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2007年4月

2007年4月30日 (月)

「猫おろし事件の真相」

「猫おろし事件の真相」

3.方言となまり

 現代の長野県の方言は地方により色々あるが、東北地方に比べればなまりは少ないようである。「雨だ」の発音も標準語では平板であるが、「め」または「だ」が強く発音される地域がある。方言の研究者によれば、北信、中信、南信、東信で微妙な差があるようである。「根子岳」の発音は、ねこだけの「こ」が強調される。「ねこま」も「こ」が強調されると「ま」が聞き取りにくく、「ねこ・」「ねこ」と聞こえるかもしれない。ここで登場する猫間中納言は当時の越後(新潟県)の知行国主である。永年の反乱状態で多分米などの運上物が届かず難儀していたに違いない。その相談に出かけたのだろうか。新潟県人には若干なまりがある。「い」と「え」の区別がつきにくい。どうやら「い」と「え」を同時に「いぇ」と発音しているようである。例えば「越後」は「いちご」、「印鑑」は「えんかん」と聞こえる。東北地方のある県の人は「中山」を「なかま」と発音する。「やぬき」である。「や」の発音が不明瞭である。猫間中納言叉はその従者は越後の住人と会話した事があり、「猫間殿」を「まぬき」で「ねこ・どの」発音する越後の人を知っていたかもしれない。京都の人から見れば、信濃も越後もたいした違いは無く「北国」である。関東地方の人は東北人を「なまりがある」とからかうが、東北人からみれば、「ひょうずんごすか、わがね、ばがだ」となる。(標準語しかわからない馬鹿だ)
 義仲関連の史跡が越後(新潟県)には少ない。他の単に通過しただけに過ぎないような県でも意外に史跡がある。これは案外猫間を猫と間違えたのは越後の人かもしれない。越後の人はそれを知っていて関係ない素振りをしているのかもしれない。義仲は乱暴者で逆賊扱いされている。さらに、「横田河原合戦」では越後の城氏の数万の兵が信濃の義仲軍の数千の兵に敗れているのであまり好感は抱いていないかもしれない。城氏はその後頼朝の奥州合戦に参加し復活したようである。佐賀県(しゃがけん)か福岡県では電車の席が空いているか尋ねると「とっとっと」と言われる事があるようだ。とにかく方言やなまりに関しては話題が尽きない。松本清張の「砂の器」にも東北地方のなまりを勘違いする例がある。長野県木曽地方には「~ずら」(~でしょう)という方言がある。静岡県の民謡「ちゃっきり節」にも出てくる。「雨ずらよ」と同様に使うようだ。「雨面(あめづら)」と勘違いしていた。一般には自分の地域を中心として他地域の言語方言をからかう傾向があるようだ。

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2007年4月29日 (日)

2.「語り本系」と「読み本系」の違い

2.「語り本系」と「読み本系」の違い

 広く流布している「覚一本」などの「語り本系」では、義仲が猫間中納言を「猫殿」と「まぬき」で呼んだ、食べ残しを「猫おろしした」とからかったので義仲は無礼な奴だという話しである。しかし、「延慶本」などの「読み本系」や「源平盛衰記」では「猫殿」と間違えたのは根井小弥太であり、「猫おろし」の話しは無く、食べ残しを「お持ち帰り」として、従者に持たせたのに、「こんな汚い食器で粗末な物が食えるか」と放り投げたので、都の人は上も下も贅沢だと嘆く話しである。飢饉の後だというのに貴族連中は相変わらず贅沢なようである。この残り物を食器毎放り投げた話しから、当時飢饉だったという話しに疑問を持つ人がいる。しかし、当時の貴族というのは超特権階級である。庶民が飢饉で飢えて死んでも諸国から送り込まれる米や貢ぎ物を蔵に蓄え、飢饉に備えていた。当時の日本の全人口は数百万人、貴族は数百人とこれらの使用人が生産物のほぼ半分を所有した。後の戦国時代に北条早雲が「五公五民」すなわち生産した収量の半分を税として取り上げるとしたら、「名君」と称えられたというから、とにかく取れるだけ取ろうとする状態だった。約60年前の太平洋戦争末期、国民が食糧不足に困っていた頃、士官学校生徒だった人の話を聞いた。規定通りの食事以外に加給食(おやつ)も出た。一般国民には申し訳ないと思ったそうである。北朝鮮の例でも、一般国民には餓死する者もいるのに一部特権階級は太っている。当時、飢饉だったというのは、公家の日記「吉記」「玉葉」や「方丈記」の記述から間違い無いようである。

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2007年4月28日 (土)

「猫おろし事件の真相」1.ダジャレ

1.ダジャレ

丁寧に調べると平家物語にはダジャレ、おやじギャグが所々に出て来る。
「伊勢平氏はすがめのへいし」
「黒き頭かな、いかなる人の漆塗りけん」
「播磨米は、木賊か、椋の葉か、人の綺羅を研くは」
「へいしが倒れた」
「猫ま殿」
「猫おろし」
「鼓判官」
平家物語は庶民への語り物として広まったようである。まじめな事実の羅列では聴衆は飽きるだろう。時々は作り話や大袈裟な話しや、滑稽な話も挿入しなければならない。
 当時の公家社会では少々のだじゃれは許容されていたのだろうか。それが平家政権では「へいしが倒れた」というようなしゃれも通用しない時代だった。禿髪(かぶろ)などという密告部隊もいた。少しでも悪口を言うとひどい目に遭った。恐ろしかった。義仲はそんなことはない。本人がだじゃれが通用する。というように話しを面白くしたのかもしれない。

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2007年4月27日 (金)

