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2007年5月

2007年5月31日 (木)

1192年 (建久3年)4月2日「政子着帯す」

1192年 (建久3年 壬子)

4月2日 癸卯
「政子着帯す」
 午後4時頃、御台所(政子)御着帯。御加持(かじ)は安楽房阿闍梨、御験者(げんじゃ)は題学房(行慈)である。「武蔵の守(平賀)義信」の妻が御帯を持参した。幕下(頼朝)これを結びなさいました。今日以後、毎月御産平安の御祈祷を専念すべきの由、鶴岡神社に奉仕する僧に命じました。
(解説)
着帯(ちゃくたい)・・・妊娠5ケ月目に腹帯(岩田帯)を締めること。
加持(かじ)・・・仏の加護を祈ること。
験者(げんじゃ)・・・加持祈祷を行う修験道行者。

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2007年5月30日 (水)

8月6日「御行初めの儀」

8月6日 壬午
「御行初めの儀」
 御移転の後、御行初め(おなりはじめ)の儀式が有りました。午後4時頃、八田右衛門の尉(知家)の家(これまた新造)においでになりました。近距離なので徒歩である。糟屋籐太兵衛の尉(有季)が劔持ちをつとめた。「武蔵の守(大内義信)」・上総の介(足利義兼)以下行列に従う人済々としていました。知家(八田)が御引出物を献上した。宇都宮の四郎(朝業)が御劔を持参しました。子息(八田)兵衛の尉朝重が御馬を引きました。
(解説)
御行初め(おなりはじめ)・・・将軍が初めて外出する儀式。

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2007年5月29日 (火)

7月28日「頼朝新亭に入る」

7月28日 甲戌
「頼朝新亭に入る」
 寝殿・対屋(たいのや)・御厩等の造営が終了したので、今日御移転の儀がありました。午後10時頃に及び、籐九郎(安達)盛長の甘縄の家より新御亭にお入りになりました。「武蔵の守(大内義信)」・参河の守(範頼)・上総の介(足利義兼)・伊豆の守(山名義範)・越後の守(安田義賢)・大和の守(重弘)・千葉の介(常胤)・小山左衛門の尉(朝政)・三浦の介(義澄)・畠山の次郎(重忠)・八田右衛門の尉(知家)・同太郎左衛門の尉(知重)・土屋の三郎(宗遠)・梶原平三(景時)・和田左衛門の尉(義盛)等が行列にお供しました。梶原左衛門の尉(景季)は劔持ちをつとめた。橘右馬の允公長が弓矢道具を持ちまし知。河匂の七郎(政頼)が御甲(よろい)を着用した。
  随兵十六人(各々騎馬)。
   先陣
    三浦左衛門の尉義連   長江の太郎明義    小野寺の太郎道綱
    比企四郎右衛門の尉能員 千葉の四郎胤信    葛西の三郎清重
    小山の五郎宗政     梶原三郎兵衛の尉景茂
   後陣
    江間の四郎(義時)殿      修理の亮義盛     村上左衛門の尉頼時
    里見の太郎義成     工藤左衛門の尉祐経  狩野の五郎宣安
    伊澤の五郎信光     阿佐利の冠者長義

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2007年5月28日 (月)

1191年 (建久2年) 6月7日「幕府の南門を建つ」

1191年 (建久2年 辛亥)

6月7日 甲申
「幕府の南門を建つ」
 幕府の南門を建てられた。「武蔵の守(大内義信)」の指図である。成尋法橋これを執行した。幕下(頼朝)がおいでになり、造営の次第をご覧なされた。

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2007年5月27日 (日)

7月19日「頼朝奥州に進発す」「城長茂供に加えらる」

7月19日 丁丑
「頼朝奥州に進発す」
 午前10時頃、二品(頼朝)は奥州の(藤原)泰衡を征伐する為出発なされた。
「城長茂供に加えらる」
 この刻、(梶原)景時申して云く、城の四郎長茂は無双の勇士である。囚人と雖も、この時召集し供にされれば何事か有ろうかと。尤も然るべきの由仰せられた。仍ってその趣を長茂に会い知らせました。長茂は喜悦を成し御共に仕えました。但し囚人として旗を差すの條、その恐れ有り。御旗をいただくべきの由これを申しました。しかるに仰せに依って私の旗を用いました。時に長茂は同僚に談りて云く、この旗を見て、逃亡する家来等来たり従うべしと。御出発の儀、先陣は畠山の次郎重忠である。先ず人夫八十人が馬前に在りました。五十人は人別に戦闘用の矢三腰(雨衣を以てこれを包む)を荷ないました。三十人は鋤鍬(すきくわ)を持たせた。次いで引馬三頭、次いで重忠、次いで従軍五騎、所謂長野の三郎重清・大串の小次郎・本田の次郎・榛澤の六郎・柏原の太郎等これである。凡そ鎌倉出の御勢は一千騎である。次いで御駕(御弓袋差し・御旗差し・御甲冑等、御馬前に在り)。
  鎌倉出御より御共の輩、
   「武蔵の守(大内)義信」   遠江の守(安田)義定  参河の守範頼     信濃の守(加々美)遠光
   相模の守(大内)惟義   駿河の守(源)廣綱  上総の介(足利)義兼     伊豆の守(山名)義範
   越後の守(安田)義資   豊後の守(毛呂)季光  北條の四郎(時政)  同小四郎(義時)
   同五郎(時房)      式部大夫(中原)親能  新田蔵人義兼     浅利の冠者遠義
   武田兵衛の尉有義 伊澤の五郎(武田)信光 加々美の次郎長清   同太郎長綱
   小山兵衛の尉朝政 同五郎宗政   同七郎朝光      下河邊庄司行平
   吉見の次郎頼綱  南部の次郎光行 平賀の三郎朝信    三浦の介義澄
   同平六義村    佐原の十郎義連 和田の太郎義盛    同三郎宗實
   小山田の三郎重成 同四郎重朝   籐九郎盛長      足立右馬の允遠元
   土肥の次郎實平  同彌太郎遠平  岡崎の四郎義實    同先次郎惟平
   土屋の次郎義清  梶原平三景時  同源太左衛門の尉景季 同平次兵衛の尉景高
   同三郎景茂    同刑部の丞景友 同兵衛の尉定景    波多野の五郎義景
(以下略)

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2007年5月26日 (土)

6月9日「鶴岡塔供養」

6月9日 丁酉
「鶴岡塔供養」
 御塔の供養である。導師は法橋観性、呪願は法眼圓暁(若宮別当)、請僧(しやうそう)七口(四口は導師の伴僧、三口は若宮の供僧)。舞楽が有りました。二品(頼朝)御出です。但し宮寺の近々に於いては猶御慎みが有りました。柵の辺に御桟敷を構え、儀式を御覧ずるばかりです。隼人の佐(三善康清)並びに梶原平三景時等、兼ねて宮中の行事に奉仕しました。御出の儀、
  先陣の随兵
    小山兵衛の尉朝政        土肥の次郎實平
    下河邊庄司行平         小山田の三郎重成
    三浦の介義澄          葛西の三郎清重
    八田の太郎朝重         江戸の太郎重継
    二宮の小太郎光忠        熊谷の小太郎直家
    信濃の三郎光行         徳河の三郎義秀
    新田蔵人義兼          武田兵衛の尉有義
    北條の小四郎(義時)      武田の五郎信光
  次いで御歩(御束帯)
    御劔  佐貫四郎大夫廣綱
    御調度 佐々木左衛門の尉高綱
    御甲  梶原左衛門の尉景季
  次いで御後の人々(各々布衣)
    「武蔵の守(大内)義信」    遠江の守(安田)義定
    駿河の守(伏見)廣綱          参河の守頼範
    相模の守(大内)惟義          越後の守(安田)義資
    因幡の守(大江)廣元          豊後の守(毛呂)季光
    皇后宮権の少進(伊佐為宗)         安房判官代隆重
    籐判官代邦通          紀伊権の守有経
    千葉の介常胤          八田右衛門の尉知家
    足立右馬の允遠元        橘右馬の允公長
    千葉大夫胤頼          畠山の次郎重忠
    岡崎の四郎義實         籐九郎盛長
  後陣の随兵
(以下略)

(解説)
導師(どうし)・・・法会のとき、中心となる僧。
呪願(じゆがん)・・・法会のとき、施主の願意を述べる。
請僧(しやうそう)・・・招かれる僧
口(く)・・・人数を数えるに用いる語。

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2007年5月25日 (金)

