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2007年5月 3日 (木)

6.「泣く子と地頭には勝てぬ」平家滅亡後の乱暴狼藉

6.「泣く子と地頭には勝てぬ」平家滅亡後の乱暴狼藉

 鎌倉幕府の公式記録とされる「吾妻鏡」には、義経追討の名目で全国に配置した「守護」「地頭」の横暴が数多く記録されている。特に「地頭」の横暴の記述が多い。ただし、北条時政の子孫の編集であるから、時政に不都合な記述は少ない。他の武将の横暴の記述は多い。法皇や頼朝に報告され、記録が残っているものだけでも数十件ある。記録が紛失したり、まさに「泣く子と地頭には勝てぬ」と泣き寝入りしたものは数え切れないほどあるだろう。(参照2)
以下に平家物語で義仲軍の乱暴狼藉を非難している文章と類似している吾妻鏡に記述されている文章の一部を挙げてみる。

6.1 「平氏の時はかってこの儀なし」

 文治元年四月二十八日 「吾妻鏡」「平重遠、在京東士の不法を訴ふ」
 「今日、近江国(滋賀県)の住人で前出羽の守(平)重遠が参上した。これ累代の御家人である。年齢は八十才のようだ。頼朝はその志を哀れみ、御前に呼んだ。舎弟の十郎並びに僧の蓮仁等、助け支えを加えた。重遠が申して曰く、平治合戦の後、譜代のよしみを存ずるの間、ついに平家(清盛)の権威に従わずして、二十余年を送りました。たまたま御政権を執るの時に会い、安堵すべきのところ、かえって在京の関東の武士等がために、兵粮と称し、番役と号し、年貢を厳しく催促されるの条、はなはだもって耐え難し。およそ我が一身の訴えにあらず、諸人の愁いに及ぶ。「平氏の時はかってこの儀なし」。世上いまだ安定せざるかと。申し状の趣、もつとも正理に叶うの由御感想あり。よってしかる如きの乱暴を停止して、安堵の思いをなさしむべきの旨、直に御決裁ありと。叉国中の訴訟の事、ご指図あるべきの由と。」
 「平家を源氏に替え劣りたり」の嘆きは平家滅亡後、京都に駐留する鎌倉軍の兵粮米の現地調達による乱暴狼藉、群盗、義経追討の名目で全国に配置された「守護」「地頭」の横領、乱暴狼藉を非難したものだろう。後に定められた「御成敗式目(武士の守るべききまり)」にも守護や地頭は勝手な事や横暴をするな、違反すると辞めさせるぞと記述している。

6.2 「官庫を打ち開き年貢米を押し取る」

 文治三年四月二十三日「吾妻鏡」「重源、周防御家人の杣出妨げを訴ふ」「周防国在廰官人、地頭の非法を訴ふ」
 「 周防の国在廰官人等、言上の二箇條
一、得善(とこぜ)末武の地頭として、筑前の太郎(家重)、都乃一郡に横行せしめ、政府の「倉庫を打ち開き」年貢米を押し取る。狩猟を趣意として、公民を駈け寄せ集め、城郭の堀を構築し、自由に任せ、農業の勧めを妨害する事。」
 権力者となった鎌倉軍を直接非難できないので、義仲に罪を着せたのだろう。以下参照2に「吾妻鏡」「玉葉」に記述される乱暴狼藉事件を列記する。いかに「玉葉」の記事が「吾妻鏡」の記述と異なるか。つまり兼実には正確な情報が届いていないかがわかる。法皇や頼朝に報告される「守護」「地頭」の乱暴狼藉の情報が兼実には届いていないようだ。兼実の日記は朝廷の儀式の記録が重要なのである。

参考2.「平家滅亡前後の乱暴狼藉」事件

元歴元年 4月24日 「吾妻鏡」「賀茂社領への武家の狼藉を停む」
元歴元年10月27日 「吾妻鏡」「景時郎従の廣田庄領押妨を停む」

文治元年 2月 5日 「吾妻鏡」「散在の武士狼藉を致す」
文治元年 3月 4日 「吾妻鏡」「在洛の武士狼藉」
文治元年 4月26日 「吾妻鏡」「頼朝、實平・景時に武士の乱行禁止を命ず」
文治元年 4月28日 「吾妻鏡」「平重遠、在京東士の不法を訴ふ」