「猫おろし事件の真相」目次、あらすじ

「猫おろし事件の真相」

目次

あらすじ
1.ダジャレ
2.「語り本系」と「読み本系」の違い
3.方言となまり
4.食事の時間と作法
5.文章技法
6.「泣く子と地頭には勝てぬ」平家滅亡後の乱暴狼藉
7.ひらたけと松茸
8.用語について
9.九条兼実の義仲観の変遷
10.九条兼実の容貌観察
11.まとめ
参照資料
参考文献

あらすじ

 「猫おろし事件」とは「平家物語」「猫間のこと」の記述で、猫間中納言が木曽義仲を訪問した時、木曽義仲の言語に田舎なまりがあるとか、「猫間殿」を「猫殿」と呼び、粗末な食器で粗末な食事を強要したとか、食べ残しを「猫おろし」をしたとからかうので、無礼者で乱暴者であるとする話しである。
 先の「木曽義仲軍乱暴狼藉事件の真相」で明らかなように、平家物語は真実を伝えていない。原作者は真実を伝えようと努力したかもしれない。しかし、琵琶法師や後の文章化作者により、権力者(頼朝や朝廷)や聴衆の反発を恐れ、権力者や聴衆に不都合な真実は削除されたようである。木曽義仲を悪者に仕立て上げた。つまり、その後の猫間の事や法住寺合戦の部分も多分、真実を伝えてはいないだろう。
 平家物語は歴史研究者により数々の捏造つまり創作が指摘されているので、この話しも捏造に違いないのだが、ここだけ読んで木曽義仲は礼儀知らずだとか、乱暴者と誤解する読者は多い。このような言葉の「なまり」とか、方言の勘違いによる誤用や、礼儀作法のかん違いはよくある話しで、主人公の義仲を越後の武士、または関東の武士に置き換えても充分に通用する話しである。あえてまじめに反論してみよう。
 平家物語のような後世に残る文学の内でこのようなくだけた話しは格調を下げているような気がするのだが。最期の文章に「おかしきこと多し」とあり、このおかしきとは「面白い」の意味と「奇妙な」との意味の2種類がある。作者は「奇妙な」ほうの意味で書いたと思われる。当時の権力者たる鎌倉の頼朝を優美と誉めそやす文章の後にこの記述がある。
 しかし、後世の読者のなかには面白い話しとして受け取る者もいるようでもある。なかには義仲は権威に逆らう痛快で面白い奴だとか、「暴れん坊将軍」などと誤解している者もいる。
 平家物語は琵琶法師の語り物として普及したようである。事実関係を単純に並べただけでは聴衆は飽きてしまうだろうから、事実に有ること無いこと追加したり変更した事は容易に想像出来る。

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2007年4月26日 (木)

(建久10年1月に頼朝死亡)

(建久6年・・・9年、建久10年1月 「吾妻鏡」記載無し)

(建久10年1月に頼朝死亡)

1199年 (建久10年、4月27日改元正治元年 己未)
「愚管抄」「頼朝死亡」
カカル程ニ人思ヒヨラヌホドノ事ニテ。アサマシキ事出キヌ。同十年正月ニ関東将軍所労不快トカヤホノカニ云シ程ニ。ヤガテショウガツ十一日ニ出家シテ。同十三日ニウセニケリト。十五六日ヨリ聞ヘタチニキ。夢カ現カト人思タリキ。今年必シヅカニノボリテ世ノ事沙汰セント思ヒタリケリ。万ノ事存ノ外ニ候ナドゾ。九條殿ヘハ申ツカハシケル。コノ後イツシカ正月廿日除目行ヒテ。通親ハ右大将ニ成ニキ。故摂政〔良経〕ヲバ後京極殿ト申ニヤ。ソノ内大臣ナリシヲコシテ。頼実大相國入道ヲバ右大臣ニナシテキ。コノ頼実ハ右大将ヲ辞セサセテソノ所ニナリニキ。コノ除目ニ頼朝ガ家ツギタル嫡子ノ頼家ヲバ左中将ニナシテキ。
(現代文)
かかる程に人思いよらぬほどの事にて、意外な事が発生した。建久10年一月頼朝は病気が良くないとほのかに言う程に、やがて1月11日に出家して、1月13日に亡くなると15.6日から評判が立った。夢かうつつと人思いました。今年必ず、静かに上りて世の事指図しようと思いました。・・・

「吾妻鏡」1200年 (正治2年)1月13日 
「頼朝一周忌」


「吾妻鏡」1212年 (建暦2年 壬申)2月28日 乙巳
「頼朝、相模河橋の供養の帰路に落馬し、のち死す」

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2007年4月25日 (水)

11月4日 「吾妻鏡」「長門河棚庄の地頭を停む」

11月4日 「吾妻鏡」乙酉
「長門河棚庄の地頭を停む」
 嘉祥寺領の長門の国の河棚庄の事、守護人が荘園領主の所務を妨害するの由命令下されるの間、この所の事、去る文治年中、法王の命令に依って地頭職を停止しました。今更違乱の條、処罰を招くか。たしかに停止すべきの趣旨、今日命令下された所であるようです。

(建久6年・・・9年 記載無し)

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2007年4月24日 (火)

10月13日 「吾妻鏡」「義仲の右筆覺明筥根に住む」

10月13日 「吾妻鏡」乙丑
「義仲の右筆覺明筥根に住む」
 故木曽左馬の頭義仲朝臣の右筆て大夫房覺明と云う者が有りました。元これ奈良の学僧である。義仲朝臣誅罸の後、本名に帰り信救得業(しんきうとくごふ)と名乗りました。当時筥根山に住むの由これを聞きなされ及ぶに就いて、山中の外、鎌倉中並びに近国に出るべからざるの旨、今日御文書を別当の許に遣わされたようです。
(注釈)
右筆(ゆうひつ)・・・文書にたずさわる人。文官
学僧(がくそう)・・・学問に長じた僧。修学中の僧。

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2007年4月23日 (月)