5月19日「鶴岡塔供養願文の事」

5月19日 戊寅
「鶴岡塔供養願文の事」
 鶴岡塔の供養の事、来月九日に行われるべきの由定められるの間、御導師・御願文等の事、先日師中納言(経房)に申されました。仍って唱導師並びに伴僧等の施物以下の事、日来その指図が有りました。今日、先ず龍蹄(りようてい)八匹を南面に於いてこれを覧ました。(二階堂)行政・(藤原)俊兼・盛時等が、これを執行しました。「武蔵の守(大内義信)」御前に於いて御馬を立てました。次第、
   一匹 河原毛 千葉の介(常胤)が進上     一匹 葦毛 小山兵衛の尉(朝政)が進上
   一匹 黒   信濃の守(加々美遠光)が進上  一匹 栗毛 源蔵人大夫頼兼  が進上
   一匹 鴾毛  三浦の介(義澄)が進上     一匹 糟毛 佐々木四郎左衛門の尉が進上
   一匹 黒栗毛 遠江の守(安田義定)が進上   一匹 黒  相模の守(大内惟義)が進上
(解説)
龍蹄(りようてい)・・・すぐれてたくましい馬。駿馬。
河原毛(かわらげ)・・・薄茶色の馬
鴾毛(つきげ)・・・葦毛のやや赤みのあるもの
葦毛(あしげ)・・・白い毛に黒・濃褐色などの差し毛のあるもの
栗毛(くりげ)・・・たてがみと尾は赤褐色で、地色の赤黒色のもの。 
糟毛(かすげ)・・・灰色に白いさし毛の交じったもの。

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2007年5月24日 (木)

1189年 (文治5年) 4月18日「北條時連元服す」

1189年 (文治5年 己酉)

4月18日 庚寅
「北條時連元服す」
 北條殿の三男(十五歳)御所に於いて元服を加えらる。夕方の程、西侍に於いてこの儀式が有りました。「武州(武蔵の守平賀義信)」・駿河の守廣綱・遠江の守(安田)義定・参河の守範頼・江間(北条義時)殿・新田蔵人義兼・千葉の介常胤・三浦の介義澄・同十郎義連(佐原)・畠山の次郎重忠・小山田の三郎(稲毛)重成・八田右衛門の尉知家・足立右馬の允遠元・工藤庄司景光・梶原平三景時・和田の太郎義盛・土肥の次郎實平・岡崎の四郎義實・宇佐美の三郎祐茂等が着座した(東上)。二品(頼朝)がお出ましです。先ず三献。江間(義時)殿が御酌を取らしめなされた。千葉の小太郎成胤相代わりこれを勤めた。次いで童形(どうぎやう)召しに依って参進せられ、御前にひざまづきました。
「三浦義連加冠を勤む」
 次いで三浦の十郎義連に加冠たるべきの由仰せられた。義連は頻りに敬屈(きょうくつ)し、頗る辞退の気が有りました。重ねて仰せに曰く、只今上位の者多く仕えるの間、一旦の辞退は然るべし。但し先年三浦に御出の時、故(平)廣常と(岡崎)義實との論争、義連これを宥めるに依って無為とした。その心がけに尤も感じ思いなされました。この小童は、御台所(政子)殊になさけをかけなさるの間、将来に至り味方たらしめんと欲するが故、協議し仰せられる所である。この上は詳細に及ばず。小山の七郎朝光・八田の太郎朝重脂燭(しそく)を取り進み寄る。梶原源太左衛門の尉景季・同平次兵衛の尉景高が雑具を持参した。義連は加冠に仕えた。名字(時連、五郎と)。今夜の加冠の役の事、事前に定められざるの間、思い準備するの者ども多く仕えると雖も、当座の御処置、とやかく言うに能わざる事か。
(解説)
童形(どうぎやう)・・・元服以前の少年
敬屈(きょうくつ)・・・光長かがめて敬礼すること
脂燭(しそく)・・・照明用具

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2007年5月23日 (水)

7月15日「勝長寿院の万燈会」

7月15日 己酉
「勝長寿院の万燈会」
 先考(義朝)御追福の御為、勝長寿院(南御堂)に於いて万燈会(まんどうえ)を勤修(ごんしゅ)されました。「武州(武蔵の守平賀義信)」並びに千葉の介常胤・遠元(足立)等これを指図しました。二品(頼朝)及び御台所(政子)等の御参堂有りました。
(解説)
追福(ついふく)・・・追善。死者の冥福を祈る行事。
万燈会(まんどうえ)・・・一万の灯明を供養する法会。
勤修(ごんしゅ)・・・修行

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2007年5月22日 (火)

7月10日「頼家着甲始めの儀」

7月10日 甲辰
「頼家着甲始めの儀」
 若公(万寿公、七歳)始めて御甲(よろい)を着用なされた。南面に於いてその儀式が有りました。時刻に二品(頼朝)がお出ましになりました。江間(義時)殿参進し御簾(みす)を上げました。次いで若公がお出ましでした。「武蔵の守(平賀)義信(乳母夫)」・比企の四郎能員(乳母兄)これをたすけました。しばらくして小山兵衛の尉朝政、御甲直垂(青地錦)を持参した。以前の御装束を改め、朝政が御腰を結びました。次いで千葉の介常胤、御甲納櫃(おさめびつ)を持参した。子息胤正・師常これを担ぎ前行した。胤頼がたすけ、また後に従いました。常胤御甲を南に向かい立てました。この間、梶原源太左衛門の尉景季が御剣を進上した。三浦の十郎義連が御劔を進上した。下河邊庄司行平が御弓を持参した。佐々木の三郎盛綱御が征矢(そや)を献上した。八田右衛門の尉知家が御馬(黒、鞍を置く)を献上した。子息朝重これを引いた。三浦の介義澄・畠山の次郎重忠・和田の太郎義盛等が助けて乗せました。小山の七郎朝光・葛西の三郎清重が騎轡(くつわつら)に付きました。小笠原の弥太郎(長経)・千葉の五郎(胤通)・比企の彌四郎(時貞)等が御馬の左右にそばに仕えました。三度南庭を打ち廻り下りました。今度は足立右馬の允遠元これを抱きました。次いで甲以下解き脱ぎました。
 親家、御武具・御馬をいただいて、御厩(おうまや)の納殿(おさめどの)等に入りました。その後武州(平賀義信)御馬を二品(頼朝)に献上した。里見の冠者義成これを引きました。
 次いで西侍に於いて酒宴が有りました。二品釣殿の西面(母屋の御簾を上ぐ)にお出ましになりました。武州(平賀義信)が準備する所である。初献の御酌は朝光、二献は義村(三浦)、三献は清重(葛西)である。お入りの後、武州(平賀義信)が酒とさかな並びに生衣(すずし)一領、同じく小袖五領を御台所(政子)に差し上げた。若公の御吉事を祝賀し申すが故である。
(解説)
征矢(そや)・・・戦闘用の矢
騎轡(くつわつら)・・・くつわ。くつわに連なる手綱。
生衣(すずし)・・・生の絹糸の織物。

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2007年5月21日 (月)

1188年 (文治4年) 1月20日「頼朝、伊豆・箱根・三島社に詣ず」

1188年 (文治4年 戊申)

1月20日 丙辰
「頼朝、伊豆・箱根・三島社に詣ず」
 二品(頼朝)鎌倉を立ち、伊豆・箱根・三島社等に参詣なされました。武州「武蔵の守(大内)義信」・三州(範頼)・駿州(源広綱)・源蔵人大夫(頼兼)・上総の介(足利義兼)・新田蔵人(義兼)・奈胡蔵人(義行)・里見の冠者(義成)・徳河の次郎等がつき従いました。伊澤の五郎(信光)・加々美の次郎(長清)・小山の七郎(朝光)以下随兵三百騎に及びました。
「相模河に浮橋を架す」
三浦の介義澄の指図として、浮橋を相模河に構成しました。

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2007年5月20日 (日)

1187年 (文治3年)8月15日「鶴岡放生会」

1187年 (文治3年 丁未)