文治元年 5月19日 「吾妻鏡」「京の群盗、遠江の不逞武士の鎮定等を評議す」
文治元年 7月12日 「吾妻鏡」「鎮西の巡検を中原・近藤に命ず」「九州没官領に地頭定補の上範頼を帰洛せしむ」
文治元年 8月13日 「吾妻鏡」「院の庁、太宰府・在庁に下文を遣わし、武士の濫妨を停む」
文治元年 8月21日 「吾妻鏡」「頼朝、下河邊の四郎政義の鹿島社領侵椋禁止を採決す」
文治元年 9月 5日 「吾妻鏡」「小山有高の押妨を停む」
文治元年10月14日 「吾妻鏡」「頼朝、院宣を奏じて安田義定を召す」
文治元年10月15日 「吾妻鏡」「齋宮用途の進納、神宮領押妨停止の院宣到る」

文治2年 1月 5日 [玉葉] 「宇佐和気使、路頭にて狼藉出来す」
文治2年 1月 9日 「吾妻鏡」「高野山領の兵粮米・地頭を停む」
文治2年 1月11日 「吾妻鏡」「高瀬庄の武家の狼藉を停む」
文治2年 2月13日 「吾妻鏡」「時政より静の事、群盗処刑の事を報ず」
文治2年 3月 2日 「吾妻鏡」「今南・石負庄の兵粮米停止せしむ」「崇徳院領丹波栗村庄に武士の乱暴するを停む」
文治2年 3月10日 「吾妻鏡」「太神宮領地頭等狼藉を停止せしめ」
文治2年 3月16日 「吾妻鏡」「伊勢神領顛倒の奉行の事、諸国兵粮米停止の事、時政に伝ふ」
文治2年 3月18日 「吾妻鏡」「源俊隆、尾張の国中島郡所領安堵せらる」
文治2年 3月21日 「吾妻鏡」「諸国の兵粮米催しを停む」
文治2年 5月13日 「吾妻鏡」「洛中群盗頻発の院宣到来す」
文治2年 5月20日 [玉葉] 「信円行家の兄弟大進君を召し送る」「兼実能保に武士の狼藉を責む」
文治2年 5月29日 「吾妻鏡」「美濃石田郷の濫妨(略奪)を停む」
文治2年 6月  9日 「吾妻鏡」「播磨武士押領の事」
文治2年 6月21日 「吾妻鏡」「近畿の守護・地頭を停め、諸国武士の濫妨を禁ず」「武士の濫妨を停むべき国々」
                    「鎮西九国鎮定は経房の沙汰とす」「伊勢の地頭を改補す」
文治2年 7月 8日 「吾妻鏡」「能盛・定康の所知に武士濫妨(略奪)を停む」
文治2年 7月28日 「吾妻鏡」「新日吉領河肥・向津奥両庄の武士狼藉を停む」
文治2年 8月 5日 「吾妻鏡」「新日吉領の狼藉停止の請文」
文治2年 8月26日 「吾妻鏡」「由良庄、宗紀太の濫妨を停め、領家藤原範季に知行せしむ」
文治2年 9月 5日 「吾妻鏡」「諸国地頭に領家の所務缺怠を禁ず」
文治2年 9月15日 「吾妻鏡」「梶原朝景帰参、洛中状況を報ず」「群盗の張本平庄司脱獄す」
文治2年 9月25日 「吾妻鏡」「時定より則国の報告書届く」「廣由良御庄濫妨に関する報告書」
文治2年11月24日 「吾妻鏡」「現在謀反人の後のほか地頭の干渉を禁ず」

文治3年 1月19日 「吾妻鏡」「能保、土佐の希義墓田の横暴を停む」
文治3年 2月 9日 「吾妻鏡」「草野定康に近江領所を安堵せしむ」
文治3年 3月19日 「吾妻鏡」「法隆寺領鵤庄の地頭の押妨を停む」
文治3年 4月23日 「吾妻鏡」「重源、周防御家人の杣出妨げを訴ふ」「周防国在廰官人、地頭の非法を訴ふ」
文治3年 5月20日 「吾妻鏡」「名主、鹿島社領御寄進地を押領す」
文治3年 5月26日 「吾妻鏡」「宇治義定の代官、齋宮寮田を押領、義定恩地を収公せらる」
文治3年 6月20日 「吾妻鏡」「伊勢神宮領地頭の濫行を停む」
文治3年 6月29日 「吾妻鏡」「伊勢沼田御厨の地頭代官の押妨を停む」
文治3年 8月12日 「吾妻鏡」「京より群盗鎮圧の要請あり」
文治3年 8月19日 「吾妻鏡」「洛中狼藉鎮定のため、常胤・行平、上洛せしむ」「頼朝の経房宛て消息」
文治3年 8月27日 「吾妻鏡」「頼朝、使行平に付し京に言上する条々」「群盗の事」「狼藉の事」
文治3年 8月30日 「吾妻鏡」「常胤おくれて上洛す。」
文治3年 9月19日 [玉葉] 「群盗の事」
文治3年10月 3日 「吾妻鏡」「群盗の事」
文治3年10月 6日 「玉葉] 「群盗の事」
文治3年10月 8日 「吾妻鏡」「行平・常胤在京中の群盗征伐の事を報告す」
文治3年10月13日 「吾妻鏡」「伊勢沼田御厨重忠所領を吉見頼綱に充て行ふ、狼藉を停止」
文治3年11月25日 「吾妻鏡」「但馬住人山口家任所々に横行」
文治3年11月29日 [玉葉] 「別当隆房卿群盗の間の事を申す。」
文治3年12月 9日 [玉葉] 「宗範をもって条々の事を(群盗多き事なり)院に奏す。」

