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2007年5月15日 (火)

8月24日「下河邊庄司行平鎮西より帰り弓を献ず」

8月24日 甲戌
「下河邊庄司行平鎮西より帰り弓を献ず」
 下河邊庄司行平が帰参の御許しを受け、九州より去る夜参着した。これ参州(範頼)に相副え西海に発向し、軍務に忠節をつくしました。同時に派遣される所の御家人等、巡回に堪えずして多く以て帰参した。行平は今に在国すること御感心有るようです。今日居所中に参り盃酒を献上しました。二品(頼朝)が出席されました。武州(大内義信)・北條殿(時政)以下群がり参列した。行平、九州第一と称し、弓一張を進上するの処、仰せに曰く、わけも無くこれを納得し難し。九州に派遣の関東武士、悉く兵粮無くして大将軍を棄て、多く以て帰参した。汝の所領と九州とはすでに数箇月の行程を隔てるところである。乗馬を全うし参上すること、猶不思議と謂うべきである。あまりさえ盃酒を勧め土産を献上した。彼の国に於いて人の賄賂を取らなければ、いかでか此の如きの貯え有るだろうか。奇怪であるといえる。行平は陳述申して云く、在国の程は、兵粮の計略を失い、日数を経るの間、郎等等を扶けんが為、彼の者どもの甲冑以下武具を売却させました。而るに豊後の国(大分県)に渡るの時は、同僚は皆参州(範頼)の御船を頼みました。行平は敢えて私を顧みず忠を存ずるの故、先陣を意に任せんが為、わずかに残し置く所の自分の鎧を以て、小舟に交換し、甲冑を着けずと雖も、船にさおし最前に着岸し、敵陣に入り美気の三郎を討ち取りました。凡そ毎度功をつくすの條、大将軍の見知は明らかであります。今召しに依って参らんと欲するの処進物無き事所存に違う。
「行平勲功の賞に播磨の守守護職を賜る」
 この弓は九国に於いて名誉の由兼ねて以て風聞しました。その主は不慮の外にこれを売却しました。行平これを喜びちょうどその時小袖二領を着ていました。仍って一領これを脱ぎこれに替えました。時に参州(範頼)の近従者等餞別の為来会し、この事を見て頻りにこれに感心しました。呼び出して尋ねらるべきでしょう。次いで盃酒を献上する事は、下総の国に留め置くの家来、矢作の二郎・鈴置の平五等、兵粮を用意し途中に来向しました。これを以てもてなしの料に宛てさせました。全く他物を貪らずと。二品はつぶさにこれをお聞きなされました、感涙を浮かべその志に喜びなされました。仰せに曰く、行平は日本無双の弓取である。よろしき弓を見知るの條、汝が眼に過ぐべからず。然れば重宝たるべしといえり。則ち廣澤の三郎を召しこれを張らしめ、自ら引き試みなされました。殊に御意思に相叶うの由仰せられました。直に御盃を行平に与えました。仰せに曰く、西国の者大底これを見るか。今度の勲功に依って、一国の守護職に宛て行わおうと欲しました。何国を所望すべしといえり。行平申して云く、播磨の国は須磨・明石等の名勝が有ります。書写山の如きの霊場が有ります。尤も所望すと。早く御計略有るべきの由承諾し命令されたようです。
(解説)
下河邊庄・・・茨城、埼玉、千葉3県にまたがる庄。

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