1195年 (建久6年) 8月6日 「吾妻鏡」「志楽庄並びに伊称保地頭の濫妨を訴ふ」

1195年 (建久6年 乙卯)

8月6日 「吾妻鏡」戊午
「志楽庄並びに伊称保地頭の濫妨を訴ふ」
 丹後の国(京都府北部)の志楽庄並びに伊称保の荘園領主の雑事を扱う役人の上申書が到来した。地頭の後藤左衛門の尉基清が濫妨・狼藉を致すの由のようです。詳細を尋ね聞き、事実ならば、地頭職三分の一を分け取り、これを記録し申すべし。他人を任命されるべきの旨、前の掃部の頭親能に命令されたようです。
(注釈)
掃部の頭(かもんのかみ)・・・掃部寮の長官
掃部寮(かもんりょう)・・・宮中の行事の設営、清掃担当。

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2007年4月22日 (日)

12月10日 「吾妻鏡」「比企朝宗、越前志比庄を押領す」

12月10日 「吾妻鏡」丙寅
「比企朝宗、越前志比庄を押領す」
 越前の国(福井県東部)の志比庄、比企の籐内朝宗が為に押領されるの由、荘園領主の訴えが有りました。この事、去る文治元年、叛逆の衆を逮捕する為に、武士を諸国に派遣されるの時、兵粮米の催促の使を入れられると雖も、散在の御家人等、事を左右に寄せ狼藉を現すの由、一般の人民が嘆き悲しみを含むの趣、度々法皇の命令を下されるの間、三十七箇国の内の諸庄園、今に於いては武士の妨げ有るべからざるの旨天皇に申し上げた後、年数を経ました。今更この訴え出で来たりました。太だ驚き思いなさるに依って、朝宗に尋ねられるの処、押領せざるの由弁明しました。その答申書を召し荘園領主に遣わされたようです。

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2007年4月21日 (土)

5月20日 「吾妻鏡」「下野の国司、宇都宮朝綱の公田押掠を訴ふ」

5月20日 「吾妻鏡」庚辰
「下野の国司、宇都宮朝綱の公田押掠を訴ふ」
 宇都宮左衛門の尉朝綱法師、公田百余町を横領するの由、下野の国司の行房が天皇に申し上げを経るの上、代官を差し向け進上しこれを訴え申した。将軍家は殊に驚き聞きなされた所である。代官の申す所その事実が有らば、重罪に行うべきの趣旨これを呼び出し命令されたようです。

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2007年4月20日 (金)

1194年 (建久5年) 3月17日 「吾妻鏡」「諸国守護人の国領押妨を禁ず」

1194年 (建久5年 甲寅)

3月17日 「吾妻鏡」戊寅
「諸国守護人の国領押妨を禁ず」
 諸国の守護人、国領を煩わすの由お聞きなさるに依って、宜しく停止せしむべきの趣旨の命令を下されたようです。

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2007年4月19日 (木)

9月7日 「吾妻鏡」「宣陽門院、群盗以下の狼藉」

9月7日 「吾妻鏡」庚午
「宣陽門院、群盗以下の狼藉」
 故後白河法皇の御旧跡の宣陽門院(後白河法皇の皇女)、當時無人である。群盗以下の狼藉、尤も恐怖有るべきの由、前の黄門(能保)内々歎き申されるに依って、日来その指図が有りました。畿内近国の御家人等を共に催促し、宿直に差し進上すべきの旨、(佐々木)経高・(佐々木)盛綱・(後藤)基清等に命令し納得させられたようです。

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2007年4月18日 (水)

1193年 (建久4年) 5月7日 「吾妻鏡」「大江行義女押領を訴へ、朝景譲歩す」

1193年 (建久4年 癸丑)

5月7日 「吾妻鏡」壬申
「大江行義女押領を訴へ、朝景譲歩す」
 所衆大江の行義の女子が美作の国(岡山県北部)の領地を、梶原刑部の丞朝景の為に押領される由訴え申すの間、朝景を呼び出し決裁された。朝景が弁明し申す所、あながちに、すじみちに背かずと雖も、吉田中納言(経房)殊に執り申されるの間、朝景はこの所を領有せずと雖も、放置するに及ぶべからず。訴人は貧窮の者である。また黄門(経房)のひいきする者である。理を忘れ早く去り與うべきの旨朝景に命令された。則ち承知を申し敢えて自説の固持の儀は無かった。尤も清廉潔白たるの由、直に御感心の仰せをいただいたようです。これに依って女子は忽ち安堵しました。

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2007年4月17日 (火)

7月20日 「吾妻鏡」「頼朝、征夷大将軍に任ぜらる」

7月20日 「吾妻鏡」庚寅
「頼朝、征夷大将軍に任ぜらる」
 大理(能保)の飛脚が参着した。去る十二日に征夷大将軍に任命なされた。その任命書、天皇の使を差し進せられんと欲するの由申し送られたようです。

