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2007年3月

2007年3月31日 (土)

12月23日 「吾妻鏡」「義経・義仲・秀衡の子ら鎌倉に発向すとの風説」

12月23日 「吾妻鏡」戊申
「義経・義仲・秀衡の子ら鎌倉に発向すとの風説」
 奥州からの飛脚が去る夜参り、申して云く、與州(義経)並びに木曽左典厩(義仲)の子息及び秀衡入道の男等の者有り。各々同心合力せしめ、鎌倉に向け出発せんと擬すの由の評判の説が有るようです。仍って軍勢を北陸道に分け派遣すべきかの由、今日その指図が有りました。深雪の時期たりと雖も、皆用意を廻らすべきの旨、御文書を小諸の太郎光兼・佐々木の三郎盛綱以下越後・信濃等の国の御家人に遣わされるようです。(藤原)俊兼が、これを奉行しました。
(注釈)
旧暦1189年12月23日 は新暦1190年1月30日
御家人(ごけにん)・・・将軍と主従関係を結び、所領安堵などの保護を受けた武士

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2007年3月30日 (金)

9月3日 「吾妻鏡」「泰衡、郎従河田次郎に誅せらる」

9月3日 「吾妻鏡」庚申
「泰衡、郎従河田次郎に誅せらる」
 藤原泰衡は数千の軍兵に圍まれ、一旦の生命への迫害を遁れる為、隠れることねずみの如く、退ぞくこと貎(げき)に似たり。夷狄(えぞ)嶋を差し、糠部郡(陸奥)に向かって行く。この間、数代の郎従河田の次郎を相恃み、肥内郡贄(にえ)の柵(出羽)に到るの処、河田たちまちに年来の旧好を変じ、郎従等をして泰衡を相囲ましめさらし首にした。この首を二品(頼朝)に献上する為、鞭を揚げ参向したようです。
   陸奥押領使藤原朝臣泰衡(年三十五)
   鎮守府将軍兼陸奥の守秀衡が次男、母前の民部少輔藤原基成の娘、
   文治三年十月、父の遺跡を継ぎ、出羽・陸奥の押領使として六郡を管領(支配)す。
(注釈)
貎(げき)・・・想像上の水鳥?
郎従(らうじゆう)・・・家来、従者、
鞭(むち)・・・細長い杖
押領使(あふりゃうし)・・・暴徒・盗賊などの鎮定・逮捕を管掌した職
鎮守府(ちんじゅふ)・・・陸奥・出羽の蝦夷を鎮圧するための役所
鎮守府将軍・・・鎮守府の長官
出羽・・・山形・秋田両県

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2007年3月29日 (木)

閏4月30日 「吾妻鏡」「義経、奏衡に襲はれ自殺す」

閏4月30日 「吾妻鏡」己未
「義経、奏衡に襲はれ自殺す」
 今日陸奥の国に於いて、藤原泰衡が源與州(義経)を襲う。これ且つは勅定に任せ、且つは二品(頼朝)の命令に依ってである。豫州は民部少輔(藤原)基成朝臣の衣河の館に在り。泰衡の従兵数百騎、その所に馳せ至り合戦した。與州の家来等相防ぐと雖も、悉く以て敗績した。與州は持仏堂に入り、先ず妻(二十二歳)子(女子四歳)を害し、次いで自殺したようである。
   前の伊豫の守従五位下源朝臣義経(義行また義顕と改む。年三十一)
  左馬の頭義朝朝臣六男、母は九條院の雑仕常盤。寿永三年八月六日、左衛門の少尉
  に任じ検非違使の宣旨を頂く。九月十八日叙留す。十月十一日、拝賀(六位の尉の時、
    謝辞を申さず)、則ち院内昇殿をゆるされる。二十五日、大甞會御禊ぎの行幸に供奉す。
    元暦元年八月二十六日、平氏追討使の太政官符を頂く。二年四月二十五日、神鏡が九州
    より還宮した。太政官庁の庁舎にお入りの間供奉した。二十七日、院の御厩司に任命された。八月十四日、
    伊豫の守に任ず(検非違使は元の如し)。文治元年十一月十八日、免官。
(注釈)
陸奥(みちのく)・・・磐城、岩代、陸前、陸中、陸奥
磐城(いわき)・・・福島県東部、一部宮城県
岩代(いわしろ)・・・福島県中央部および西部
陸前(りくぜん)・・・宮城県、一部岩手県
陸中(りくちゅう)・・・岩手県、一部秋田県
陸奥(むつ)・・・青森県、一部岩手県
叙留(じょりゅう)・・・位だけあげて官職をそのままに留めおく
大甞會(だいじょうえ)・・・天皇が即位後、初めて行う穀物の祭り
御禊(おみそぎ)・・・神事の前に身を清める
行幸(ぎょうこう)・・・天皇の外出
供奉(ぐぶ)・・・行幸などの行列に加わること
厩司(うまやのつかさ)・・・馬のことをつかさどる役。
(解説)
 義経は公家の一人と名前が似ているので紛らわしいとの理由で、義行また義顕に変更させられた。