文治4年 2月 2日 「吾妻鏡」「地頭の所領につき諸人愁訴す」
文治4年 2月 5日 「玉葉」 「この夜群盗少将信清の家に入ると。」
文治4年 3月14日 「吾妻鏡」「平康頼、地頭の押妨を訴ふ」
文治4年 4月12日 「吾妻鏡」「地頭等庄家を押領」
文治4年 5月17日 「吾妻鏡」「昌寛眼代押妨の訴」
文治4年 6月 4日 「吾妻鏡」「播磨の国景時の郎従等の狼藉」
文治4年 7月 1日 「玉葉」 「別当隆房来たり、群盗の間の事を示す。」
文治4年 7月13日 「吾妻鏡」「美濃の国の郷々地頭押領の事」
文治4年 7月17日 「吾妻鏡」「藤原宗長、石清水神人と闘靜す」
文治4年 8月17日 「吾妻鏡」「群盗蜂起の事」
文治4年 8月20日 「吾妻鏡」「阿波麻殖保地頭の押妨を停む」
文治4年 9月 3日 「吾妻鏡」「頼朝、地頭重頼の不法を停む」
文治4年11月27日 「吾妻鏡」「群盗大庭景宗の墓を盗掘す」
文治4年12月 6日 「吾妻鏡」「東大寺僧と武家の使闘乱す」

文治5年 2月30日 「吾妻鏡」「阿武郡を東大寺に進じ、遠平の代官に退去を命ず」
文治5年 7月10日 「吾妻鏡」「伊勢沼田御厨地頭の押妨を停む」

文治6年 4月 4日 「吾妻鏡」「山田重隆・堀江禅尼の公領押妨を停む」
文治6年 4月18日 「吾妻鏡」「美濃犬丸等の地頭の対捍を停む」
文治6年 4月19日 「吾妻鏡」「太神宮役夫工米、地頭の未済を成敗す」
文治6年 5月29日 「吾妻鏡」「八條院領紀伊三上庄の地頭対捍す」
文治6年 6月29日 「吾妻鏡」「役夫工米の対捍につき請文を進ず」
文治6年 8月 3日 「吾妻鏡」「河内国地頭押領、糟屋有季狼藉の事」
文治6年10月 9日 「吾妻鏡」「近江田根庄地頭佐々木定綱の押妨を停む」

建久2年 5月 3日 「吾妻鏡」「定綱の濫行の件、頼朝の奏状」
建久2年 8月 7日 「吾妻鏡」「頼朝、任憲のため解状(訴状)を奏進す」

建久3年 6月20日 「吾妻鏡」「美濃御家人に命じ大内惟義指揮下に群盗を鎮めしむ」

建久4年 5月 7日 「吾妻鏡」「大江行義女押領を訴へ、朝景譲歩す」
建久4年 9月 7日 「吾妻鏡」「宣陽門院、群盗以下の狼藉」

建久5年 3月17日 「吾妻鏡」「諸国守護人の国領押妨を禁ず」
建久5年 5月20日 「吾妻鏡」「下野の国司、宇都宮朝綱の公田押掠を訴ふ」
建久5年12月10日 「吾妻鏡」「比企朝宗、越前志比庄を押領す」

建久6年 8月 6日 「吾妻鏡」「志楽庄並びに伊称保地頭の濫妨を訴ふ」
建久6年11月 4日 「吾妻鏡」「長門河棚庄の地頭を停む」

建久10年3月23日 「吾妻鏡」「頼家、神宮領六箇所の地頭職を停止す」

(これだけ乱暴狼藉事件が続けば、清盛平家の時代のほうが良かったと非難したくもなる。)

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