7月26日 「吾妻鏡」丙申
「勅使征夷大将軍の除書を持参す」
 天皇の使の法皇庁の官吏肥後の介中原景良・同康定等が参着した。征夷大将軍の任命書を持参する所である。両人(各々衣冠を着す)例に任せ鶴岡のやしろの庭に列び立ち、使者を以て任命書を進上すべきの由これを申した。三浦の義澄を遣わされた。義澄、比企左衛門の尉能員・和田の三郎宗實並びに郎従十人(各々甲冑)を相具し、宮寺に詣で彼の書状を請け取る。景良等名字を問うの処に、介の任命書未だ到らざるの間、三浦の次郎の由名をつげました。則ち帰参した。頼朝(御束帯)は予め西廊に出御した。義澄が任命書をささげ持ち、ひざまずいて膝で進退してこれを進上しました。
 千万人の中に義澄この役に応じた。名誉はこの上なく巧みである。亡父義明は命を将軍に献上しました。その勲功は髭を剪ると雖も没後に酬い難し。仍って子葉を抽賞せられた。
  除書に云く、
    左少史三善仲康           内舎人橘の實俊
    中宮権の少進平の知家        宮内少丞藤原の定頼
    大膳の進源の兼光          大和の守大中臣宣長
    河内の守小槻廣房(左大史の任を辞す)尾張の守藤原忠明(元伯耆の守)
    遠江の守藤原朝房(元陸奥)     近江の守平の棟範
    陸奥の守源の師信          伯耆の守藤原宗信(元遠江)
    加賀の守源の雅家          若狭の守藤原保家(元安房)
    石見の守藤原経成          長門の守藤原信定
    対馬の守源の高行          左近将監源の俊實
    左衛門の少志惟宗景弘        右馬の允宮道式俊
      建久三年七月十二日
   征夷使
     大将軍源の頼朝
   従五位下源の信友
 左衛門の督(通親)参陣、参議(壬生)兼忠卿これを書く。将軍の事、本より御意に懸けらるると雖も、今にこれを達せしめなされなかった。而るに法皇崩御の後、朝政の初度に、殊に指図有りて任命されるの間、ことさらに以て天皇の使に及ぶようです。また(八田)知家の指図として、武蔵の守(大内義信)の屋敷を選び指定し、天皇の使を招き酒食の接待をしました。

[愚管抄]
  殿下(兼實)、鎌倉の将軍(頼朝)、仰せ合わせつつ、世の御政はありけり。

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2007年4月16日 (月)

6月20日 「吾妻鏡」「美濃御家人に命じ大内惟義指揮下に群盗を鎮めしむ」

6月20日 「吾妻鏡」庚申
「美濃御家人に命じ大内惟義指揮下に群盗を鎮めしむ」
 美濃の国の御家人等、守護の相模の守(大内)惟義の命に従うべきの由の命令を下されたようです。これは京中の群盗等を鎮圧させる為である。
   前の右大将家の政所が下す 美濃の国の家人等
     早く相模の守惟義が催促に従うべき事
 右当国内の庄の地頭中、家人の恩儀を存ずる者どもに於いては、惟義の催促に従い勤節を致すべきである。なかんずく近日京中の凶暴な賊の犯罪その聞こえ有り。彼の党類を禁圧せんが為、各々上京を企て大番役に勤仕すべし。而るにその中に家人たるべからずの由存ずる者は、早く詳細を申すべし。但し公領に於いては催促に加わるべからず。兼ねて又(山田)重隆・佐渡の前司の郎従等を催促し招集し、その役を勤めさせるべし。隠居の者どもに於いては、連名文書を報告すべきの状、仰せの所件の如し。
     建久三年六月二十日      案主籐井(俊長)
    令民部少丞藤原(行政)         知家事中原(光家)
    別当前の因幡の守中原(広元)
     前の下総の守源朝臣(邦業)
     散位中原朝臣(能保)
(注釈)
右大将家・・・頼朝は上京したとき、右大将に任命されたが、12月に辞退した。
政所(まんどころ)・・・政治を取り扱う所
大番(おおばん)役・・・諸国の武士が交替で京都に詰め、禁中警護に当たる勤務
公領(こうりょう)・・・朝廷・国衙(こくが)の統制下にある土地
国衙(こくが)・・・国司の統治下にある土地。国領。

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2007年4月15日 (日)

6月13日 「吾妻鏡」「皆河権六太郎厚免せらる」

6月13日 「吾妻鏡」癸丑
「頼朝、永福寺造営工事を観る」
 頼朝様は新造の御堂の地においでになられた。畠山の次郎・佐貫の四郎大夫・城の四郎・工藤の小次郎・下河邊の四郎等がはりや棟木を引く。その力すでに力士数十人の如し。筋力を盡すべき事等各々一時に功を成し、観る者の目を驚かせた。頼朝は感心なされた。凡そ地ならしと云い営作と云い、江間(義時)殿以下手づからこれを指図した。
「皆河権六太郎厚免せらる」
 爰に土を夏毛の行騰(むかばき)に納れて運ぶ者が有りました。その名を尋ねられるの処、景時申して云く、囚人皆河の権六太郎であるようです。その功績に感心し、忽ち特別の厚意によって罪を許されました。これ木曽の典厩(義仲)随一の者である。典厩が誅せられるの後、囚人として梶原に召し預けられたようです。
(注釈)
行騰(むかばき)・・・毛皮の腰から脚にかけての被い。
典厩(てんきゅう)・・・左右の馬寮(めりょう)とその頭(かみ)の唐名。

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2007年4月14日 (土)

1192年 (建久3年) 3月16日 「吾妻鏡」「後白河法皇崩御」

1192年 (建久3年 壬子)

3月16日 「吾妻鏡」戊子
「後白河法皇崩御」
 午後2時頃に京都の飛脚が参着した。去る十三日の午前4時頃、太上(後白河)法皇が六條殿に於いてお亡くなりになられた。御病気は大腹水のようです。大原の本成房上人を召し、御善知識と為した。高声に御念佛七十反、御手に印契を結び、臨終の正念、居ながら睡るが如く死去なされたようです。法皇の年齢を計るに六十七、すでに半百を過ぎたり。御治世の四十年と謂うは、殆ど昔を超えた。白河法皇の外此の如きの君は御いでになりません。頼朝様は御悲歎の至りに誠意心底を砕く。これ則ち合体の儀をかたじけなくして、君臣の礼を重んぜられるに依ってであるということです。
(注釈)
腹水(ふくすい)・・・腹腔内に液体の溜まる症状
上人(しょうにん)・・・僧位の名
善知識(ぜんちしき)・・・仏道に導く高徳の僧
印契(いんげい)・・・両手の指を組み合わせ、理念を表現。
正念(しょうねん)・・・一心に念仏すること