7月10日 「吾妻鏡」戊辰
「伊勢沼田御厨地頭の押妨を停む」
 太神宮(伊勢大神宮)領の伊勢の国の沼田御厨(みくりや)の人民等、訴状を捧げ、去る比参着した。当所は元畠山の次郎重忠に充て与えた処、文治3年6月29日、員弁(いなべ)大領家綱の訴状に依ってこれを没収せられ、吉見の次郎頼綱にあたえました(10月13日)。而るに頼綱また不義を巧み、民戸を追捕(ついぶ)し、財宝を調べて没収したようです。仍って今日指図が有りました。平民部の丞盛時の奉行として、早く彼の非道を停止させるべきの由、命令すべきの旨、山城の介久兼に命令を遣わされました。征伐の御祈祷を抽んぜんが為、以て急速の裁許に及ぶようです。
(注釈)
御厨(みくりや)・・・皇室や神社の領地
追捕(ついぶ)・・・没収、略奪
奉行(ぶぎょう)・・・命により行事を執行する担当者。

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2007年3月27日 (火)

1189年 (文治5年)2月30日 「吾妻鏡」「阿武郡を東大寺に進じ、遠平の代官に退去を命ず」

1189年 (文治5年 己酉)

2月30日 「吾妻鏡」壬寅
「阿武郡を東大寺に進じ、遠平の代官に退去を命ず」
 長門の国(ながと、山口県西部・北部)阿武郡は、平家からの没収領の内たるの間、ほうびとして土肥の彌太郎遠平に賜えたと雖も、東大寺御建造の材木の切り出しの為地頭職を去り進上すべきの由、勅定有るに依って、退出すべきの由命令されるの処、遠平の代官は今も居住するの由遠聞に及ぶの間、重ねて御手紙を遣わされた。
   下す 長門の国阿武郡
    前の地頭遠平の代官、早く郡内を退出せしむべき事
   右件の地頭職、停止せしむべきの由、法皇の役所の御命令文を作成し下されるの処、遠平の代官は今も久しく留まり、濫妨(略奪)を致すの由その聞こえが有る。所行の旨、甚だ以て不当である。早く郡内を退出せしむべきの状件の如し。以て下す。
     文治五年二月三十日
「安房・上総・下総の地頭に荒野を開墾せしむ」
 また安房(あわ、千葉県南部)・上総(かずさ、千葉中央部)・下総(しもうさ、千葉県北部)等の国々、多く以て荒野有り。而るに人民が耕作せざるの間、更に公私の益無し。仍って浪人を招き居き、これを開発せしめ、年貢に備えるべきの旨、その所の地頭等に命令されたようです。
(注釈)
勅定(ちょくじょう)・・・天皇が親しく定めること。

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2007年3月22日 (木)

