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2007年5月 6日 (日)

9.九条兼実の義仲観の変遷

9.九条兼実の義仲観の変遷

 当時の右大臣の九条兼実の日記「玉葉」に木曽義仲は寿永二年五月に倶利伽藍峠の合戦が京で報じられた時から記述された。以後約八ケ月間、兼実は義仲の感想を記述している。
 七月末に平家軍が屋敷に放火し京都から退却し、京都市内が僧兵や一般市民の放火略奪の混乱状態になった時は、義仲軍に鎮圧を期待した。
 八月に義仲が皇位継承問題で北陸宮を推した際には義仲の主張を認め法皇を非難した。しかし、「王者の沙汰に至りては人臣の最にあらず」と王者(法皇)の指図すべきことなので、臣下の最もすべきものではありません。と義仲も非難している。
 九月には義仲の京中での乱暴行為を嘆いている。
 十一月に後白河法皇が義仲を挑発して法住寺殿への攻撃を起こさせた場合には「王者の行いにあらず」と、法皇を非難し義仲を擁護した。「義仲はこれ天の不徳の君を誡むる使い」。「義仲もし善政を行はば、余其の仁に当たる」。「義仲の政に預からざる旨を仏神に祈謝す」。私(兼実)は密かに願かけしていた。今度義仲が善政を行うなら私も一役買うと。この事極めて不吉であった。よって今度義仲の仲間に入らず、義仲に従う必要が無いことを神様仏様に感謝した。というように法住寺合戦の後、義仲は法皇の不徳を誡める使いとか義仲が善政をしようとすれば、助力しようと思ったがすぐ撤回した。次兄の基房がしゃしゃり出てきたからである。何等かの策略に気づいたようである。
 これは当時の兼実は右大臣ではあるが、法皇やその近臣と意見が合わず権力中枢から遠ざけられていた。敵の敵は味方とみなす心理が若干働いたようである。
 元歴元年の義仲敗死直後には「天の逆賊」が罰せられるのはもっともなことだ。「義仲の天下が六十日」も続いたのは永過ぎたと記述している。
 義経については、「武勇と仁義は後代の美名にのこる」しかし「頼朝への謀反は大逆罪」と記述した。また後年、義経や義仲を回顧する場面では「義仲の乱逆」や「義経の反逆」の記述がある。
 兼実は頼朝に一時期重用され摂政関白となるが、それぞれ自分の娘を天皇に嫁がせようと画策し不和となり、失脚した。
 「義仲はこれ天の不徳の君を誡むる使い」の一部の記述のみから兼実は義仲の擁護者とか正当な評価者と勘違いしている人もいるが、兼実はあくまでも武士は敵とみなしていた。特に義仲や義経は逆賊とみなしていた。

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