8月15日 癸未
「鶴岡放生会」
 鶴岡の放生会(ほうじょうえ)である。二品(頼朝)御出で。参河の守範頼・「武蔵の守(大内)義信」・信濃の守(加々美)遠光・遠江の守(安田)義定・駿河の守(源)廣綱・小山兵衛の尉朝政・千葉の介常胤・三浦の介義澄・八田右衛門の尉知家・足立右馬の允遠元等がつき従いました。流鏑馬(やぶさめ)が有りました。射手五騎、各々先ず馬場に渡り、次いで各々射ました。皆的に当たらずと云うこと無し。
「諏方盛澄流鏑馬の至芸を見せ厚免を蒙る」
 その後珍事が有りました。諏方大夫盛澄と云う者、流鏑馬の芸を極めた。秀郷朝臣の秘決を慣らい伝うに依ってである。ここに平家に従属し多年在京し、連々城南寺の流鏑馬以下の射芸に交りました。仍って関東に参向する事頗る延引するの間、二品御意向が有り、日来囚人と為すものである。而るに断罪されれば、流鏑馬の一流が永く衰退すべきの間、賢慮思いなされ煩い、月日を過ごすの処、今日俄にこれを呼び出され、流鏑馬を射るべきの由命令された。盛澄は承諾を申し、御うまや第一の悪馬を召し与えた。盛澄が騎せようと欲するの刻、御うまや従者が内密に盛澄に告げて云く、この御馬、的の前に於いて必ず右方に馳すなりと。則ち一の的の前に出て、右方に寄る。盛澄は生得の達者なれば、押し直してこれを射ました。始終相違無し。次いで小土器を以て五寸の串に挟み、三つこれを立てられた。盛澄また悉く射ました。次いで件の三箇の串を射るべきの由、重ねて仰せ出された。盛澄これを承り、すでに生涯の運を思い切ると雖も、心中に諏方大明神を祈念し奉り、神社の周りの垣の所をつつしんで見送りし、霊神に仕うべくしておれば、只今おまもりを垂れなされといえり。然る後矢先を平に捻り廻してこれを射るに、五寸の串皆これを射切る。観る者感心しない者はいなかった。二品(頼朝)の御気色また快然として、忽ち厚免を仰せられたようです。
  今日の流鏑馬
    一番 射手 長江の太郎義景   的立 野三刑部の丞盛綱
    二番 射手 伊澤の五郎信光   的立 河匂の七郎政頼
    三番 射手 下河邊庄司行平   的立 勅使河原の三郎有直
    四番 射手 小山の千法師丸   的立 浅羽の小三郎行光
    五番 射手 三浦の平六義村   的立 横地の太郎長重
(解説)
放生会(ほうじょうえ)・・・8月15日の捕獲した魚や鳥獣を野に放し、殺生を戒める儀式。
流鏑馬(やぶさめ)・・・馬上で馳せながら鏑矢で的を射る射技。
厚免(こうめん)・・・厚いなさけによって徳に赦免されること。

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2007年5月19日 (土)

7月28日 「吾妻鏡」「新日吉領河肥・向津奥両庄の武士狼藉を停む」

7月28日 「吾妻鏡」癸卯
「新日吉領河肥・向津奥両庄の武士狼藉を停む」
 師中納言(経房)のご命令文書が到来した。新日吉領の武蔵の国河肥庄の地頭が徴収を拒否する去々年の年貢の事、並びに同領長門の国向津奥庄の武士の狼藉の事、庄家の上申書を取りこれを下された。早く尋問し成敗なされるべきの由、これを記録された。去る六月一日の御文書である。向津奥の事は、尋問すべきの趣、当座に於いて直に下河邊庄司行平にご命令された所である。河肥の事は管理を請け負う所である。但し領主は幼少の間、年貢の如き事、殊に不法の事有るようです。別の執行人を差し向け、厳密な識別を致させるべきの旨、御文書を「武蔵の守(平賀大内義信)」の許に遣わされたようです。(藤原)俊兼が執行人のようです。

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2007年5月18日 (金)

1186年 (文治2年) 1月3日「頼朝直衣始め儀、鶴岡社に詣づ」

1186年 (文治2年 丙午)

1月3日 壬午 去る夜の雪猶地に委す
「頼朝直衣始め儀、鶴岡社に詣づ」
 去年二品に任官なされた後、未だ御直衣始(なほしはじめ)めの指図がありません。豫州(義経)の事に依って、世上未だおだやかに治まらずと雖も、且つは人民安堵の思いを成さしめんが為、今日その儀、服装を整え、行列の威儀をただされた。則ち鶴岡八幡宮にお参りなされました。左典厩(一条能保)・前の少将時家等参会しました。また「武蔵の守(平賀)義信」・宮内大輔重頼・駿河の守(源)廣綱・散位(源)頼兼・因幡の守(大江)廣元・加賀の守(源)俊隆・筑後権の守(藤原)俊兼・安房判官代(源)高重・籐判官代邦通・所雑色基繁・千葉の介常胤・足立右馬の允遠元・右衛門の尉(八田)朝家・散位(東)胤頼等が行列に加わりました。随兵十人は最末に在り。
    武田兵衛の尉有義  板垣の三郎兼信 工藤庄司景光  岡部権の守泰綱  渋谷庄司重国
    江戸の太郎     市河別当行房  小諸の太郎光兼 下河邊庄司行平  小山の五郎宗政
「東胤頼、父と対座す」
 神への捧げの事が終り、お帰りの後、椀飯(食事会)が有りました。そもそも今日御神拝の間、行列に加わる人等、神社の庭の左右に相分かれ着座した。而るに東胤頼(とう たねより)は父常胤に相対して着座した。いささか座の下方に寄るようです。人々は感心しなかった。これ命令に依って此の如しのようです。常胤は父たりと雖も六位である。胤頼は子たりと雖も五品である。官位は天皇の授けた所である。何ぞ賞せざるやの由命令下されたようです。この胤頼は、平家が天下の権を執るの時、京都に滞在すと雖も、更にその栄貴にへつらわず。遠藤左近将監持遠の推挙に依って、上西門院(統子)に仕えた。御給を被り従五位下に任官した。また持遠のよしみに就いて、神護寺の文學上人を以て師僧と檀家と為した。文學が伊豆の国に在る時味方となり、二品に示し申すの旨有り。遂に義兵を挙げなさるの頃、父の常胤に勧め最前に参向せしめた。兄弟六人の中殊に大功をぬきんずる者である。

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2007年5月17日 (木)

10月24日「勝長寿院落慶供養、頼朝臨む」

10月24日 癸酉 天霽風静まる
「勝長寿院落慶供養、頼朝臨む」
 今日南御堂(勝長寿院と号す)供養を遂行されました。午前4時頃、御家人等の中、殊なる健士を差し辻々を警固した。宮内大輔重頼が会場以下の行事を執行しました。堂の左右に仮屋を構えた。左方は二品(頼朝)の御座、右方は御台所(政子)並びに左典厩(一条能保)の室家等の御聴聞(ちゃうもん)所である。御堂前の簀子(すのこ)を以て布施取り二十人の座とした。山本にまた北條殿室並びに然るべき御家人等の妻の聴聞所が有ります。午前10時頃、二品(頼朝が御束帯で)御出発です。御歩儀。
  行列
  先ず随兵十四人
    畠山の次郎重忠  千葉の太郎胤正   三浦の介義澄   佐貫四郎大夫廣綱
    葛西の三郎清重  八田の太郎朝重   榛谷の四郎重朝  加藤次景廉
    (安達)籐九郎盛長    大井の兵三次郎實春 山名の小太郎重国 武田の五郎信光
    北條の小四郎義時 小山兵衛の尉朝政
  小山の五郎宗政(御劔を持つ)
  佐々木四郎左衛門の尉高綱(御鎧を着す)
  愛甲の三郎季隆(御調度を懸く)
  御後、五位六位(布衣下括)三十二人
    源蔵人大夫頼兼  「武蔵の守(平賀)義信」   参河の守(源)範頼   遠江の守(安田)義定
    駿河の守(源)廣綱   伊豆の守(山名)義範   相模の守(大内)惟義   越後の守(安田)義資(御沓)
    上総の介(足利)義兼   前の対馬の守親光 前の上野の介範信 宮内大輔重頼
    皇后宮の亮仲頼  大和の守重弘   因幡の守(大江)廣元   村上右馬の助経業
(中略)
  次いで随兵十六人
(中略)
  次いで随兵六十人(弓馬の達者を清撰せらる。皆行列の最末に加わりました。御堂上りの後、各々門外の東西に控えました)
(中略)

「高綱甲装非難を受く」
 寺門にお入りなさるの間、(和田)義盛・(梶原)景時等は門外の左右に位置し支配しました。次いで御堂に上りました。胤頼が参進し御沓を取りました。(佐々木)高綱は御甲を着し前庭に控えました。観る者これを非難しました。脇立(胴の右腋に立て、すきまをふさぐもの)を以て甲の上に着すは失礼であると。ここに高綱の家来がこの事を聞き高綱に告げました。高綱は怒りて曰く、主君の御鎧を着すの日、もし有事の時、先ず脇立を取り進上するものである。巨難を加えるの者、未だ勇士の故実をわきまえずと。
 次いで左馬の頭(一条)能保(直衣、諸大夫一人・衛府一人を具す)・前の少将時家・侍従公佐・光盛・前の上野の介範信・前の対馬の守親光・宮内大輔重頼等、堂前に着座しました。「武州(平賀義信)」以下その傍らに着きました。次いで導師公顕、伴僧二十口を率い参堂し、供養の儀を演じました。事終わり布施を引かれました。比企の籐内朝宗・右近将監家景等役送しました。これより先布施物等を長びつに入れ、堂の敷石の所に担いで立ちました。俊兼・行政等これを執行した。時家・公佐・光盛・頼兼・範信・親光・重頼・仲頼・廣綱・義範・義資・重弘・廣元・経業・以廣・繁政・基繁・義兼・高重・邦通等、数反相替わり布施を取る。
(中略)