12月12日 「吾妻鏡」「廣元、島末庄知行の由緒注進の案文を進ず」

12月12日 「吾妻鏡」癸酉
「閑院・六條殿修造により頼朝御感を蒙る」
 因幡の前司廣元の使者が京都より到来した。申して云く、今月三日、熊野参詣に出発する所である。而るにその精進中、天子のおほめのお言葉を頂いたようだ。閑院(臨時の皇居)並びに六條殿(法皇御所)修造以下、事に於いて勤節し、殊に神妙であるようだ。凡そ歓喜の涙抑え難し。このお言葉は、偏に人に知れないように施す恩徳の致す所かと。
「廣元、島末庄知行の由緒注進の案文を進ず」
次いで廣元が知行する周防の国の島末庄の事、女房の三條の局が申請書を捧げ所望するの間、師中納言(経房)の奉行として知行の由緒を尋ねられるの間、詳細を記録し書状を進上しました。定めて直に命令下されるか。廣元は言上の様子を知りなされないが為、彼の状の案文を進上すの由のようです。
   周防の国島末庄地主職の事
 右件の庄は、彼の国大島の最中である。大島は、平氏謀叛の時、新大納言(平知盛)が城を構え、居住数ヶ月に及ぶの間、島人は皆以て同意した。それより以降、二品(頼朝)家の御命令として、件の島に地主職を置かれるところである。毎事庄務の例を守り、更に新儀の妨げ無し。尋ね捜されるの処、定めてその隠れ無からんか。但し別の御定に於いては、左右に及ばないものである。早く重ねての命令に随い進退すべきである。

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2007年3月21日 (水)

12月6日 「吾妻鏡」「東大寺僧と武家の使闘乱す」

11月27日 「吾妻鏡」戊午
「群盗大庭景宗の墓を盗掘す」
 (大庭平太)景能の父景宗の墳墓は相模の国豊田庄に在りました。而るに群盗が競い来たり、彼の塚を掘り開き、納める所の重宝等を盗み取り去りました。これを追走すと雖も、その行方を知らずとなりました。この事の始めを思うに、去る比狐が倒れるの由見い出す時であるようです。人以て不思議とするようです。

12月6日 「吾妻鏡」丁卯
「東大寺僧と武家の使闘乱す」
 式部大夫親能の飛脚が京都より参着した。去る月二十五日、東大寺境内に於いて寺僧と武家の使と闘乱し、相互に傷死した。疵を被る者数十人である。今日二十九日、在京の士卒を以て南都に出発させようと欲するの処、朝廷の大事として、禁制を加えるべきの旨、右武衛(能保)並びに親能に命令されるの間暫く留めた。則ち命令に応じ、武士の出発を留めたの由、師殿(経房)に申し上げたようです。これ高太入道を殺害する事に依って、尋問し指図すべきの由、二品(頼朝)命令しなさるの間、親能の使者を奈良に派遣し尋ねんと欲するの処、その処置を相待たず、忽ちこの狼藉が出来したようです。
(注釈)
高太入道・・・肥後の守平貞能法師の郎従

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2007年3月20日 (火)

