の尉祐茂      榛谷の四郎重朝
    比企右衛門の尉能員       足立左衛門の尉遠元
    江戸の太郎重長         比企の籐内朝宗
 時刻に、北條殿(時政)が童形(泰時)を相具して参上された。則ち将軍家(頼朝)お出なされ、御加冠の儀が有りました。「武州(武蔵の守大内義信)」・千葉の介(常胤)等が照明を取って左右に従いました。名字は太郎頼時と名乗りました。次いで御鎧以下を新冠に献上された。また御引出物を頂いた。御劔は里見の冠者義成これを伝えた。次いで三献(さんこん)・椀飯(わうばん)、その後盃酒数巡し、殆ど歌舞に及びました。次いで三浦の介義澄をそばに呼び、この冠者を以て聟と為すべきの旨命じなされました。孫娘の中、良き娘を撰び、仰せに随うべきの由これを申しました。
(解説)
三献(さんこん)・・・三つの杯で一杯ずつ飲ませ膳を下げ、これを三回くりかえす。
椀飯(わうばん)・・・食事の接待

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2007年6月 8日 (金)

7月2日「義信、十郎弟を召し進す」

7月2日 丙寅
「義信、十郎弟を召し進す」
 「武蔵の守(平賀)義信」、養子の僧(律師と号す)を召し進上しようとした。去る夜参着した。これ曽我の十郎祐成の弟である。日来越後の国久我窮(くがみ)山に在るの間、参上は今に延引したようだ。
「律師自殺す」
 而るに今日さらし首にされるべきの由を聞き、甘縄の辺に出で、念仏読誦の後自殺したようだ。景時この旨を申し上げた。将軍家太だ悔み歎きなされた。本より殺すべきの志に非ず。ただ兄に同意せしむか否か、お呼びし質問される為ばかりである。
(解説)
甘縄(あまなは)・・・甘縄神社の近く、安達藤九郎盛長の屋敷がある。
律師(りっし)・・・僧官の位で、僧正、僧都、律師となる。

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2007年6月 7日 (木)

5月28日 「曽我兄弟、工藤祐経を討つ」

5月28日 
「曽我兄弟、工藤祐経を討つ」
「十郎新田忠常に討たれ、五郎は捕はる」
「頼朝、五郎を尋問す」
「五郎斬られる」

6月1日 丙申
「大磯の虎喚問後釈放さる」
 曽我の十郎祐成の妾の大磯の遊女(虎と号す)これを召し出されると雖も、口状の如きはそのとがめ無しの間これを放ち遣わされた。
「五郎の弟律師を召す」
 また五郎の弟の僧がいました。父河津の三郎(祐泰)が若死にの後、五ケ日に当たり生れる所である。而るに伊東の九郎祐清の妻がこれを収め養いました。祐清は平氏に加わり、北陸道合戦の時討ち取られた後、その妻は「武蔵の守(大内)義信」に嫁いだ。件の僧は同じく相従い武蔵の国府に在りました。兄等と同意に行わるべきの由、祐経の妻子が訴え申すの間、詳細を尋ねられる為、御使いを(大内)義信朝臣が許に遣わされた。祐成等の継父の曽我の太郎祐信、恐怖におそわれると雖も、同意の証拠無きに依って寛大に処されたようです。

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2007年6月 6日 (水)

1193年 (建久4年) 3月13日「後白河院一回忌の千僧供養」

1193年 (建久4年 癸丑)

3月13日 庚辰
「後白河院一回忌の千僧供養」
 旧院(後白河)御一廻の命日を迎え、御佛事を修された。千僧供養である。御布施は人別に白布二端・藍摺(藍で文様を摺りだした布)一端・象牙(白米)一袋である。「武蔵の守(平賀)義信」が担当世話役である。その儀、老巧の僧十人を定められ頭と為す所である。仍って各々百僧を相具し便利な道場を選定し、酒食のもてなし等を指図する為に百人毎に二人の執行担当を相副えらると。
  一方の頭(百僧これに従う) 若宮の別当法眼
    奉行は 大和の守重廣      大夫屬入道(三善)善信
  一方の頭(百僧これに従う) 法橋行慈
    奉行は 主計の允(二階堂)行政      堀の籐太
  一方の頭(百僧これに従う) 法眼慈仁
    奉行は 筑後の守(藤原)俊兼      廣田の次郎(邦房)
  一方の頭(百僧これに従う) 法眼厳耀
    奉行は 法橋昌寛        中四郎(中原)惟重
  一方の頭(百僧これに従う) 法眼定豪
    奉行は 民部の丞(平)盛時      小中太(中原)光家
  一方の頭(百僧これに従う) 密蔵房賢□
    奉行は 左近将監(大友)能直      前の武者所宗経
  一方の頭(百僧これに従う) 阿闍梨行実
    奉行は 籐判官代邦通      九郎籐次(大曽根時長)
  一方の頭(百僧これに従う) 阿闍梨義慶
    奉行は 比企の籐内朝宗     玄番の助(勝田)成長
  一方の頭(百僧これに従う) 阿闍梨求佛
    奉行は 足立左衛門の尉遠元   法橋成尋
  一方の頭(百僧これに従う) 阿闍梨専光
    奉行は 善隼人の佐康清(三善)     前の右馬の允(中条)宗長