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2007年4月13日 (金)

10月1日 「吾妻鏡」「奥州・越後の駿牛を召し進す」

10月1日 「吾妻鏡」丙子
「奥州・越後の駿牛を召し進す」
 佐々木の三郎盛綱・宮六兼仗国平等の指図として、奥州並びに越後の国より駿牛十五頭を召し進上した。今日御覧有りました。これ法住寺殿、義仲が叛逆の時悪徒が乱入し、また文治元年の地震に悉くすたれ傾くの間、関東の御指図として修理を加えられた。その牛屋を立てられんが為である。而るにこの牛然るべからざるの由、前の少将時家・大夫屬入道善信等これを申した。仍って京都に於いてあれこれ苦労することは、還って甲斐無きに似たり。御馬を以て牛の替わりと為すべきの由、御指図が有るようです。

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2007年4月12日 (木)

8月7日 「吾妻鏡」「頼朝、任憲のため解状(訴状)を奏進す」

8月7日 「吾妻鏡」癸未
「頼朝、任憲のため解状(訴状)を奏進す」
 頼朝の御外甥の僧任憲、熱田社領内の御料田を相伝するの処、勝實と号する僧の為これを押妨されました。勝實すでに天子に申し上げを経るの間、任憲は訴状を整え、また天子に申し上げ達せんと欲した。仍って頼朝の御推薦状を望み申した。頼朝は頗る御猶予の気配が有りました。故祐範(任憲の父)の功績に報いる為、縦え他の計略を廻らすとも、この天子に申し上げの取り次ぎについては難題のようです。而るにこれ先人亡骨の在所である。相構えてこれを達せんと欲するに、他事曽て拠所無きの由重ねて言上するの間、今日ていねいな御文書を彼の訴状に相副え、高三位(泰経)に送付されたようです。
 僧任憲の訴状(具書等を添える)謹んでこれを進上します。此の如き事、取り次ぎ申すべからざるの由存じまして、大略は慎みを成して申し上げずにいます。而るに少事にはありますが、被告人勝實が押領申しますの間、当時一方の申状に依って命令下されたようです。勝實は道理を帯しますならば、何ぞ上西門院(統子内親王)の御時に裁許を受けなかったのでしょうか。更にこの條の詳細を申しひらき難きの由、任憲歎き申しますに依って、恐れながら言上する所であります。この旨を以て洩れ御申し上げなさり下さい。恐れかしこみつつしんで申しあげます。
     八月七日           頼朝

(注釈)
上西門院(統子内親王、鳥羽天皇の皇女、後白河天皇の姉)

(以下略)

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2007年4月11日 (水)

1191年 (建久2年)5月3日 「吾妻鏡」「定綱の濫行の件、頼朝の奏状」

1191年 (建久2年 辛亥)

5月3日 「吾妻鏡」庚戌
「定綱の濫行の件、頼朝の奏状」
 天使に差し上げる文書を高三位(高階泰経卿)に送付された。(三好)善信これを起草した。俊兼が清書した。午後4時頃、雑色の成里が、これを所持し上京した。その状に云く、
   言上
     事由
 右定綱の濫行に依って、比叡山より遣わす所の使者、所司二人義範・弁勝、去る月三十日に到着しました。その状に云く、罪科に依って、定綱並びに子息三人を僧兵中に預けなさるようにと欲すようです。この外の詳細、使者の言葉に尽くした。仍って去る一日返報を与えた。また自分の意見の及ぶ所に相遇して、答えて云く、定綱の無法で人道にはずれた悪行は左右に能わず。いかでか重罪をのがれないだろう。
(中略)
 そもそも頼朝、天台宗(比叡山延暦寺)の為法相宗(奈良の興福寺)の為、忠節有りと雖も、更に疎略無し。その由何なれば、義仲が謀反の日、座主明雲を誅した。幾程を経ず義仲を追討しました。重衡狼唳の時、南都を焼き払い僧徒を誅した。而るに重衡を生虜り、同所に首を刎ねました。
(以下略)

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2007年4月10日 (火)

11月7日 「吾妻鏡」「頼朝入洛す」

11月7日 「吾妻鏡」丁巳 雨降る、午の一刻晴に属く。その後風烈し
「頼朝入洛す」
 二品(頼朝)が御入京された。法皇は内密に御車を以て御覧になられた。見物の車、轂(こしき)を輾(きし)りて河原に立つ。午後4時頃、先陣が花洛に入る。三條の末を西行し、河原を南行し、六波羅に到着された。その行列、
 先ず貢(みつぎ)金の唐櫃(からびつ)一合
  次いで先陣
   畠山の次郎重忠(黒絲威の甲を着す。家子一人・郎等十人等これを相具す)
  次いで先陣の随兵(三騎これを列す。一騎別に張替持一騎、冑・腹巻・行騰。また小
           舎人童上髪、征箭を負い行騰を着す。各々前に在り。その外郎従
           を具せず)
    (以下略)
11月7日 [玉葉]天晴れ。時々風吹く
 この日、源二位頼朝卿が入京した。午後4時頃、六波羅の新造の屋敷に到着したようだ。騎馬で弓矢を装備し、甲冑を着けないようだ。法皇以下の京中の諸人が見物したようだ。私はこれを見なかった。白昼の騎馬の入京は存ずる旨有るようだ。
(注釈)
轂(こしき)・・車輪の中央部の部品
輾(きし)り・・・こすれあって音をたてる
花洛(からく)・・・はなのみやこ。京都
唐櫃(からびつ)・・・脚つきの櫃(上開きの容器)

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2007年4月 9日 (月)

