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2007年4月 1日 (日)

1190年 (文治6年)1月6日 「吾妻鏡」「泰衡の臣大河兼任叛乱を起こす」

1190年 (文治6年、4月11日改元 建久元年 庚戌)

1月6日 「吾妻鏡」辛酉
「泰衡の臣大河兼任叛乱を起こす」
 奥州の故(藤原)泰衡の郎従の大河の次郎兼任以下、去年の旧冬より以来叛逆を企て、或いは伊豫の守義経と号し出羽の国の海辺庄に出て、或いは左馬の頭義仲の嫡男で朝日の冠者と称し同国山北郡に起ち、各々謀反を起こした者どもがある。遂に兼任の嫡子鶴太郎・次男畿内の次郎は並びに七千余騎の凶徒を相具し、鎌倉方に向かい出立ちせしめた。その路は河北・秋田城等を歴て、大関山(陸奥)を越え、多賀の国府(陸奥)に出ようとしたようだ。而るに秋田・大方より、志加の渡(出羽)を打ちとおるの間、氷が俄に消えて五千余人忽ち以て溺死してしまいました。天のせめを蒙るか。爰に兼任は使者を由利の中八維平の許に送りて云く、古今の間、六親若くは夫婦の怨敵に報ずるは尋常の事である。未だ主人の敵を討つの例有らず。兼任独りその例を始めんが為、鎌倉に向かい行く所であるということです。仍って維平、小鹿嶋(出羽)の大社山毛々佐田の辺に馳せ向かい、防戦二時間に及びました。維平は討ち取られてしまいました。兼任また千福・山本の方に向かい、津軽に到り、重ねて合戦し、宇佐美の平次以下の御家人及び雑色の澤安等を殺害したようです。これに依って在国の御家人等は面々に飛脚を進上し、事の由を言上したようです。
(注釈)
六親・・・6種の親族。父母兄弟妻子

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