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2007年5月14日 (月)

1185年6月7日 「頼朝、簾中より宗盛を見る」

1185年 (元暦2年、8月14日改元 文治元年 乙巳)

6月7日 戊午
「頼朝、簾中より宗盛を見る」
 前の内府(宗盛)、近日帰京します。面会すべきかの由、因幡の前司(大江広元)に問い合わされました。これ本三位中将(重衡)下向の時対面なされたが故である。而るに廣元申して云く、今度の儀、以前の例に似るべきではありません。君は天下の濫刑を鎮め、その品すでに二品の官位をさずけられました。彼は過て朝敵と為り、無位の囚人であります。御対面の條、還って軽骨の非難を招くべしと。仍ってその儀を止められ、簾中(れんちゅう)に於いてその躰をご覧になりました。多くの人が群がって参列しました。しばらくありて前の内府(浄衣、立烏帽子を着す)西侍の障子の上(ほとり)に出ました。武蔵の守(大内義信)・北條殿(時政)・駿河の守(源広綱)・足利の冠者(義兼)・因幡の前司(大江広元)、筑後権の守(藤原俊兼)・足立馬の允(遠元)等その砌(みぎり)に参列しました。二品(頼朝)は比企の四郎能員を以て仰せられて云く、御一族に於いて、指せる遺恨を存ぜずと雖も、天皇のお定めをいただくに依って、追討使を発するの処、すなわち都から遠い土地に招きよせられました。且つは恐れ思いなさると雖も、尤も武術の面目に備えんと欲すといえば、能員が内府の前にひざまづき、詳細を述べるの処、内府は座を動かし、頻りにおもねりへつらいの気が有りました。こたえ申される趣旨また明らかではありません。ただ露のようにはかない命を救わしめいただければ、出家を遂げ仏道を求むの由のようです。これ将軍四代の孫として、武勇を家にうけ、相国(清盛)第二の息子として、官職と報酬は任意でした。然れば武威を憚るべからず。官位を恐るべからず。何ぞ能員に対し礼節有るべきや。死罪更に礼に優ぜらるべきではないと。視る者弾指するようです。
(解説)
濫刑(らんけい)・・・みだりに刑罰を加えること。
品(ほん)・・・親王の位。
簾中(れんちゅう)・・・すだれのうち。
西侍(にしさぶらい)・・・侍の詰め所。西と東がある。
上(ほとり)・・・あたり。
砌(みぎり)・・・軒下の石畳のところ
足利 義兼(あしかが よしかね)・・・妻は北条政子の妹。
足立遠元(あだちとおもと)・・・藤原氏。平治の乱では義朝に仕えた。
比企能員(ひきよしかず)・・・頼朝の乳母比企尼の養子。

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