10月9日 「吾妻鏡」「近江田根庄地頭佐々木定綱の押妨を停む」

10月9日 「吾妻鏡」庚寅
「近江田根庄地頭佐々木定綱の押妨を停む」
 駿河の国の蒲原の駅に於いて法皇の命令が到来した。これ近江の国の田根庄は、按察大納言(朝方)の荘園領である。二品(頼朝)の御不快に依って、日来家にとじこもっているの間、地頭の佐々木左衛門の尉定綱が荘園領主の所務を軽視するようです。彼の卿が元の地位に戻されるの後、詳細を申すに就いて、尋ね成敗せしめなさるべきの趣旨である。則ちその趣旨を以て定綱に命令を申しつけなされたようです。
(朝方は義経に同意したとして処罰を受け、家に謹慎中でした。)

10月12日 「吾妻鏡」癸巳
「院宣の請文を進ず」
 岡部の宿に於いて、法皇の命令の御答申書を進上なされた。按察大納言の使い、この程つき従がいなさり、御答申書をいただき、進み以て帰京したようです。
 去る月九日の御文書、去る九日到来しました。謹んで拝見いたしました。近江の国の田根庄務の事、早く領家使の命令に随い、和解を成し指図すべきの由、地頭の定綱に命令含めいたました。この上猶妨害未納を致しますならば、処罰すべきであります。この旨を以て申し上げなさるべきであります。恐々謹言。
     十月十二日          頼朝

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2007年4月 8日 (日)

8月3日 「吾妻鏡」「河内国地頭押領、および糟屋有季狼藉の事」

8月3日 「吾妻鏡」乙酉
「河内国地頭押領、および糟屋有季狼藉の事」
 河内の国内の庄々の地頭等が押領の事並びに糟屋の籐太有季が狼藉を致す事、尋問し処罰されるべきの由、法皇の命令を下されるの間、御答申書を差し上げられるの上、詳細を彼の地頭に問われる所であります。
「頼朝の答申書」
 河内の国務の事、命令下されますの趣旨に任せ、光輔に相尋ねました。濫妨の輩、(大江)公朝・(北条)時定・(足利)義兼等、手紙を以て命令した所であります。件の書状三通、謹んで以てこれを進上しました。有季の濫行に至りては、不当第一であります。罪科に随って御指図ありますことを、とかく言上すべきではありません。この旨を以てそっと天子に申し上げなさるべきであります。頼朝恐々謹言。
     八月三日           頼朝
「時定への下文」
  御下文等
 河内の国の国領を、(北条)時定が陸奥所(みちのくどころ)という仮名(けみょう)を立て、押領せしむの由その聞こえが有りました。先ず陸奥所と云仮名、聞く耳も見苦しきの上、無礼と存じないのだろうか。彼の奥州にて、出羽国の内を押領せんが為には、陸奥所とも云いました。縦え押領して有とても、地頭ばかりにて、有限の国事を妨害や未納しなければこそ、過怠を遁るる所もあるまい。妨害未納の濫妨を先となして、然る如き不当を致す事、奇怪の至り、あれこれ言うに及ばざる事であります。早く有限の国事を、先例に任せその勤めを致すべし。また国司の命令に随うべきである。もし猶おこたり有らば、まさに地頭職を停止せしむべきである。命令の趣旨此の如し。仍って以て上意による通達件の如し。
     八月三日           盛時(奉る)
   平六左衛門(北条時定)殿
「大江公朝への下文」
 河内の国の山田郷の事、地頭として国命に随うべきの由を命令文に載せました。而るに当任の国司光輔の時、鎌倉の命令を蒙りました。早く鎌倉に知らせるべきの由を称せしむようです。この條鎌倉に国司なくばこそ、左右を進止せしめ、如何様に命令なさるのでしょう。また誰人を以て命令を聞けるのでしょう。此の如き虚言、以ての外の次第である。早く先例に任せその指図を改めらるべきの由にある所であります。仍って以て上意による通達は件の如し。
     八月三日           盛時(奉る)
   江大夫判官(大江公朝)殿

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2007年4月 7日 (土)

6月29日 「吾妻鏡」「役夫工米の対捍につき答申書を進ず」

6月29日 「吾妻鏡」壬子
「役夫工米の対捍につき答申書を進ず」
 諸国の地頭等の伊勢大神宮の造宮の役夫の料米の割り当て納入の事、多く以て妨害未納が有るの間、造宮使頻りに詳細を申すの間、重ねて命令下されました。仍って日来その指図を経られ、且つは地頭等に知らせ命令され、且つは答申書を進上されたようです。その状に云く、
「頼朝の答申書」
 去る四月十一日の御文書、五月八日到来しました。造宮の役夫の料米の間の事、奉行の弁(藤原)親経朝臣の御文書、謹んでいただきました。知行する八箇国の領地管理命令書並びに証明書等、別の目録に載せこれを詳しく報告しました。この中で相模・武蔵は近境にあるの間、能く命令を加えしめ、早速に完納の勤めを致しました。自余の六箇国は、その行程を相隔てあるが故、国務の執行人に申し付けるの間、先例を守り指図を致さしめあるところです。而るに命令下されますの趣旨に驚き、古き領地管理命令書を尋ねますの処、此の如く記録し申しあげる所であります。詳細は件の報告書等に見えるところであります。尾張の国の住人(高田)重家・(山田)重忠等の割り当ての事、法に任せ御指図有るべきであります。凡そ近国の者ども、事をあれこれに寄せ年貢の未納を致しますならば、ただ如何にも御処断有るべきであります。
 (中原)親能・廣元の知行の所々の事、造宮使の申状を以て重ねて命令せしめ致しました。この外の者ども、事を頼朝の権威に寄せ、猥りに遁れ避けしめされれば、官使をも法皇庁の御使をも差し遣わして御指図有るべきであります。天下落居の後は、万事朝廷の御定を仰ぐべき事であります。而るに家人を大切と存じまして、御定に背きあろうとは更に存じない事であります。然れば関係を思いなさる事無く、いかにも法に任せ命令下さるべきであります。
 遠江の国の事、謹んで承りました。義仲は東山道の攻め手として、(安田)義定は東海道の攻め手として入京するの時、当国は義定を以て任命なされました。然れば頼朝が与えたに非ざるの間、何事も別して勤仕せしむべきであります。而るに御指示下されましたるの趣旨を以て命令させました。義定は定めてあれこれを申し上げるようです。條々この旨を以てそっと天子にお聞かせ下さるべきであります。そもそも国々の命令書を集め調えようと欲しているの間、遅延に及びました。尤も以て恐れ多いと思いましてございます。頼朝が恐れながら申し上げます。
     六月二十九日         頼朝
   ひそかに申します。
  国々の証明書は、天子の御覧の後猶返し頂いて、おのおの国務執行人に返し置くべきの由思いますところであります。重ねて恐れながら申し上げます。