「頼朝明日御上洛のため軍士を招集す」
 お帰りの後、(和田)義盛・(梶原)景時を呼び寄せ、明日御上京有るべし。将兵等を招集しこれを記録させ、その内明日のあかつきに出発すべきの者は有るか。別してその連名書を急いで報告すべきの由よく命令されたようです。夜半に及び、各々申して云く、群をなして参る御家人、(千葉)常胤以下大将たる者二千九十六人、その内則ち上京すべきの由を申す者、(小山)朝政・(結城)朝光以下五十八人のようです。

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2007年5月16日 (水)

9月3日「義朝の遺骨を南御堂の地に葬る」

9月3日 癸未
「義朝の遺骨を南御堂の地に葬る」
 御前零時頃、故左典厩(義朝、頼朝の父)の御遺骨(正清の首を副える)を南御堂の地に埋葬なされました。路次(旅)御輿を用いられました。恵眼房・専光房等この事を指図いたすものである。武蔵の守(平賀)義信・陸奥の冠者頼隆が御輿をかきました。二品(頼朝)は白地の衣服を御着用なされ、お参りなされました。御家人等多く行列に加わると雖も、皆囲いの外に止められました。ただ召しお供される所は、(平賀)義信・頼隆・(大内)惟義等である。武州(平賀)は、平治の逆乱の時亡父の御共(時に平賀の冠者と号す)をいたしました。頼隆は、またその父毛利の冠者義隆、亡者の御身に相替わり討ち取られました。かれこれ昔からのよしみの跡を思いなされるに依って、これを召し選抜されたようです。
(解説)
左典厩(さてんきゅう)・・・左馬頭(さまのかみ)。馬寮(めりょう、官馬の役所)の長官。
正清・・・鎌田次郎兵衛尉、藤原。平治の乱の後、義朝、頼朝、義信らと共に東国へ向かう。
義隆・・・陸奥六郎義隆。平治の乱の後、天台山にて討ち死に。

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2007年5月15日 (火)

8月24日「下河邊庄司行平鎮西より帰り弓を献ず」

8月24日 甲戌
「下河邊庄司行平鎮西より帰り弓を献ず」
 下河邊庄司行平が帰参の御許しを受け、九州より去る夜参着した。これ参州(範頼)に相副え西海に発向し、軍務に忠節をつくしました。同時に派遣される所の御家人等、巡回に堪えずして多く以て帰参した。行平は今に在国すること御感心有るようです。今日居所中に参り盃酒を献上しました。二品(頼朝)が出席されました。武州(大内義信)・北條殿(時政)以下群がり参列した。行平、九州第一と称し、弓一張を進上するの処、仰せに曰く、わけも無くこれを納得し難し。九州に派遣の関東武士、悉く兵粮無くして大将軍を棄て、多く以て帰参した。汝の所領と九州とはすでに数箇月の行程を隔てるところである。乗馬を全うし参上すること、猶不思議と謂うべきである。あまりさえ盃酒を勧め土産を献上した。彼の国に於いて人の賄賂を取らなければ、いかでか此の如きの貯え有るだろうか。奇怪であるといえる。行平は陳述申して云く、在国の程は、兵粮の計略を失い、日数を経るの間、郎等等を扶けんが為、彼の者どもの甲冑以下武具を売却させました。而るに豊後の国(大分県)に渡るの時は、同僚は皆参州(範頼)の御船を頼みました。行平は敢えて私を顧みず忠を存ずるの故、先陣を意に任せんが為、わずかに残し置く所の自分の鎧を以て、小舟に交換し、甲冑を着けずと雖も、船にさおし最前に着岸し、敵陣に入り美気の三郎を討ち取りました。凡そ毎度功をつくすの條、大将軍の見知は明らかであります。今召しに依って参らんと欲するの処進物無き事所存に違う。
「行平勲功の賞に播磨の守守護職を賜る」
 この弓は九国に於いて名誉の由兼ねて以て風聞しました。その主は不慮の外にこれを売却しました。行平これを喜びちょうどその時小袖二領を着ていました。仍って一領これを脱ぎこれに替えました。時に参州(範頼)の近従者等餞別の為来会し、この事を見て頻りにこれに感心しました。呼び出して尋ねらるべきでしょう。次いで盃酒を献上する事は、下総の国に留め置くの家来、矢作の二郎・鈴置の平五等、兵粮を用意し途中に来向しました。これを以てもてなしの料に宛てさせました。全く他物を貪らずと。二品はつぶさにこれをお聞きなされました、感涙を浮かべその志に喜びなされました。仰せに曰く、行平は日本無双の弓取である。よろしき弓を見知るの條、汝が眼に過ぐべからず。然れば重宝たるべしといえり。則ち廣澤の三郎を召しこれを張らしめ、自ら引き試みなされました。殊に御意思に相叶うの由仰せられました。直に御盃を行平に与えました。仰せに曰く、西国の者大底これを見るか。今度の勲功に依って、一国の守護職に宛て行わおうと欲しました。何国を所望すべしといえり。行平申して云く、播磨の国は須磨・明石等の名勝が有ります。書写山の如きの霊場が有ります。尤も所望すと。早く御計略有るべきの由承諾し命令されたようです。
(解説)
下河邊庄・・・茨城、埼玉、千葉3県にまたがる庄。

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2007年5月14日 (月)

1185年6月7日 「頼朝、簾中より宗盛を見る」

1185年 (元暦2年、8月14日改元 文治元年 乙巳)

6月7日 戊午
「頼朝、簾中より宗盛を見る」
 前の内府(宗盛)、近日帰京します。面会すべきかの由、因幡の前司(大江広元)に問い合わされました。これ本三位中将(重衡)下向の時対面なされたが故である。而るに廣元申して云く、今度の儀、以前の例に似るべきではありません。君は天下の濫刑を鎮め、その品すでに二品の官位をさずけられました。彼は過て朝敵と為り、無位の囚人であります。御対面の條、還って軽骨の非難を招くべしと。仍ってその儀を止められ、簾中(れんちゅう)に於いてその躰をご覧になりました。多くの人が群がって参列しました。しばらくありて前の内府(浄衣、立烏帽子を着す)西侍の障子の上(ほとり)に出ました。武蔵の守(大内義信)・北條殿(時政)・駿河の守(源広綱)・足利の冠者(義兼)・因幡の前司(大江広元)、筑後権の守(藤原俊兼)・足立馬の允(遠元)等その砌(みぎり)に参列しました。二品(頼朝)は比企の四郎能員を以て仰せられて云く、御一族に於いて、指せる遺恨を存ぜずと雖も、天皇のお定めをいただくに依って、追討使を発するの処、すなわち都から遠い土地に招きよせられました。且つは恐れ思いなさると雖も、尤も武術の面目に備えんと欲すといえば、能員が内府の前にひざまづき、詳細を述べるの処、内府は座を動かし、頻りにおもねりへつらいの気が有りました。こたえ申される趣旨また明らかではありません。ただ露のようにはかない命を救わしめいただければ、出家を遂げ仏道を求むの由のようです。これ将軍四代の孫として、武勇を家にうけ、相国(清盛)第二の息子として、官職と報酬は任意でした。然れば武威を憚るべからず。官位を恐るべからず。何ぞ能員に対し礼節有るべきや。死罪更に礼に優ぜらるべきではないと。視る者弾指するようです。
(解説)
濫刑(らんけい)・・・みだりに刑罰を加えること。
品(ほん)・・・親王の位。
簾中(れんちゅう)・・・すだれのうち。
西侍(にしさぶらい)・・・侍の詰め所。西と東がある。
上(ほとり)・・・あたり。
砌(みぎり)・・・軒下の石畳のところ
足利 義兼(あしかが よしかね)・・・妻は北条政子の妹。
足立遠元(あだちとおもと)・・・藤原氏。平治の乱では義朝に仕えた。
比企能員(ひきよしかず)・・・頼朝の乳母比企尼の養子。

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2007年5月13日 (日)