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2007年6月 5日 (火)

12月5日「頼朝、重臣を集め、実朝の将来を託す」

12月5日 癸卯
「頼朝、重臣を集め、実朝の将来を託す」
 御堂供養の事に依って群をなして参詣せしめ未だ退散していません。而るに今日「武蔵の守(大内義信)」・信濃の守(加々美遠光)・相模の守(大内惟義)・伊豆の守(山名義範)・上総の介(足利義兼)・千葉の介(常胤)・小山左衛門の尉(朝政)・下河邊の庄司(行平)・小山の七郎(朝光)・三浦の介(義澄)・佐原左衛門の尉(義連)・和田左衛門の尉(義盛)等を濱の御所に召集されました。各々北面の十二間に着した。将軍家自ら新誕の若公を抱き奉りお出なされた。この嬰児の寵愛は殊に甚だし。各々こころを一つにして将来を守護せしむべきの由、ていねいな御詞を尽くされ、あまりさえ盃酒を下された。女房の大貳の局(近衛の局)が杓を取り盃を持つと。仍って面々に若公を抱き奉り、御引出物(各々腰の刀)を献上した。謹んで承るの由を申し退出しました。

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2007年6月 4日 (月)

11月29日「若君五十日・百日の儀」

11月29日 戊戌
「若君五十日・百日の儀」
 新誕の若君五十日・百日(いかももか)の儀式である。北條殿(時政)これを指図なされた。女房は給仕役に奉仕しません。江間殿(義時)これに従事されました。御贈物を進上されました。御劔・砂金・鷲の羽である。「武州(義信)」・上州(足利義兼)・参州(範頼)・相州(惟義)・因州(広元)・常胤(千葉)・朝政(小山)・朝光(結城)・重忠(畠山)・義澄(三浦)・宗平(中村の庄司)・行平(下河邊)・知家(八田)・[遠光](足立)・盛長(安達)・遠元・清重(葛西)・義盛(和田)・景廉(加藤)・景時(梶原)・朝景(同)・景光(工藤)等に十字(饅頭)を送りされました。

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2007年6月 3日 (日)

11月25日「熊谷直實・久下直光対決す」

11月25日 甲午 白雲飛散す、午以後霽に属す
「熊谷直實・久下直光対決す」
 早朝、熊谷次郎直實と久下(くげ)権の守直光と、御前に於いて論議に一つの決論を出しました。これ武蔵の国熊谷・久下の境堺の争論の事である。直實は武勇に於いては一人当千の名を施すと雖も、対決に至っては再度十を知るの才能が不足しています。頗る御疑惑をはらむに依って、将軍家が度々尋問なさる事が有りました。時に直實申して云く、この事は梶原平三景時が直光をひいきするの間、前もってに道理を申し入るの由か。仍って今直實頻りに下問に預かるものである。御成敗の処、直光は定めて愁眉を開くべし。その上は理運の文書は必要無し。左右に能わずと称し、未だ事が終えないのに、手道具・文書等を巻き御壺中に投げ入れ座を起ちました。
「直實剃髪逐電す」
 猶いきどおり怒りに堪えず、西侍に於いて自ら刀を取り、もとどりを除いた。言葉を吐いて云く、殿の御侍へ登りはてと。則ち南門を走り出で、私宅に帰るに及ばず急に行方をくらまし逃げました。将軍家殊に驚きなされました。或る説に、西を指し駕で馳けた。若しくは京都の方に赴いたようだ。則ち下級役人等を馳せ遣わし、相模・伊豆の所々並びに箱根・走湯山等に於いて、直實が前途を遮って、遁世の儀を止むべきの由、御家人及び衆徒等の中に仰せ遣わされました。
 直光は直實の母の姉妹の夫である。そのよしみに就いて、直實は先年直光の代官として、京都の大番に勤仕せしむるの時、武蔵の国の同僚等の同役を勤め在京した。この間各々人々代官を以て、直實に対し無礼を現わした。直實その不満を散ぜんが為、新中納言知盛卿に従属し多年を送りました。あからさまに関東に下向するの折節、石橋合戦が有りました。平家の味方として源家を射ると雖も、その後また源家に仕え、度々戦場に於いて勲功をあげました。而るに直光を棄て新黄門(知盛)の家人に列するの條、かねてからのうらみの基として、ひごろ境堺の違乱に及ぶと。
「永福寺供養」
 今日永福寺の供養である。曼陀羅供有り。導師は法務大僧正公顕と。前の因幡の守廣元が行事である。導師・請僧の施物等は勝長壽院の供養の儀式に同じ。布施取り十人を採用された。また導師の加布施銀劔は、前の少将時家これを取る。将軍家が御出でである。
  先陣の随兵
    伊澤の五郎信光          信濃の三郎光行
    小山田の三郎重成         渋谷の次郎高重
    三浦左衛門の尉義連        土肥の彌太郎遠平
    小山左衛門の尉朝政        千葉の新介胤正
  将軍家
    小山の七郎朝光御劔を持つ
    佐々木三郎盛綱御甲を着す
    勅使河原の三郎有直御調度を懸く
  御後の供奉人(各々布衣)
    「武蔵の守(大内)義信」           参河の守(源)頼範
    遠江の守(安田)義定           上総の介(足利)義兼
    相模の守(大内)惟義           信濃の守(加々美)遠光
    越後の守(安田)義資           豊後の守(毛呂)季光
    伊豆の守(山名)義範           加賀の守(源)俊隆
    兵衛判官代(石河)義資          村上判官代義国
    籐判官代邦通           源判官代高重
    修理の亮義盛           新田蔵人義兼
    奈胡蔵人義行           佐貫の大夫廣綱
    所の雑色基繁           橘右馬大夫公長
    千葉の大夫胤頼          野三左衛門の尉義成
    八田左衛門の尉知家        足立左衛門の尉遠元
    比企左衛門の尉能員        梶原刑部の丞朝景
    梶原兵衛の尉景茂(童時景定の子) 左衛門の尉景季
    後藤兵衛の尉基清         景定(朝景の男)
    畠山の次郎重忠          土屋の三郎宗遠
    工藤の庄司景光          加藤次景廉
    梶原平三景時           因幡の前司廣元
  後陣の随兵
    下河邊の庄司行平         和田左衛門の尉義盛
    小山田の四郎重朝         葛西兵衛の尉清重
    工藤左衛門の尉祐経        野三刑部の丞成綱
    小山の五郎宗政          佐々木の五郎義清