9月3日 「吾妻鏡」「頼朝、地頭重頼の不法を停む」

9月3日 「吾妻鏡」丙申
「頼朝、地頭重頼の不法を停む」
 宮内大輔の重頼が不法の事、法皇の命令を下されるに就いて、早く停止されるべきの由、重頼に命令を遣わされた。
 また勅願寺領の年貢の済否の事、面々に尋ねられると雖も、地頭の答申書等未だ整わざるの間遅延するの由、同じく申された所である。
    若狭の国司申す、松永・宮川保の地頭宮内大輔重頼国命に随わざる事、非法を停
    止せしむべきの由、下文を成し進上せしめ候。
 右件の事、いかにも御定に有るべきであります。荘園領主は尋常にて地頭の不当が極まり無きの所多くございます。また地頭は尋常にて、年貢のなまけを致さ無い所々もございます。而るに荘園領主の中にも、地頭を憎みて勝つに乗りて訴え申す事もございますの由、承り及ぶところであります。然れば記録所へも召されまして、真偽を決定して御裁許いただければ、不当の地頭は恐れを成して、忠節心を励ますでしょう。また尋常の地頭は、いよいよ公平を存ぜしめますでしょう。尤も勤否を召し問わるべきでございます。但しそのために召されなさる者ども、若くは参上せしめず候か。連名を記録しなされば、召し進上せしむべきであります。この旨を以て申し上げなさるが良いでしょう。
   頼朝恐々謹言。
     九月三日           頼朝(裏判在り)
   追って言上す
 去る六月四日に到来しました御命令書の中、命令下されました金剛心院並びに蓮花王院領等の御年貢の済否の事、相尋ねました処、地頭等は在所の国々相隔てますの故、今に調わないのであります。仍って遅延しました。尤も恐れ思いであります。重ねてこの旨を以て申し上げなさるが良いでしょう。恐々謹言。
「若狭松永・宮川保の地頭押妨停止の下文」
   下す 若狭の国松永並びに宮川保の住人
    早く先例に任せ国衙の課役に勤仕せしむべき事
 右件の所々、地頭宮内大輔重頼、事を所職に寄せ、国事を押妨する由、太政官から出す公文書に依って、法皇より命令下される所である。早く地頭に付する事の外、国府の租税などに於いては、非法の妨げを停止し、先例に任せその勤めを致すべきの状件の如し。以て下す。
     文治四年九月三日
(注釈)
宮内大輔の重頼・・・平賀義信に次ぎ、三河の守範頼より上位の重臣のようである。
記録所(きろくじょ)・・・荘園の審査・記録

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2007年3月19日 (月)

8月20日 「吾妻鏡」「阿波麻殖保地頭の押妨を停む」

8月20日 「吾妻鏡」癸未
「阿波麻殖保地頭の押妨を停む」
 前の廷尉(平)康頼入道また訴状を差し上げた。(3月14日にも記録がある)これ阿波の国の麻殖(おえ)保の事、地頭の(野三)刑部の丞成綱が武力をひけらかし、保司を軽視するの間、恩恵よんどころ無きに似たり。しかのみならず、内蔵寮の済物が欠乏するの故、成綱の地頭職を停止すべきの由、法皇の命令を下された所である。彼と云い是と云い、二品(頼朝)驚かしめなされた。地頭を諸国に任命し置かれる事、朝廷を警衛し、国乱を治めるが為である。而るに公物を抑留し、穏便ならざるの由、指図が有りました。成綱は地頭職を領有せしむと雖も、荘園領主方に相交るべきでは無いの旨、命令下されたようです。
(注釈)
内蔵寮(くられう)・・・宝物、装束などの管理
済物(さいもつ)・・・租税として上納する物品
保(ほう)・・・国有地の一単位
保司(ほうし)・・・保の管理者

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2007年3月18日 (日)

8月17日 「吾妻鏡」「群盗蜂起の事」

7月17日 「吾妻鏡」辛亥
「藤原宗長、石清水神人と闘靜す」
 右武衛(能保)の飛脚が参着した。去年夏の比、御家人藤原宗長と石清水の神職等と闘争した。神職いささか傷を被るに依って、去る十一日法皇の命令を下された所である。この事度々命令されると雖も、指図無く召し進上すの條、傍輩の思う所そのたのみ無きに似たり。仍って猶予するの処、事すでに重事に及ぶ。いかように処置すべきでしょうかと。則ち法皇の命令書を副え進上されました。
(以下略)

8月17日 「吾妻鏡」庚辰
「群盗蜂起の事」
 右兵衛の督能保の手紙が到来した。みちばたの群盗が蜂起の事、疑惑の分に至りては、所々に広く知らせました。
「朝廷叡山僧を捕らへしむ」
 なかんずく、比叡山の飯室谷の竹林房の住僧の来光房永實の同宿(千光房七郎と号する僧)、悪徒浪人等を招き卒いて、夜討ち以下の悪行をさせるの由、あまねく風聞するの間、天子に申し上げを経ました。仍って法印の圓良に命令して召されるの処、去る四日彼の僧を召し取り進上すの由、答申書を差し上げる所であるようです。
「宗長土佐に流さる」
また云く、藤原宗長、石清水八幡宮の訴えに依って、去る五日太政官の公文書を下されました。土佐に流罪のようです。