8月17日「義経左衛門少尉に任官のことを報ず」

8月17日 癸酉
「義経左衛門少尉に任官のことを報ず」
 源九郎義経主の使者が参着した。申して云く、去る六日左衛門少尉に任ぜられ、検非違使の宣旨(天皇の命令)をいただきました。これ所望の限りに非ずと雖も、度々の勲功を黙止せられ難きに依って、自然の朝恩たるの由命令下されるの間、かたく辞退することが出来ないようです。この事頗る武衛(頼朝)の御気色に違います。範頼・(平賀)義信等の朝臣受領の事は、御意より起こり推挙し申される事である。
「頼朝怒り、平家追討使任命を猶予す」
この主の事に於いては、内密の儀有り。言うまでも無く聴されざるの処、遮って所望せしむかの由御疑いが有りました。凡そ御意思に背かれる事、今度に限らないようだ。これに依って平家追討使たるべき事、暫く御猶予有りのようです。
(解説)
左衛門(さえもん)・・・左の衛門府(皇宮警察)
尉(じょう)・・・判官、4等官の第3位。次官(すけ)の下。
検非違使(けびいし)・・・(裁判官兼警察官)。
朝臣(あそん)・・・宮廷の臣下、五位以上の人。

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2007年5月12日 (土)

7月20日「鶴岡若宮の傍らに熱田社を勧請す」 

7月20日 丙午
「鶴岡若宮の傍らに熱田社を勧請す」
 この間、鶴岡若宮の傍らに於いて、社殿を新造されました。今日熱田大明神(名古屋市熱田区)を勧請(かんじょう)し奉らる所である。仍って武衛(頼朝)お参りされました。武蔵の守(平賀)義信・駿河の守廣綱以下の門客等、殊に外出の装束を整え行列に加わりました。結城の七郎朝光が御劔を持ちました。河匂の三郎實政が御道具をささげ持ちました。この實政は、去年の冬上京の時、渡船の論に依って、一條の次郎忠頼と合戦するの間、御機嫌を損なうと雖も、武勇の誉れかなりの昔の聞こえに恥じません。幾数け月を経ずお許しが有りました。あまりさえ、この役に従事し、親しみ近づきなされました。観る者不思議の思いを成すようです。御遷宮の事が終了の後、貢税料所として、相模国内の一村を御寄附されました。筑後権の守俊兼が神前に召され、御寄附状を書きました。
(解説)
勧請(かんじょう)・・・分霊を迎える。
門客(もんかく)・・・譜代でなく新規召し抱えの家臣。
結城の七郎朝光・・・小山、頼朝の御乳母の末子
河匂の三郎實政・・・河匂荘(現在の二宮町)の武士らしい。
一條の次郎忠頼・・・甲斐源氏。武田。元歴元年6月16日に殺された。
遷宮(せんぐう)・・・神社の本殿の造営修理に際し、神体をうつすこと。
貢税料所(ぐぜいりょうしょ)・・・神社仏閣の費用に供するために寄進された知行所。
筑後権の守俊兼・・・藤原、右筆(書記)

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2007年5月11日 (金)

6月21日「頼朝、義経の官途吹挙を許さず」

6月21日 戊寅
「頼朝、義経の官途吹挙を許さず」
 武衛(頼朝)、範頼・(平賀)義信・廣綱等を召集し勧盃が有りました。次いで人事異動の事についてご命令がありました。各々喜悦なされました。なかんずくに源九郎主が頻りに官職の吹挙を望むと雖も、武衛(頼朝)敢えて許容されませんでした。先ず蒲の冠者範頼を推挙し申されるの間、殊にその厚恩を悦ぶようです。

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2007年5月10日 (木)

6月20日「小除目の除書到来す」

6月20日 丁丑
「小除目の除書到来す」
 去る五日小幅の人事異動が行われた。その人事異動の文書が今日到来した。武衛(頼朝)申しあげなされた任人の事相違無し。
所謂権大納言平頼盛・侍従同光盛・河内の守同保業・讃岐の守籐の能保、参河の守源範頼・駿河の守同廣綱・武蔵の守同(平賀)義信と。
(解説)
平頼盛・・・平忠盛の五男、母は池禅尼。池大納言と称された。異母兄平清盛とは不仲だった
平光盛・・・平頼盛の三男。
平保業・・・平頼盛の長男。
讃岐の守籐の能保・・・一条 能保(いちじょう よしやす)、頼朝の縁者、妻は源頼朝の同母妹

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2007年5月 9日 (水)

平賀(大内)義信

平賀(大内)義信

1184年 (壽永3年、4月16日改元 元暦元年 甲辰)

5月21日 戊申
「頼朝、泰経に遷任・任官の事奏請を請ふ」
 武衛(頼朝)は御文書を泰経(高階、大蔵卿)朝臣に遣わされた。これは池前の大納言(平頼盛)・同息男を元の官職に復職されるべき事、
並びに御一族の源氏の中、範頼・廣綱(伏見)・(平賀、大内)義信等、一州の国司をゆるされるべき事、内々協議し天皇に申し上げされるべきの趣旨である。大夫屬入道(善信、俗名康信)この御文書を書き、雑色の鶴太郎に任せたようです。
(解説)
範頼・・・頼朝の弟、義経と共に義仲追討、平家追討に功績あり。
廣綱・・・源頼政の孫、頼政の息子仲綱の息子。
義信・・・甲斐源氏。源義家の弟・新羅義光の孫。平治合戦の折り、義朝・頼朝と共に戦う。信濃佐久平賀の武将。
大夫屬入道(善信、俗名康信)は治承4年6月19日使者を送り京都の情勢を伝えている。元歴元年4月14日に京都から鎌倉に到着した。
 頼盛は命の恩人、範頼は弟で一ノ谷合戦の功労者だが、義信の功績は何だろう。「吾妻鏡」の記述では元暦元年5月21日からいきなり始まり武蔵の守に推薦される。弟の範頼に続く厚待遇である。前年の寿永2年の記述が無いので、どのような功績か不明である。佐久の武将根井行親の近くにいたので、義仲挙兵の初期は義仲に協力したようだが、寿永2年からは頼朝に従がったようだ。

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2007年5月 8日 (火)

「猫おろし事件の真相」11.まとめ

「猫おろし事件の真相」

11.まとめ

 いずれにしても、この「猫おろし」の話しは捏造つまり創作に違いないが、当時勢力を拡張し、貴族や寺社の権益を浸食する鎌倉の関東武士の横暴への反感が含まれている事は間違いない。あからさまに権力者たる頼朝などの関東武士を非難したり、からかう事は出来ない。運悪く滅ぼされた義仲がその代替えになった。つまり義仲や義仲の家臣を関東または越後の武士の誰かとその家来に置き換えても通用する話しである。案外、清盛の父の忠盛などの伊勢平氏の武士の初期の話しかもしれない。
 とにかく京都市内の中央貴族から見れば、京都郊外は勿論、近県でさえも田舎である。作者は義仲または関東武士を非難する気持ちで、貴族をからかう無礼な者として記述したようだが、読者や聴衆の中には義仲は貴族をからかう痛快で面白い奴と好意的に誤解している者もいるようだ。
 なお、義経も頼朝に滅ぼされたが、義経は当時の戦闘方法としては不当とされる「一騎打ちを避ける」「奇襲」「夜襲」「非戦闘員の殺傷」などを多用している事がさりげなく記述されている。後代の戦争では「集団戦」「奇襲」「夜襲」「非戦闘員の殺傷」は当たり前となってしまった。

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2007年5月 7日 (月)

「猫おろし事件の真相」10.九条兼実の容貌観察

「猫おろし事件の真相」

10.九条兼実の容貌観察

 「源平盛衰記」によると「木曾冠者義仲は、貌形(みめかたち)は清気(きよげ)にて美男なり」とか、「平家物語延慶本」では「木曽義仲は、みめ形きよげにて、よき男」とあり容貌は良いようである。義経の容貌は「九郎は色白、背小さきが、むかば【向歯】」とうわさされているが、山本義経という武将と勘違いしたとか、わざと誤報を流したという説もある。兼実は義仲や義経には会っていないようだ。頼朝に会う前のうわさでは、「頼朝の為体(ていたらく)、威勢厳粛、其の性強烈、成敗分明、理非断決」(壽永二年十月九日)と聞いていた。頼朝とは数回対談した(建久元年十一月九日、建久六年三月三十日、同年五月二十二日)。しかし容貌については記述がない。容貌に無関心なのではない。平惟盛(清盛の孫)については「衆人中、容顔第一」(承安五年五月二十七日)、定能の息子については「生年十五才、容貌美麗」(壽永二年四月二十九日)、実定の息子については「生年十一才、容顔美麗」(元歴二年五月三日)、と観察し記述している。

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2007年5月 6日 (日)

