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2007年3月29日 (木)

閏4月30日 「吾妻鏡」「義経、奏衡に襲はれ自殺す」

閏4月30日 「吾妻鏡」己未
「義経、奏衡に襲はれ自殺す」
 今日陸奥の国に於いて、藤原泰衡が源與州(義経)を襲う。これ且つは勅定に任せ、且つは二品(頼朝)の命令に依ってである。豫州は民部少輔(藤原)基成朝臣の衣河の館に在り。泰衡の従兵数百騎、その所に馳せ至り合戦した。與州の家来等相防ぐと雖も、悉く以て敗績した。與州は持仏堂に入り、先ず妻(二十二歳)子(女子四歳)を害し、次いで自殺したようである。
   前の伊豫の守従五位下源朝臣義経(義行また義顕と改む。年三十一)
  左馬の頭義朝朝臣六男、母は九條院の雑仕常盤。寿永三年八月六日、左衛門の少尉
  に任じ検非違使の宣旨を頂く。九月十八日叙留す。十月十一日、拝賀(六位の尉の時、
    謝辞を申さず)、則ち院内昇殿をゆるされる。二十五日、大甞會御禊ぎの行幸に供奉す。
    元暦元年八月二十六日、平氏追討使の太政官符を頂く。二年四月二十五日、神鏡が九州
    より還宮した。太政官庁の庁舎にお入りの間供奉した。二十七日、院の御厩司に任命された。八月十四日、
    伊豫の守に任ず(検非違使は元の如し)。文治元年十一月十八日、免官。
(注釈)
陸奥(みちのく)・・・磐城、岩代、陸前、陸中、陸奥
磐城(いわき)・・・福島県東部、一部宮城県
岩代(いわしろ)・・・福島県中央部および西部
陸前(りくぜん)・・・宮城県、一部岩手県
陸中(りくちゅう)・・・岩手県、一部秋田県
陸奥(むつ)・・・青森県、一部岩手県
叙留(じょりゅう)・・・位だけあげて官職をそのままに留めおく
大甞會(だいじょうえ)・・・天皇が即位後、初めて行う穀物の祭り
御禊(おみそぎ)・・・神事の前に身を清める
行幸(ぎょうこう)・・・天皇の外出
供奉(ぐぶ)・・・行幸などの行列に加わること
厩司(うまやのつかさ)・・・馬のことをつかさどる役。
(解説)
 義経は公家の一人と名前が似ているので紛らわしいとの理由で、義行また義顕に変更させられた。

7月10日 「吾妻鏡」戊辰
「伊勢沼田御厨地頭の押妨を停む」
 太神宮(伊勢大神宮)領の伊勢の国の沼田御厨(みくりや)の人民等、訴状を捧げ、去る比参着した。当所は元畠山の次郎重忠に充て与えた処、文治3年6月29日、員弁(いなべ)大領家綱の訴状に依ってこれを没収せられ、吉見の次郎頼綱にあたえました(10月13日)。而るに頼綱また不義を巧み、民戸を追捕(ついぶ)し、財宝を調べて没収したようです。仍って今日指図が有りました。平民部の丞盛時の奉行として、早く彼の非道を停止させるべきの由、命令すべきの旨、山城の介久兼に命令を遣わされました。征伐の御祈祷を抽んぜんが為、以て急速の裁許に及ぶようです。
(注釈)
御厨(みくりや)・・・皇室や神社の領地
追捕(ついぶ)・・・没収、略奪
奉行(ぶぎょう)・・・命により行事を執行する担当者。

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