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2007年4月17日 (火)

7月20日 「吾妻鏡」「頼朝、征夷大将軍に任ぜらる」

7月20日 「吾妻鏡」庚寅
「頼朝、征夷大将軍に任ぜらる」
 大理(能保)の飛脚が参着した。去る十二日に征夷大将軍に任命なされた。その任命書、天皇の使を差し進せられんと欲するの由申し送られたようです。

7月26日 「吾妻鏡」丙申
「勅使征夷大将軍の除書を持参す」
 天皇の使の法皇庁の官吏肥後の介中原景良・同康定等が参着した。征夷大将軍の任命書を持参する所である。両人(各々衣冠を着す)例に任せ鶴岡のやしろの庭に列び立ち、使者を以て任命書を進上すべきの由これを申した。三浦の義澄を遣わされた。義澄、比企左衛門の尉能員・和田の三郎宗實並びに郎従十人(各々甲冑)を相具し、宮寺に詣で彼の書状を請け取る。景良等名字を問うの処に、介の任命書未だ到らざるの間、三浦の次郎の由名をつげました。則ち帰参した。頼朝(御束帯)は予め西廊に出御した。義澄が任命書をささげ持ち、ひざまずいて膝で進退してこれを進上しました。
 千万人の中に義澄この役に応じた。名誉はこの上なく巧みである。亡父義明は命を将軍に献上しました。その勲功は髭を剪ると雖も没後に酬い難し。仍って子葉を抽賞せられた。
  除書に云く、
    左少史三善仲康           内舎人橘の實俊
    中宮権の少進平の知家        宮内少丞藤原の定頼
    大膳の進源の兼光          大和の守大中臣宣長
    河内の守小槻廣房(左大史の任を辞す)尾張の守藤原忠明(元伯耆の守)
    遠江の守藤原朝房(元陸奥)     近江の守平の棟範
    陸奥の守源の師信          伯耆の守藤原宗信(元遠江)
    加賀の守源の雅家          若狭の守藤原保家(元安房)
    石見の守藤原経成          長門の守藤原信定
    対馬の守源の高行          左近将監源の俊實
    左衛門の少志惟宗景弘        右馬の允宮道式俊
      建久三年七月十二日
   征夷使
     大将軍源の頼朝
   従五位下源の信友
 左衛門の督(通親)参陣、参議(壬生)兼忠卿これを書く。将軍の事、本より御意に懸けらるると雖も、今にこれを達せしめなされなかった。而るに法皇崩御の後、朝政の初度に、殊に指図有りて任命されるの間、ことさらに以て天皇の使に及ぶようです。また(八田)知家の指図として、武蔵の守(大内義信)の屋敷を選び指定し、天皇の使を招き酒食の接待をしました。

[愚管抄]
  殿下(兼實)、鎌倉の将軍(頼朝)、仰せ合わせつつ、世の御政はありけり。

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