9.九条兼実の義仲観の変遷

9.九条兼実の義仲観の変遷

 当時の右大臣の九条兼実の日記「玉葉」に木曽義仲は寿永二年五月に倶利伽藍峠の合戦が京で報じられた時から記述された。以後約八ケ月間、兼実は義仲の感想を記述している。
 七月末に平家軍が屋敷に放火し京都から退却し、京都市内が僧兵や一般市民の放火略奪の混乱状態になった時は、義仲軍に鎮圧を期待した。
 八月に義仲が皇位継承問題で北陸宮を推した際には義仲の主張を認め法皇を非難した。しかし、「王者の沙汰に至りては人臣の最にあらず」と王者(法皇)の指図すべきことなので、臣下の最もすべきものではありません。と義仲も非難している。
 九月には義仲の京中での乱暴行為を嘆いている。
 十一月に後白河法皇が義仲を挑発して法住寺殿への攻撃を起こさせた場合には「王者の行いにあらず」と、法皇を非難し義仲を擁護した。「義仲はこれ天の不徳の君を誡むる使い」。「義仲もし善政を行はば、余其の仁に当たる」。「義仲の政に預からざる旨を仏神に祈謝す」。私(兼実)は密かに願かけしていた。今度義仲が善政を行うなら私も一役買うと。この事極めて不吉であった。よって今度義仲の仲間に入らず、義仲に従う必要が無いことを神様仏様に感謝した。というように法住寺合戦の後、義仲は法皇の不徳を誡める使いとか義仲が善政をしようとすれば、助力しようと思ったがすぐ撤回した。次兄の基房がしゃしゃり出てきたからである。何等かの策略に気づいたようである。
 これは当時の兼実は右大臣ではあるが、法皇やその近臣と意見が合わず権力中枢から遠ざけられていた。敵の敵は味方とみなす心理が若干働いたようである。
 元歴元年の義仲敗死直後には「天の逆賊」が罰せられるのはもっともなことだ。「義仲の天下が六十日」も続いたのは永過ぎたと記述している。
 義経については、「武勇と仁義は後代の美名にのこる」しかし「頼朝への謀反は大逆罪」と記述した。また後年、義経や義仲を回顧する場面では「義仲の乱逆」や「義経の反逆」の記述がある。
 兼実は頼朝に一時期重用され摂政関白となるが、それぞれ自分の娘を天皇に嫁がせようと画策し不和となり、失脚した。
 「義仲はこれ天の不徳の君を誡むる使い」の一部の記述のみから兼実は義仲の擁護者とか正当な評価者と勘違いしている人もいるが、兼実はあくまでも武士は敵とみなしていた。特に義仲や義経は逆賊とみなしていた。

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2007年5月 5日 (土)

「猫おろし事件の真相」8.「無塩(ぶえん)」と「猫おろし」という用語について

「猫おろし事件の真相」

8.「無塩(ぶえん)」と「猫おろし」という用語について

 「無塩(ぶえん)」という用語について、当時の京都付近の「無塩(ぶえん)」の意味は「塩気の無い新鮮な魚」を意味したようで、無塩の平茸という表現が誤用で可笑しいとしている。現代では標準語ではあまり使用しないが、一部の県では方言として使われる。「新鮮な魚」、「生で新鮮な魚や卵や野菜」、「刺身」を意味する県もあるようだ。
 「猫おろし」という用語について、現在、「猫おろし」という用語が使用されることは殆どない。通常の小さな国語辞典には載っていない。方言として残っている地方も無い。かなり大きな辞典にのみ「平家物語」の使用例と共に載っている。つまり、「猫おろし」という用語は「平家物語」が文章化された頃のみ使用された用語である可能性が高い。

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2007年5月 4日 (金)

「猫おろし事件の真相」7.ひらたけと松茸

7.ひらたけと松茸

 平家物語では木曽義仲が「ひらたけ」を勧めている。現代人から見ると、なぜ松茸が出てこないのか。4千年の歴史を誇る中国では、現在でも松茸は「変な臭いのするきのこ」に分類されており、食べない。松茸を好むのは世界でも日本人のみのようである。最近は韓国でも少し食べるらしい。松茸の匂いを嗅がせて脳波を調べたら、心地よいという反応が出たのは日本人のみで、外国人は全て不快な反応のようである。松茸を食べる習慣は日本で独自に広まったようである。平安時代や平家物語が文章化されたころにはひらたけは一般にも食べる習慣があるが、松茸はまだ貴重ではなかった。京都の役人が地方へ赴任する旅の途中で崖から落ちた時、ひらたけを見つけ、ついでに取ってくるという話しがある。「今昔物語」に「谷底に落ちても平茸《ひらたけ》を取る話」。「御読経《みどきょう》の僧が平茸《ひらたけ》にあたる話」がある。平安時代は松茸よりひらたけに人気があったようだ。松茸の人気が出たのは戦国時代以後のようだ。(参照3)

参考3. 松茸について

参照 ものと人間の文化史「松茸」有岡利幸 法政大学出版局

 松茸は主に松の木の根本附近に生育する。松茸の菌は雑菌に弱いようである。昔はいろりやかまどを使用した。その焚きつけの材料に松の枯れ葉や枯れ枝が利用された。松の木の根本附近はきれいだった。松茸がよくとれた。現代ではプロパンガスや石油ストーブの普及で松の木の根本は落ち葉が堆積している。雑菌が繁殖し、松茸は採れない。
 奈良時代、三笠山(奈良市)には、マツタケがあふれるほど生えたらしい。官吏の夕げの膳(ぜん)には、焼きマツタケが並ぶこと連日で、「もう飽きた」という声が上がったという。平安時代になっても人気はなく、「古今和歌集」や「新古今集」には載っていない。やっと「梁塵秘抄」に「聖(ひじり)の好むもの……、松茸(まつたけ)、平茸(ひらたけ)、滑薄(なめすすき)」とある。
 マツタケを好んだのは、どうも僧侶のようだ。安土桃山時代から江戸時代初期まで、京都の鹿苑院(金閣寺)の首座が書きつづった日記では、秋になるとマツタケを贈り合い、吸い物で酒盛りをしたり、時には赤松林の中で焼きマツタケを楽しんだりしている。この頃には公家の間でもマツタケは広まり、天皇家の調度品の管理をしていた山科家の日記にも同様の記事が出てくる。
 日本料理が完成する文化文政年間(19世紀初頭)には、京都・丹波のマツタケは早飛脚で大阪・天満に運ばれるようになった。庶民の楽しみはマツタケ狩りで、京都・北山ではどんちゃん騒ぎが続き、奉行所から禁止令を受けている。
 食べ方の横綱は、焼きマツタケだろう。豪快なのは、大きな土瓶にマツタケを姿のままぎっしりと詰め、塩と酒をふりかけてふたをし、注ぎ口を松葉で詰めて蒸し焼きにしたものだ。それに比べると、最近の土瓶蒸しは吸い汁に浮かんだペーパークラフトのようなものだ。
 昭和30年代初めまで、マツタケは一般の食卓によく上っていた。ある名誉教授の話では、京都大の食堂ではマツタケが入ったうどんが28円、ラーメンが30円だったそうだ。ある料理教室でも、他人丼やすき焼きはマツタケと牛肉の組み合わせだった。
 それが、いまでは京都・錦市場の京野菜専門店ですら中国・雲南や吉林産が並ぶ。ほかの店には北朝鮮やメキシコ産もある。丹波産が出回る9月下旬になっても、料理屋は勘定が合わないから外国産を使う。外国産は生える松の種類や土壌が異なるため、味や香りが違う。素材の味を生かす和風料理には向かず、ニンニクや油の力を借りて厚化粧せざるを得ない。
 国内産が採れなくなったのは、近年猛威を振るうマツクイムシのせいだけではない。田舎の家庭にプロパンガスが普及したことで、貴重な燃料だった赤松の林への手入れがおろそかになったからのようだ。社会環境の変化は、食文化も変えるのだ。

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2007年5月 3日 (木)

6.「泣く子と地頭には勝てぬ」平家滅亡後の乱暴狼藉

6.「泣く子と地頭には勝てぬ」平家滅亡後の乱暴狼藉

 鎌倉幕府の公式記録とされる「吾妻鏡」には、義経追討の名目で全国に配置した「守護」「地頭」の横暴が数多く記録されている。特に「地頭」の横暴の記述が多い。ただし、北条時政の子孫の編集であるから、時政に不都合な記述は少ない。他の武将の横暴の記述は多い。法皇や頼朝に報告され、記録が残っているものだけでも数十件ある。記録が紛失したり、まさに「泣く子と地頭には勝てぬ」と泣き寝入りしたものは数え切れないほどあるだろう。(参照2)
以下に平家物語で義仲軍の乱暴狼藉を非難している文章と類似している吾妻鏡に記述されている文章の一部を挙げてみる。