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2007年4月 6日 (金)

5月29日 「吾妻鏡」「八條院領紀伊三上庄の地頭対捍す」

5月29日 「吾妻鏡」壬午
「八條院領紀伊三上庄の地頭対捍す」
 御随身左の府生秦(ふしょうはた)の兼平、去る比使者を進上した。これ八條院領の紀伊の国三上庄は、兼平譜第相伝の地である。而るに関東より定補された所の地頭の豊嶋権の守有経、事に於いて対捍し、年貢を抑留した。早く恩情ある採決を蒙るべきの由訴え申した。仍って先例に任せ済物を処理すべきの旨、御命令文を与えるの間、彼の使者今日帰京したようです。
(注釈)
随身(ずいじん)・・・外出時の護衛として従う近衛府の舎人
済物(さいもつ)・・・租税として上納する物品
八条院・・・暲子内親王。鳥羽天皇の皇女。後白河法皇の兄弟、

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2007年4月 5日 (木)

4月19日 「吾妻鏡」「太神宮役夫工米、地頭の未済を成敗す」

4月19日 「吾妻鏡」壬寅
「太神宮役夫工米、地頭の未済を成敗す」
 造太神宮の役夫工米、地頭未済の事、頻りに職事の奉書が有りました。神宮使また参訴するの間、まもなくに指図を致すべきの旨命令なされた。詳細有る所々に於いては、今日京都に急いで報告なされた。因州(広元)並びに(平)盛時・(藤原)俊兼等これを奉行しました。その状に云く、
    内宮の役夫工作料未済成敗の所々の事
   信濃の国 越後の国
    件の両国の未済、前の国務沙汰人に付け究済せしむべきの由、書状を神宮使に與えました。

(注釈)
太神宮(だいじんぐう)・・・伊勢大神宮
役夫工米(やくぶたくまい)・・・造営人夫の料米
未済(みさい)・・・貢納物なと゜の納入がまだ終わらない
職事(しきじ)・・・院に仕え、雑事をつかさどる職。
奉書(ほうしょ)・・・上意により下す命令の文書

(中略)

 そもそもこの内別紙に記録し分ける所三十箇所の事、家人の知行地の内、未だ配符を請け取らざる庄々、同じく分けるの由は判明している。これに就いて詳細を尋ねるに、造宮始めの後、今に至り配符を付けていないようです。然れば地頭の対捍の儀に非ざるか。今に成り始めて催促されるの條、もしこれあら探したるか。なかんずくに国々の国司・庄々の領家は、大略在京である。先ず国司・領家に催促されれば、また国衙・庄家に命令すべきである。その時地頭の対捍と号し、直に奏達に及べば、また知らせを送る事、その道理然るべきか。今に以て催促せざるの所、分別無く、家人・地頭未済の由記録し申されるの條、未だその道理を知らず。
     文治六年四月十九日
(注釈)
奏達(そうたつ)・・・天子に申し上げて、お耳に達すること
国司(こくし)・・・国の長官
領家(りやうけ)・・・荘園領主
国衙(こくが)・・・国府、国司の役所

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2007年4月 4日 (水)

4月18日 「吾妻鏡」「美濃犬丸等の地頭の対捍を停む」

4月18日 「吾妻鏡」辛丑
「美濃犬丸等の地頭の対捍を停む」
 美濃の国犬丸・菊松・高田郷等の地頭、年貢を対捍する事、同国の時多良山の地頭の玄蕃の助蔵人仲経、神事に従わざる由の事、在廰官人の上申書に就いて、法皇の命令を下されるの間、二品(頼朝)御命令文を送られる所である。
   下す 美濃の国犬丸・菊松・高田郷の地頭等
 右犬丸・菊松の地頭(字は美濃の尼上)、高田郷の地頭(保房)等、私領の如く知行し、所当以下の勤めを致さざるの由、在廰官人が訴え申すに依って、法皇より命令下された。仍って勤めを致すべきの由度々命令した。猶以て対捍するの間、重ねて命令下される所である。然れば度々の法皇の命令その恐れ少なくありません。今に於いては、件の両人の地頭職、他人に改任すべきであります。早く郷内を退出すべきの状件の如し。以て下す。
     文治六年四月十八日

   下す 美濃の国時多良山地頭仲経
    早く先例並びに留守所の催促に任せ、恒例の仏神役に勤仕せしむべき事
 右件の課役、その勤めを致さざるの由、在廰官人等が奏聞を経る。仍って法皇より命令下される所である。自今以後とどこおり無くその勤めを致すべし。もし猶難渋の事有らば、爭か過怠を遁れんや。更になおざりにすべからざるの状件の如し。以て下す。
     文治六年四月十八日
(注釈)
地頭(ぢとう)・・・土地の管理、年貢の徴収などの権限を有する
守護(しゅご)・・・治安維持のため諸国に設置
対捍(たいかん)・・・年貢などの義務の履行を拒否する
在廰(ざいちやう)・・・在廰官人の略。
在廰官人(ざいちやうくわんにん)・・・国府庁の事務官
留守所(るすどころ)・・・国司が不在の場合、代わりに留守の在庁の官人が国務を執る所
奏聞(そうもん)・・・天子に申し上げる事
過怠(かたい)・・・過失への償い