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2007年3月17日 (土)

7月13日 「吾妻鏡」「隠岐の守仲国申す重頼押領の事」

7月1日 「玉葉」戊辰
 別当の隆房が来た。群盗の間の事を示した。

7月13日 「吾妻鏡」丁未
  武蔵の国平澤寺院主職の事、僧永寛に付けられました。
「隠岐の守仲国申す重頼押領の事」
 また師中納言(経房卿)の命令文書が到来した。隠岐の守(源)仲国、宮内権大輔重頼が地頭と称し所々を押領するの由を申した。仍って今日御承諾を申された。
 隠岐の守仲国が申した重頼の押領の事、尤も以て気の毒にございます。手紙を以て重頼に命令せしめました。されば、隠岐の国司の仲国の訴状を献上し、これに就いて、この事法皇より命令下されました。お聞きなされる如きは、乱行は気の毒の由にございます。然れば今に於いては、件の所々をば、いかでありてか支配させなさるべきでしょうか。そもそもその中村別府の事こそ、うけたまわりとも詳しく知らずにありました。何様の次第にございますか。仍って以て執達件の如し。
     七月十三日          御判
   宮内大輔殿
「美濃の国の郷々地頭押領の事」
 この外、美濃の国の郷々の地頭が押領の事、(藤原)能盛入道・為保・(大江)成季等が進上する所の手紙並びに国役所の役人の上申書、同じくこれを下された。また美豆牧司が申す本庄並びに高運島の事、景時の代官所当をわきまえざる由の事、尋問し指図させるべし。されば、尋問し究明して御命令文を成さるべきの由のようです。
(注釈)
執達(しったつ)・・・上意を受けて下に通達すること

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2007年3月16日 (金)

6月4日 「吾妻鏡」「播磨の国景時の郎従等の狼藉」

6月4日 「吾妻鏡」戊辰
「地頭沙汰の條々の勅答」
 所々の地頭の指図の間の事、條々を記録し師中納言経房にお送りなされた処、御返報が今日到着しました。天皇のお答の趣旨については、詳細は権右中弁定長朝臣が副えて献上した命令文書に譲る。
「相模の国大井庄の事」
「上総の国伊隈庄の事」
「蓮花王院領伊豆の国狩野庄、同領常陸の国中郡庄」
「上総の国管生庄」
「下野の国中泉・中村・塩谷、相模の国早河庄の事」
「八條院領」
「遠江の国 笠原庄」
「播磨の国景時の郎従等の狼藉」
  播磨の国景時知行の所々の事
 申し文に任せ御指図有るべきである。景時は君の御ために忠義が有るの由お聞きになられた。また在京の時なども、殊にその忠義が有るようだ。委しくお聞きになられるには及びません。家来等の狼藉にてもあるだろう。此の如く申されなさるの間、御本意の由にございます。五箇庄の事お聞きなされました。福田庄・西下郷・大部郷、申し文に任せ御指図有るべし。
「備前の国宇甘郷の事」
「大内守護の事」
「一條院御領の事」
「早河庄の事」
   以前の條々、この旨を以て処置なされるべきの由、御意向があるようです。恐々謹言。
     五月十二日          権右中弁

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2007年3月15日 (木)

