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2007年3月22日 (木)

12月12日 「吾妻鏡」「廣元、島末庄知行の由緒注進の案文を進ず」

12月12日 「吾妻鏡」癸酉
「閑院・六條殿修造により頼朝御感を蒙る」
 因幡の前司廣元の使者が京都より到来した。申して云く、今月三日、熊野参詣に出発する所である。而るにその精進中、天子のおほめのお言葉を頂いたようだ。閑院(臨時の皇居)並びに六條殿(法皇御所)修造以下、事に於いて勤節し、殊に神妙であるようだ。凡そ歓喜の涙抑え難し。このお言葉は、偏に人に知れないように施す恩徳の致す所かと。
「廣元、島末庄知行の由緒注進の案文を進ず」
次いで廣元が知行する周防の国の島末庄の事、女房の三條の局が申請書を捧げ所望するの間、師中納言(経房)の奉行として知行の由緒を尋ねられるの間、詳細を記録し書状を進上しました。定めて直に命令下されるか。廣元は言上の様子を知りなされないが為、彼の状の案文を進上すの由のようです。
   周防の国島末庄地主職の事
 右件の庄は、彼の国大島の最中である。大島は、平氏謀叛の時、新大納言(平知盛)が城を構え、居住数ヶ月に及ぶの間、島人は皆以て同意した。それより以降、二品(頼朝)家の御命令として、件の島に地主職を置かれるところである。毎事庄務の例を守り、更に新儀の妨げ無し。尋ね捜されるの処、定めてその隠れ無からんか。但し別の御定に於いては、左右に及ばないものである。早く重ねての命令に随い進退すべきである。

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