6.1 「平氏の時はかってこの儀なし」

 文治元年四月二十八日 「吾妻鏡」「平重遠、在京東士の不法を訴ふ」
 「今日、近江国(滋賀県)の住人で前出羽の守(平)重遠が参上した。これ累代の御家人である。年齢は八十才のようだ。頼朝はその志を哀れみ、御前に呼んだ。舎弟の十郎並びに僧の蓮仁等、助け支えを加えた。重遠が申して曰く、平治合戦の後、譜代のよしみを存ずるの間、ついに平家(清盛)の権威に従わずして、二十余年を送りました。たまたま御政権を執るの時に会い、安堵すべきのところ、かえって在京の関東の武士等がために、兵粮と称し、番役と号し、年貢を厳しく催促されるの条、はなはだもって耐え難し。およそ我が一身の訴えにあらず、諸人の愁いに及ぶ。「平氏の時はかってこの儀なし」。世上いまだ安定せざるかと。申し状の趣、もつとも正理に叶うの由御感想あり。よってしかる如きの乱暴を停止して、安堵の思いをなさしむべきの旨、直に御決裁ありと。叉国中の訴訟の事、ご指図あるべきの由と。」
 「平家を源氏に替え劣りたり」の嘆きは平家滅亡後、京都に駐留する鎌倉軍の兵粮米の現地調達による乱暴狼藉、群盗、義経追討の名目で全国に配置された「守護」「地頭」の横領、乱暴狼藉を非難したものだろう。後に定められた「御成敗式目(武士の守るべききまり)」にも守護や地頭は勝手な事や横暴をするな、違反すると辞めさせるぞと記述している。

6.2 「官庫を打ち開き年貢米を押し取る」

 文治三年四月二十三日「吾妻鏡」「重源、周防御家人の杣出妨げを訴ふ」「周防国在廰官人、地頭の非法を訴ふ」
 「 周防の国在廰官人等、言上の二箇條
一、得善(とこぜ)末武の地頭として、筑前の太郎(家重)、都乃一郡に横行せしめ、政府の「倉庫を打ち開き」年貢米を押し取る。狩猟を趣意として、公民を駈け寄せ集め、城郭の堀を構築し、自由に任せ、農業の勧めを妨害する事。」
 権力者となった鎌倉軍を直接非難できないので、義仲に罪を着せたのだろう。以下参照2に「吾妻鏡」「玉葉」に記述される乱暴狼藉事件を列記する。いかに「玉葉」の記事が「吾妻鏡」の記述と異なるか。つまり兼実には正確な情報が届いていないかがわかる。法皇や頼朝に報告される「守護」「地頭」の乱暴狼藉の情報が兼実には届いていないようだ。兼実の日記は朝廷の儀式の記録が重要なのである。

参考2.「平家滅亡前後の乱暴狼藉」事件

元歴元年 4月24日 「吾妻鏡」「賀茂社領への武家の狼藉を停む」
元歴元年10月27日 「吾妻鏡」「景時郎従の廣田庄領押妨を停む」

文治元年 2月 5日 「吾妻鏡」「散在の武士狼藉を致す」
文治元年 3月 4日 「吾妻鏡」「在洛の武士狼藉」
文治元年 4月26日 「吾妻鏡」「頼朝、實平・景時に武士の乱行禁止を命ず」
文治元年 4月28日 「吾妻鏡」「平重遠、在京東士の不法を訴ふ」

文治元年 5月19日 「吾妻鏡」「京の群盗、遠江の不逞武士の鎮定等を評議す」
文治元年 7月12日 「吾妻鏡」「鎮西の巡検を中原・近藤に命ず」「九州没官領に地頭定補の上範頼を帰洛せしむ」
文治元年 8月13日 「吾妻鏡」「院の庁、太宰府・在庁に下文を遣わし、武士の濫妨を停む」
文治元年 8月21日 「吾妻鏡」「頼朝、下河邊の四郎政義の鹿島社領侵椋禁止を採決す」
文治元年 9月 5日 「吾妻鏡」「小山有高の押妨を停む」
文治元年10月14日 「吾妻鏡」「頼朝、院宣を奏じて安田義定を召す」
文治元年10月15日 「吾妻鏡」「齋宮用途の進納、神宮領押妨停止の院宣到る」

文治2年 1月 5日 [玉葉] 「宇佐和気使、路頭にて狼藉出来す」
文治2年 1月 9日 「吾妻鏡」「高野山領の兵粮米・地頭を停む」
文治2年 1月11日 「吾妻鏡」「高瀬庄の武家の狼藉を停む」
文治2年 2月13日 「吾妻鏡」「時政より静の事、群盗処刑の事を報ず」
文治2年 3月 2日 「吾妻鏡」「今南・石負庄の兵粮米停止せしむ」「崇徳院領丹波栗村庄に武士の乱暴するを停む」
文治2年 3月10日 「吾妻鏡」「太神宮領地頭等狼藉を停止せしめ」
文治2年 3月16日 「吾妻鏡」「伊勢神領顛倒の奉行の事、諸国兵粮米停止の事、時政に伝ふ」
文治2年 3月18日 「吾妻鏡」「源俊隆、尾張の国中島郡所領安堵せらる」
文治2年 3月21日 「吾妻鏡」「諸国の兵粮米催しを停む」
文治2年 5月13日 「吾妻鏡」「洛中群盗頻発の院宣到来す」
文治2年 5月20日 [玉葉] 「信円行家の兄弟大進君を召し送る」「兼実能保に武士の狼藉を責む」
文治2年 5月29日 「吾妻鏡」「美濃石田郷の濫妨(略奪)を停む」
文治2年 6月  9日 「吾妻鏡」「播磨武士押領の事」
文治2年 6月21日 「吾妻鏡」「近畿の守護・地頭を停め、諸国武士の濫妨を禁ず」「武士の濫妨を停むべき国々」
                    「鎮西九国鎮定は経房の沙汰とす」「伊勢の地頭を改補す」
文治2年 7月 8日 「吾妻鏡」「能盛・定康の所知に武士濫妨(略奪)を停む」
文治2年 7月28日 「吾妻鏡」「新日吉領河肥・向津奥両庄の武士狼藉を停む」
文治2年 8月 5日 「吾妻鏡」「新日吉領の狼藉停止の請文」
文治2年 8月26日 「吾妻鏡」「由良庄、宗紀太の濫妨を停め、領家藤原範季に知行せしむ」
文治2年 9月 5日 「吾妻鏡」「諸国地頭に領家の所務缺怠を禁ず」
文治2年 9月15日 「吾妻鏡」「梶原朝景帰参、洛中状況を報ず」「群盗の張本平庄司脱獄す」
文治2年 9月25日 「吾妻鏡」「時定より則国の報告書届く」「廣由良御庄濫妨に関する報告書」
文治2年11月24日 「吾妻鏡」「現在謀反人の後のほか地頭の干渉を禁ず」

文治3年 1月19日 「吾妻鏡」「能保、土佐の希義墓田の横暴を停む」
文治3年 2月 9日 「吾妻鏡」「草野定康に近江領所を安堵せしむ」
文治3年 3月19日 「吾妻鏡」「法隆寺領鵤庄の地頭の押妨を停む」
文治3年 4月23日 「吾妻鏡」「重源、周防御家人の杣出妨げを訴ふ」「周防国在廰官人、地頭の非法を訴ふ」
文治3年 5月20日 「吾妻鏡」「名主、鹿島社領御寄進地を押領す」
文治3年 5月26日 「吾妻鏡」「宇治義定の代官、齋宮寮田を押領、義定恩地を収公せらる」
文治3年 6月20日 「吾妻鏡」「伊勢神宮領地頭の濫行を停む」
文治3年 6月29日 「吾妻鏡」「伊勢沼田御厨の地頭代官の押妨を停む」
文治3年 8月12日 「吾妻鏡」「京より群盗鎮圧の要請あり」
文治3年 8月19日 「吾妻鏡」「洛中狼藉鎮定のため、常胤・行平、上洛せしむ」「頼朝の経房宛て消息」
文治3年 8月27日 「吾妻鏡」「頼朝、使行平に付し京に言上する条々」「群盗の事」「狼藉の事」
文治3年 8月30日 「吾妻鏡」「常胤おくれて上洛す。」
文治3年 9月19日 [玉葉] 「群盗の事」
文治3年10月 3日 「吾妻鏡」「群盗の事」
文治3年10月 6日 「玉葉] 「群盗の事」
文治3年10月 8日 「吾妻鏡」「行平・常胤在京中の群盗征伐の事を報告す」
文治3年10月13日 「吾妻鏡」「伊勢沼田御厨重忠所領を吉見頼綱に充て行ふ、狼藉を停止」
文治3年11月25日 「吾妻鏡」「但馬住人山口家任所々に横行」
文治3年11月29日 [玉葉] 「別当隆房卿群盗の間の事を申す。」
文治3年12月 9日 [玉葉] 「宗範をもって条々の事を(群盗多き事なり)院に奏す。」

