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2007年4月11日 (水)

1191年 (建久2年)5月3日 「吾妻鏡」「定綱の濫行の件、頼朝の奏状」

1191年 (建久2年 辛亥)

5月3日 「吾妻鏡」庚戌
「定綱の濫行の件、頼朝の奏状」
 天使に差し上げる文書を高三位(高階泰経卿)に送付された。(三好)善信これを起草した。俊兼が清書した。午後4時頃、雑色の成里が、これを所持し上京した。その状に云く、
   言上
     事由
 右定綱の濫行に依って、比叡山より遣わす所の使者、所司二人義範・弁勝、去る月三十日に到着しました。その状に云く、罪科に依って、定綱並びに子息三人を僧兵中に預けなさるようにと欲すようです。この外の詳細、使者の言葉に尽くした。仍って去る一日返報を与えた。また自分の意見の及ぶ所に相遇して、答えて云く、定綱の無法で人道にはずれた悪行は左右に能わず。いかでか重罪をのがれないだろう。
(中略)
 そもそも頼朝、天台宗(比叡山延暦寺)の為法相宗(奈良の興福寺)の為、忠節有りと雖も、更に疎略無し。その由何なれば、義仲が謀反の日、座主明雲を誅した。幾程を経ず義仲を追討しました。重衡狼唳の時、南都を焼き払い僧徒を誅した。而るに重衡を生虜り、同所に首を刎ねました。
(以下略)

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