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2007年4月 3日 (火)

4月4日 「吾妻鏡」「山田重隆・堀江禅尼の公領押妨を停む」

4月4日 「吾妻鏡」丁亥
「山田重隆・堀江禅尼の公領押妨を停む」
 美濃国内の地頭佐渡の前司(山田)重隆並びに堀江禅尼、公領を押妨した。その事を指図させる為、召使い則国が入部するの処、菊松・犬丸等の公文が侮りさげすむの由を訴え有るに依って、尋ね下されるの間、二品(頼朝)は殊に驚き申しなされた。その書状を内々に権中納言(経房)の許に送られるべきの由のようです。
    召使い則国申す
  美濃の国菊松の公文末友・犬丸の公文延末の為、則国の身を凌礫せられる由の事
 件の両公文等の所行、何ぞ処罰を遁れる事があろうや。早く御使を以て末友・延末を呼び出され、処罰されるべきであります。いかにも御裁定有るべきであります。尼公の地頭職に於いては、まもなくに廃止させ、他人を以て改任させました。返す返すその恐れ少なからぬ事であります。彼の尼公は不当第一、奇怪であります。今は法に任せ追い出すべきであります。
 兼ねて(山田)重隆(佐渡の前司)は知行国に居住して、公領方に押妨を致すの不当にありますに於いては、頼朝は懸わるべきではありません。処罰がありますならば、御代官に命令なされて流罪にも行われ、いかにも御指図あることを、今支え申すべき事はありません。国の間の事に狼藉なる事ども有ることを、自然に頼朝が知らざる者どもの事を、確実に訴えをお引き受け有ることか。その恐れあるに依って、度々言上せしめある所であると。
(注釈)
押妨(あふばう)・・・正当な権利をもたない者が、他領内に侵入し、不当課税などを行う。
入部(にふぶ)・・・任国や領内に入る事。
凌礫(りょうれき)・・・あなどりさげすむこと
公文(くもん)・・・公文書、公文書を扱う役職

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2007年4月 2日 (月)

2月6日 「吾妻鏡」「奥州の使者に凶徒懐柔策を與ふ」

2月6日 「吾妻鏡」庚寅
「奥州の使者に凶徒懐柔策を與ふ」
 午前8時頃、奥州の飛脚が参着した。申して云く、去る月二十三日彼の国を出立しました。その日未だ都から到着の軍兵は無し。爰に兼任等逆賊の群集は蜂の如しとのようです。則ち雑色の里長を件の使者に相副え下し遣わされた。この間計略を廻らすべきの詳細、十分に命令遣わす所である。
 先ず謀叛の者どもの事、悉く死罪を遁れ難きものである。而るに降人として参るの時は、死罪・流刑共に以て御命令に任すべき事である。然れば国中の者ども、一旦兼任の猛威に怖れ、彼の逆心に同心せしむと雖も、真実の志は定めて味方に在るかもしれない。帰降したてまつるの族に至りては、刑をゆるくすべきの由、兼ねて国中に公開すべし。偏に以て追討すべきの趣旨を公開有るに於いては、面々退心を発し、強いて合戦を遂げば、味方の為にその煩い有るべしと。
 次いで新留守所・本留守、共に兼任に同意の罪科が有り。かれこれ言わず罰されるべきと雖も、暫く葛西の三郎清重に預けられ、甲(よろい)二百領の過料を召すべしと。本留守は、年齢すでに七十、死刑に処せられずと雖も、人の終わりは程無き事かと。
 次いで各々方の軍勢共の中、塩釜以下の神社の領地に入り、狼藉を表現すべからずと。

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2007年4月 1日 (日)

1190年 (文治6年)1月6日 「吾妻鏡」「泰衡の臣大河兼任叛乱を起こす」

1190年 (文治6年、4月11日改元 建久元年 庚戌)

1月6日 「吾妻鏡」辛酉
「泰衡の臣大河兼任叛乱を起こす」
 奥州の故(藤原)泰衡の郎従の大河の次郎兼任以下、去年の旧冬より以来叛逆を企て、或いは伊豫の守義経と号し出羽の国の海辺庄に出て、或いは左馬の頭義仲の嫡男で朝日の冠者と称し同国山北郡に起ち、各々謀反を起こした者どもがある。遂に兼任の嫡子鶴太郎・次男畿内の次郎は並びに七千余騎の凶徒を相具し、鎌倉方に向かい出立ちせしめた。その路は河北・秋田城等を歴て、大関山(陸奥)を越え、多賀の国府(陸奥)に出ようとしたようだ。而るに秋田・大方より、志加の渡(出羽)を打ちとおるの間、氷が俄に消えて五千余人忽ち以て溺死してしまいました。天のせめを蒙るか。爰に兼任は使者を由利の中八維平の許に送りて云く、古今の間、六親若くは夫婦の怨敵に報ずるは尋常の事である。未だ主人の敵を討つの例有らず。兼任独りその例を始めんが為、鎌倉に向かい行く所であるということです。仍って維平、小鹿嶋(出羽)の大社山毛々佐田の辺に馳せ向かい、防戦二時間に及びました。維平は討ち取られてしまいました。兼任また千福・山本の方に向かい、津軽に到り、重ねて合戦し、宇佐美の平次以下の御家人及び雑色の澤安等を殺害したようです。これに依って在国の御家人等は面々に飛脚を進上し、事の由を言上したようです。
(注釈)
六親・・・6種の親族。父母兄弟妻子

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