文治4年 2月 2日 「吾妻鏡」「地頭の所領につき諸人愁訴す」
文治4年 2月 5日 「玉葉」 「この夜群盗少将信清の家に入ると。」
文治4年 3月14日 「吾妻鏡」「平康頼、地頭の押妨を訴ふ」
文治4年 4月12日 「吾妻鏡」「地頭等庄家を押領」
文治4年 5月17日 「吾妻鏡」「昌寛眼代押妨の訴」
文治4年 6月 4日 「吾妻鏡」「播磨の国景時の郎従等の狼藉」
文治4年 7月 1日 「玉葉」 「別当隆房来たり、群盗の間の事を示す。」
文治4年 7月13日 「吾妻鏡」「美濃の国の郷々地頭押領の事」
文治4年 7月17日 「吾妻鏡」「藤原宗長、石清水神人と闘靜す」
文治4年 8月17日 「吾妻鏡」「群盗蜂起の事」
文治4年 8月20日 「吾妻鏡」「阿波麻殖保地頭の押妨を停む」
文治4年 9月 3日 「吾妻鏡」「頼朝、地頭重頼の不法を停む」
文治4年11月27日 「吾妻鏡」「群盗大庭景宗の墓を盗掘す」
文治4年12月 6日 「吾妻鏡」「東大寺僧と武家の使闘乱す」

文治5年 2月30日 「吾妻鏡」「阿武郡を東大寺に進じ、遠平の代官に退去を命ず」
文治5年 7月10日 「吾妻鏡」「伊勢沼田御厨地頭の押妨を停む」

文治6年 4月 4日 「吾妻鏡」「山田重隆・堀江禅尼の公領押妨を停む」
文治6年 4月18日 「吾妻鏡」「美濃犬丸等の地頭の対捍を停む」
文治6年 4月19日 「吾妻鏡」「太神宮役夫工米、地頭の未済を成敗す」
文治6年 5月29日 「吾妻鏡」「八條院領紀伊三上庄の地頭対捍す」
文治6年 6月29日 「吾妻鏡」「役夫工米の対捍につき請文を進ず」
文治6年 8月 3日 「吾妻鏡」「河内国地頭押領、糟屋有季狼藉の事」
文治6年10月 9日 「吾妻鏡」「近江田根庄地頭佐々木定綱の押妨を停む」

建久2年 5月 3日 「吾妻鏡」「定綱の濫行の件、頼朝の奏状」
建久2年 8月 7日 「吾妻鏡」「頼朝、任憲のため解状(訴状)を奏進す」

建久3年 6月20日 「吾妻鏡」「美濃御家人に命じ大内惟義指揮下に群盗を鎮めしむ」

建久4年 5月 7日 「吾妻鏡」「大江行義女押領を訴へ、朝景譲歩す」
建久4年 9月 7日 「吾妻鏡」「宣陽門院、群盗以下の狼藉」

建久5年 3月17日 「吾妻鏡」「諸国守護人の国領押妨を禁ず」
建久5年 5月20日 「吾妻鏡」「下野の国司、宇都宮朝綱の公田押掠を訴ふ」
建久5年12月10日 「吾妻鏡」「比企朝宗、越前志比庄を押領す」

建久6年 8月 6日 「吾妻鏡」「志楽庄並びに伊称保地頭の濫妨を訴ふ」
建久6年11月 4日 「吾妻鏡」「長門河棚庄の地頭を停む」

建久10年3月23日 「吾妻鏡」「頼家、神宮領六箇所の地頭職を停止す」

(これだけ乱暴狼藉事件が続けば、清盛平家の時代のほうが良かったと非難したくもなる。)

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2007年5月 2日 (水)

「猫おろし事件の真相」5.文章技法

「猫おろし事件の真相」

5.文章技法

 義仲を礼儀知らずの田舎者と、けなしている文章の前に頼朝は優美で言語明瞭と誉めそやしている文章がある。(参照1)このように平家物語では2つを対比させる方法で強調する文章技法が多用されているので、頼朝を優美であると強調し、義仲を田舎者と強調している。しかし両者とも20数年を田舎で過ごした田舎者にさしたる違いは無い。いずれにしても、当時勢力を拡大し、公家貴族、神社、仏寺の既得権益を浸食する頼朝など関東武士の横暴への反感を義仲に代表させたものである。

参考1.「平家物語」「猫間」(現代文)

 頼朝殿がお出になられました。布衣(ほうい、狩衣)に立烏帽子(たてえぼし)でした。顔は大きく、背は低いほうでした。容貌(ようばう)は優美で、言語は、はっきりと区別がつきました。・・・
(中略)
 頼朝はこのように立派でございますのに、左馬頭(さまのかみ、馬を扱う役所の長官)木曾義仲は、都の守護職をしていましたが、日常の動作や人目につくような行動の無作法なこと、物を言うときの言葉使いの聞き苦しい事は普通の程度を越えています。道理である。二歳から信濃国の木曾という山里に、三十才まで住み慣れていたので、どうして知る事が出来よう。
・・・
 そのほかおかしき事ども多かりけれども、恐れて是を申しません。

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2007年5月 1日 (火)

「猫おろし事件の真相」4.食事の時間と作法

「猫おろし事件の真相」

4.食事の時間と作法

 礼儀作法も自分の地域のやり方が標準で、最善と思い込むようだ。食事の習慣や作法が武士と公家、田舎と京都で異なることが原因である。当時貴族は一日朝夕の2食だった。武士は腹が減っては戦が出来ぬということで3食であり、戦の時は5食のようである。当時は飢饉で食糧が不足していた。
 戦後の食糧難の時代に子供は親から言われた。「食事時に他の家に行くな。食事を出さねばならないので迷惑をかける。お茶はいいが、お茶菓子には直ぐ手を出すな。何回か勧められたら少しは食べても良い。全部食べるな。」ということで出すほうは何回か勧めるのが礼儀である。かなり食料事情が良くなっても、年輩のおばあさんはお菓子をしつこく勧めるくせがあった。その息子は「うちのばあちゃんは古いから」と苦笑していた。
 猫間中納言も貴族と武士の食事時間の習慣の違いくらいは承知していただろう。食事の中間を見計らって訪ねたはずである。しかし、意外に話しが長引いた。運上物の取り扱いに困難がある。知行国の越後、あるいは道中の話題で長引いた。あるいは義仲の父の義賢と猫間中納言が知り合いであつたかもしれない。とにかく話しが長引いて食事時になった。
 当時貴族は仏教の影響で菜食中心で主食は白米だった。武士は主食は玄米で副食は何でも食べた。義仲は食器は田舎から持参のもので、その中でも一番良い物を客に出した。飢饉の時代である。客は遠慮している。あるいは粗末な内容に手を出しにくかった。主人は勧めるのが礼儀である。「速飯、速便、速駆け」はかっての旧日本軍では常識であった。義仲は早食いだった。貴族はゆっくり上品に食べるのが常識だから、早食いに驚いたかもしれない。しかし、猫間中納言は飢饉のときでも贅沢だった。こんな粗末な食器で粗末な食事はのどに通らない。公家化した平家の武士とのあまりの違いにとまどう貴族の様子が見える。ほとんど残してしまった。食べ残しを持ち帰るのは地方では当たり前で、現代でも「持ち帰り」出来る店もある。しかし、貴族及びその周辺は贅沢だつた。こんなものが食えるかと食器ごと投げ捨てて帰った。都の人は上も下も贅沢だと嘆く話しである。(平家物語延慶本、源平盛衰記など)当時京都は大飢饉で死者が何万人も出たそうである。それでも公家連中は贅沢していたかもしれない。やや落ち目とはいえ公家貴族の悪口は言えない。
 貴族が粗末な食べ物を残し、従者すら残り物を捨てて帰った。この状況から京都付近は飢饉では無かったという説もある。しかし、貴族というのは特権階級である。当時の日本の全人口が数百万人ないし一千万人以下に対して京都の公家貴族はわずか数百人である。殆どの人民は農奴のような生活で生産物の殆どは税として徴集された。殆どの貴族は広い屋敷と蔵を持ち、飢饉に備えた。飢饉のときは蔵の備蓄が若干減るのみである。飢えた京都市民などがどさくさに紛れて蔵を開けて略奪したのかもしれない。
 京都では「おぶ(お茶)でもどうぞ」は完全な挨拶言葉だから、お茶は出てこないし、早く帰れの合図でもある。地方では「お茶でも飲んでけ」と本当にお茶を出してくれる。まさに「田舎の常識」は「都の非常識」、「都の常識」は「田舎の非常識」、「日本の常識」は「世界の非常識」、「世界の常識」は「日本の非常識」である。郷に入らば郷に従えともいう。

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