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2007年5月17日 (木)

10月24日「勝長寿院落慶供養、頼朝臨む」

10月24日 癸酉 天霽風静まる
「勝長寿院落慶供養、頼朝臨む」
 今日南御堂(勝長寿院と号す)供養を遂行されました。午前4時頃、御家人等の中、殊なる健士を差し辻々を警固した。宮内大輔重頼が会場以下の行事を執行しました。堂の左右に仮屋を構えた。左方は二品(頼朝)の御座、右方は御台所(政子)並びに左典厩(一条能保)の室家等の御聴聞(ちゃうもん)所である。御堂前の簀子(すのこ)を以て布施取り二十人の座とした。山本にまた北條殿室並びに然るべき御家人等の妻の聴聞所が有ります。午前10時頃、二品(頼朝が御束帯で)御出発です。御歩儀。
  行列
  先ず随兵十四人
    畠山の次郎重忠  千葉の太郎胤正   三浦の介義澄   佐貫四郎大夫廣綱
    葛西の三郎清重  八田の太郎朝重   榛谷の四郎重朝  加藤次景廉
    (安達)籐九郎盛長    大井の兵三次郎實春 山名の小太郎重国 武田の五郎信光
    北條の小四郎義時 小山兵衛の尉朝政
  小山の五郎宗政(御劔を持つ)
  佐々木四郎左衛門の尉高綱(御鎧を着す)
  愛甲の三郎季隆(御調度を懸く)
  御後、五位六位(布衣下括)三十二人
    源蔵人大夫頼兼  「武蔵の守(平賀)義信」   参河の守(源)範頼   遠江の守(安田)義定
    駿河の守(源)廣綱   伊豆の守(山名)義範   相模の守(大内)惟義   越後の守(安田)義資(御沓)
    上総の介(足利)義兼   前の対馬の守親光 前の上野の介範信 宮内大輔重頼
    皇后宮の亮仲頼  大和の守重弘   因幡の守(大江)廣元   村上右馬の助経業
(中略)
  次いで随兵十六人
(中略)
  次いで随兵六十人(弓馬の達者を清撰せらる。皆行列の最末に加わりました。御堂上りの後、各々門外の東西に控えました)
(中略)

「高綱甲装非難を受く」
 寺門にお入りなさるの間、(和田)義盛・(梶原)景時等は門外の左右に位置し支配しました。次いで御堂に上りました。胤頼が参進し御沓を取りました。(佐々木)高綱は御甲を着し前庭に控えました。観る者これを非難しました。脇立(胴の右腋に立て、すきまをふさぐもの)を以て甲の上に着すは失礼であると。ここに高綱の家来がこの事を聞き高綱に告げました。高綱は怒りて曰く、主君の御鎧を着すの日、もし有事の時、先ず脇立を取り進上するものである。巨難を加えるの者、未だ勇士の故実をわきまえずと。
 次いで左馬の頭(一条)能保(直衣、諸大夫一人・衛府一人を具す)・前の少将時家・侍従公佐・光盛・前の上野の介範信・前の対馬の守親光・宮内大輔重頼等、堂前に着座しました。「武州(平賀義信)」以下その傍らに着きました。次いで導師公顕、伴僧二十口を率い参堂し、供養の儀を演じました。事終わり布施を引かれました。比企の籐内朝宗・右近将監家景等役送しました。これより先布施物等を長びつに入れ、堂の敷石の所に担いで立ちました。俊兼・行政等これを執行した。時家・公佐・光盛・頼兼・範信・親光・重頼・仲頼・廣綱・義範・義資・重弘・廣元・経業・以廣・繁政・基繁・義兼・高重・邦通等、数反相替わり布施を取る。
(中略)

「頼朝明日御上洛のため軍士を招集す」
 お帰りの後、(和田)義盛・(梶原)景時を呼び寄せ、明日御上京有るべし。将兵等を招集しこれを記録させ、その内明日のあかつきに出発すべきの者は有るか。別してその連名書を急いで報告すべきの由よく命令されたようです。夜半に及び、各々申して云く、群をなして参る御家人、(千葉)常胤以下大将たる者二千九十六人、その内則ち上京すべきの由を申す者、(小山)朝政・(結城)朝光以下五十八人のようです。

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