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2007年3月12日 (月)

11月25日 「吾妻鏡」「但馬住人山口家任所々に横行、本領を安堵せしむ」

11月25日 「吾妻鏡」壬戌
「但馬住人山口家任所々に横行、本領を安堵せしむ」
 但馬の国住人山口の太郎家任(いえたふ)と云う者がいます。弓術と馬術の達人で勇敢な武士である。而るに木曽左馬の頭(義仲)に従い、近従の随一でありました。かれの成敗で死亡された後、豫州(義経)の家に在りました。豫州が逃亡の刻、同じく所々に横行するの間、北條殿(時政)これを逮捕なされ、命により進上された所である。仍って両人に仕えた理由を尋問された処、申して云く、家任は譜代の源氏の御家人である。なかんずく父家脩は、六條廷尉禅室(為義)に仕え忠をいたし、数箇所を拝領しました。平家が天下を執るの時、悉く以ておちぶれた。左典厩(義仲)が入京の最初、寿永二年八月、たまたま土地の所有を公認されました。その恩徳に酬いる為、一旦その近くに奉仕する者に連なると雖も、関東に於いて謀反する心を持つものではありません。また豫州に従うの事は、人々の虚偽の訴でありますと言うので、六條殿(為義)の御命令文を今に所持したるや否や尋ね申されるの間、これを準備し進上しました。二品(頼朝)は両手を洗い、これを拝見されました。(藤原)邦通が読み申しました。保元三年二月日の御命令文である。内舎人(うどねり)の筆跡のようです。この御命令文に優じ、他の事の糾明の指図に及びませんでした。本職の土地の所有を公認すべきの旨、直にしっかり命じなされたようです。昔を重んぜられるの趣旨は、諸事斯くの如しのようです。

11月29日 [玉葉]
「群盗の事」
別当隆房卿(検非違使庁の長官)が群盗の間の事を申した。

12月9日 [玉葉]
「群盗の事」
今日、宗範をもって条々の事を(群盗多き事なり)法皇に申し上げた。

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