5月17日 「吾妻鏡」「昌寛眼代押妨の訴」

5月17日 「吾妻鏡」壬子
「貴賀井島を征服す」
「昌寛眼代押妨の訴」
 次いで鎮西(九州)庄は、成勝寺の執行の昌寛の代官が妨げを成すの間、昌寛の返書を請求し下しなさると雖も、猶以て静かに治まりません。乱行を企てるの趣旨を訴え申すようです。仍って彼是の指図が有りました。
 大理(頼実)はお気に入りの家来であるに依って、件の庄に限らず地頭を止むべきの旨、君主のお言葉を下されるの間、関東がどうしてこだわり申されようか。執行の代官の事は、加判されるべし。但し再三これを訴え申すべきと雖も、関東の国に於いて、自由のおしかりを成すべからざるのを由申し上げられたようです。
 今日定められて云く、御急劇の時、御教書に御判を載せるべきではありません。掃部の頭(中原親能)の判であるべきである。もし、さしつかえの時は、(平)盛時の判であるべきの由のようです。
(注釈)
執行(しゅぎょう)・・・寺務を行う僧職
御教書(みぎょうしょ)・・・将軍家の仰せを受けて出す文書
急劇(きゅうげき)・・・行動や変化がにわかで激しい。
判(はん)・・・署名に続く判、書き判、花押など。

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2007年3月14日 (水)

4月12日 「吾妻鏡」「地頭等庄家を押領」

4月9日 「吾妻鏡」戊寅
「奥州下向の官使到着す」
「義経追討の宣旨」

4月12日 「吾妻鏡」戊寅
「院宣到来す」
「東大寺材木引夫の事」
「良弘の事」
「諸国庄々の地頭の事」
「地頭等庄家を押領」
  院宣に云く
 諸国庄園の地頭等、国は役人に従わしめ、庄は荘園管理者に従うべきの由、或いは命令文を成し進し、或いは命令を加うべきの旨、再三申し付けなされました。
 然れども所々より申し訴えしむる如きは、ただ地頭を任命されたと云うを以て、偏に庄家を押領する如し。
 貴賤上下いたずらに嘆き悲しみに疲れた。神社仏寺は永久に訴訟を抱く。多くの人民の歎き、なお天の責めを為すものである。何ぞまして仏神に於いては。神領は神事の違例を恐れる、定めて咎め成すことが出で来るだろう。寺領は仏事の次第に衰えるのを悲しみ、罪業を陳謝し難いものである。
 つくづく天下の争乱を思うに、あに地頭の乱暴にあるかもしれない。人民の愁いを散ぜられば、定めて落居の基となるだろう。但し地頭の中、その性格の好悪に依ってその勤めの軽重が有るようだ。然れば能く詳細を尋ね捜し、勤否に随い、勤め無き者を免職にし、勤め有る者どもを選抜して表彰すれば、偏に悪巧みをほしいままにするも、なんぞ勤節を表わすかもしれない。一向に荘園管理者を軽視する者どもに於いては、尤も罪科に処せらるべきである。兼ねてまた去々年以後、庄々の年貢以下、荘園管理者の取り分等を詳しく尋問し進上し、未だその済否に従わなければ、賞罰を加えらるべきである。逐年荘園管理者の受け取り証を召し取り、且つは進覧せしめ、且つは本家に付けしめ給うべきか。家来の不当たりと雖も、すでに一身の不当のごとし。積もる所尤もその恐れ有る事か。去り難く思いなさるの余り、此の如く命令遣わされる所である。
 なかんずくに、近年天変地異は連続して申し上げが有り。これ則ち人の愁い重なるが故か。わざわいは徳に勝らず、徳政に及ぶ事は無い。徳政と謂うは、人の愁いを散ずるを以て先と為すべきである。この旨を存じ、殊に指図を致さしめなされば、天下は太平になり、万人は仁に帰るだろう。されば、法皇の命令此の如し。仍って執達件の如し。
     三月二十八日         太宰権の師籐経房(奉る)
   謹上 源二位殿

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2007年3月13日 (火)

1188年 (文治4年)2月2日 「吾妻鏡」「地頭の所領につき諸人愁訴す」

1188年 (文治4年 戊申)