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2007年6月 2日 (土)

8月9日「実朝誕生す」

8月9日 巳酉 
「実朝誕生す」

8月10日 庚戌
  若君(実朝)二夜の事は「武蔵の守(大内義信)」・三浦の介(義澄)が指図しました。

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2007年6月 1日 (金)

7月26日「勅使征夷大将軍の除書を持参す」

7月26日 丙申
「勅使征夷大将軍の除書を持参す」
 勅使(天皇の使い)の廰官の肥後の介中原景良・同康定等が参着した。征夷大将軍の人事異動の文書を持参する所である。両人(各々衣冠を着す)例に任せ鶴岡の神社の庭に列び立ち、使者を以て文書を進上すべきの由これを申した。三浦の義澄を派遣された。義澄、比企左衛門の尉能員・和田の三郎宗實並びに郎従十人(各々甲冑)を相伴い、宮寺に詣で彼の状を請け取った。景良等名字を問うの処に、介の人事異動の文書未だ到らざるの間、三浦の次郎の由名のりました。則ち帰参した。幕下(頼朝)は御束帯で予め西廊にお出なされた。義澄は人事異動の文書をささげ持ち、ひざまづいて進みこれを進上した。千万人の中に義澄この役に応じた。面目は絶妙である。亡父の義明は命を将軍に献上しました。その勲功は髭をきると雖も没後に酬い難し。仍って子息を抜き出して賞されました。
  人事異動の文書に云く、
    左少史三善仲康           内舎人橘の實俊
    中宮権の少進平の知家        宮内少丞藤原の定頼
    大膳の進源の兼光          大和の守大中臣宣長
    河内の守小槻廣房(左大史の任を辞す)尾張の守藤原忠明(元伯耆の守)
    遠江の守藤原朝房(元陸奥)     近江の守平の棟範
    陸奥の守源の師信          伯耆の守藤原宗信(元遠江)
    加賀の守源の雅家          若狭の守藤原保家(元安房)
    石見の守藤原経成          長門の守藤原信定
    対馬の守源の高行          左近将監源の俊實
    左衛門の少志惟宗景弘        右馬の允宮道式俊
      建久三年七月十二日
   征夷使
     大将軍源の頼朝
   従五位下源の信友
 左衛門の督(通親)参陣、参議兼忠卿これを書く。将軍の事、本より御意に懸けられると雖も、今までにこれを達せしめなさらず。而るに法皇のお亡くなりの後、朝政の初度に、殊に指図有って任ぜられるの間、ことさらに以て勅使に及ぶようです。また(八田)知家が指図として、「武蔵の守(大内義信)」の屋敷を選び定め、勅使を招き酒食の接待をしました。

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