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2007年5月20日 (日)

1187年 (文治3年)8月15日「鶴岡放生会」

1187年 (文治3年 丁未)

8月15日 癸未
「鶴岡放生会」
 鶴岡の放生会(ほうじょうえ)である。二品(頼朝)御出で。参河の守範頼・「武蔵の守(大内)義信」・信濃の守(加々美)遠光・遠江の守(安田)義定・駿河の守(源)廣綱・小山兵衛の尉朝政・千葉の介常胤・三浦の介義澄・八田右衛門の尉知家・足立右馬の允遠元等がつき従いました。流鏑馬(やぶさめ)が有りました。射手五騎、各々先ず馬場に渡り、次いで各々射ました。皆的に当たらずと云うこと無し。
「諏方盛澄流鏑馬の至芸を見せ厚免を蒙る」
 その後珍事が有りました。諏方大夫盛澄と云う者、流鏑馬の芸を極めた。秀郷朝臣の秘決を慣らい伝うに依ってである。ここに平家に従属し多年在京し、連々城南寺の流鏑馬以下の射芸に交りました。仍って関東に参向する事頗る延引するの間、二品御意向が有り、日来囚人と為すものである。而るに断罪されれば、流鏑馬の一流が永く衰退すべきの間、賢慮思いなされ煩い、月日を過ごすの処、今日俄にこれを呼び出され、流鏑馬を射るべきの由命令された。盛澄は承諾を申し、御うまや第一の悪馬を召し与えた。盛澄が騎せようと欲するの刻、御うまや従者が内密に盛澄に告げて云く、この御馬、的の前に於いて必ず右方に馳すなりと。則ち一の的の前に出て、右方に寄る。盛澄は生得の達者なれば、押し直してこれを射ました。始終相違無し。次いで小土器を以て五寸の串に挟み、三つこれを立てられた。盛澄また悉く射ました。次いで件の三箇の串を射るべきの由、重ねて仰せ出された。盛澄これを承り、すでに生涯の運を思い切ると雖も、心中に諏方大明神を祈念し奉り、神社の周りの垣の所をつつしんで見送りし、霊神に仕うべくしておれば、只今おまもりを垂れなされといえり。然る後矢先を平に捻り廻してこれを射るに、五寸の串皆これを射切る。観る者感心しない者はいなかった。二品(頼朝)の御気色また快然として、忽ち厚免を仰せられたようです。
  今日の流鏑馬
    一番 射手 長江の太郎義景   的立 野三刑部の丞盛綱
    二番 射手 伊澤の五郎信光   的立 河匂の七郎政頼
    三番 射手 下河邊庄司行平   的立 勅使河原の三郎有直
    四番 射手 小山の千法師丸   的立 浅羽の小三郎行光
    五番 射手 三浦の平六義村   的立 横地の太郎長重
(解説)
放生会(ほうじょうえ)・・・8月15日の捕獲した魚や鳥獣を野に放し、殺生を戒める儀式。
流鏑馬(やぶさめ)・・・馬上で馳せながら鏑矢で的を射る射技。
厚免(こうめん)・・・厚いなさけによって徳に赦免されること。

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