2月2日 「吾妻鏡」戊辰
「地頭の所領につき諸人愁訴す」
 所々の地頭等の所領以下の事、京都より、或いは権力者との縁故に属き、或いは手紙を献じ、愁いを申す人々これ多し。仍ってその御指図が有りました。而るを検非違使の尉の公朝は去年の冬より鎌倉に在りました。 近日帰京すべきの間、その意を得て彼の訴えの箇条を申し上げる為、題目を一紙に載せ、公朝に与えるべき事のようです。彼の公朝が下向の次いでに、手紙等その指図有る所である。
 御事書に云く、
   宝殿
    越後の国の奥山庄の地頭の不当の事。
   修理大夫家(藤原定輔)
    尾張の国の津島社、板垣の冠者が所当をわきまえざるの由の事。
   右衛門の佐御局
    信濃の国の四宮庄の地頭、年貢並びに領家の取り分を進弁せざる由の事。
   大宮御局
    伊勢の国の志禮石(しれし)御厨、宗輪田右馬の允の不当の事。
   賀茂神主
    大夫判官(義経)捜し求めるの由の事。
    高雄上人(文覚)が宣旨に背き神領を押領する由の事。
   新中将殿(藤原家房)
    伊賀の国の若林御園の内七町九段を妨げるの由の事。
     佐々木の太郎(定綱)方 五町四段
     平六兵衛の尉  壹町五段
     阿保別府    壹町
   公朝
    備前の国の吉備津宮領の西野田保の地頭職貞光の事、道理に任せ被告人の妨げを停止し、本の如く相違無く知行せしめんと欲する事。
 以上の所々、尤も御成敗有るべきの処、凡そ此の如きの訴訟は、天皇より命令が下されるの時は、とやかく言う事無く成敗させると雖も、ひそかに縁故をたより触れ来たるに付いては、全く指図を致すべきではないものである。善悪の御定めに於いては、あれこれの指図は出来ない事である。縁故を以て指図いたせば、世間の人は定めて不公平に似たる事を思うだろう。仍って今度は御指図は無きものである。

3月14日 庚戌
「平康頼、地頭の押妨を訴ふ」
 前の廷尉(平)康頼入道が訴訟書を差し上げた。これ去年阿波の国の麻殖(おえ)保々司職を拝領した。仍って使者を遣わすと雖も、地頭の野三刑部の丞成綱が許容に能わざるの間、年具は手を空しくするの由これを記載した。当保は、内蔵寮の現物税の運上の地である。成綱が固く抑留するの間、度々法皇の命令を下されました。然れば件の租税を除いて、康頼は分割すべきの旨の御命令書を下されたようです。

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2007年3月12日 (月)

11月25日 「吾妻鏡」「但馬住人山口家任所々に横行、本領を安堵せしむ」

11月25日 「吾妻鏡」壬戌
「但馬住人山口家任所々に横行、本領を安堵せしむ」
 但馬の国住人山口の太郎家任(いえたふ)と云う者がいます。弓術と馬術の達人で勇敢な武士である。而るに木曽左馬の頭(義仲)に従い、近従の随一でありました。かれの成敗で死亡された後、豫州(義経)の家に在りました。豫州が逃亡の刻、同じく所々に横行するの間、北條殿(時政)これを逮捕なされ、命により進上された所である。仍って両人に仕えた理由を尋問された処、申して云く、家任は譜代の源氏の御家人である。なかんずく父家脩は、六條廷尉禅室(為義)に仕え忠をいたし、数箇所を拝領しました。平家が天下を執るの時、悉く以ておちぶれた。左典厩(義仲)が入京の最初、寿永二年八月、たまたま土地の所有を公認されました。その恩徳に酬いる為、一旦その近くに奉仕する者に連なると雖も、関東に於いて謀反する心を持つものではありません。また豫州に従うの事は、人々の虚偽の訴でありますと言うので、六條殿(為義)の御命令文を今に所持したるや否や尋ね申されるの間、これを準備し進上しました。二品(頼朝)は両手を洗い、これを拝見されました。(藤原)邦通が読み申しました。保元三年二月日の御命令文である。内舎人(うどねり)の筆跡のようです。この御命令文に優じ、他の事の糾明の指図に及びませんでした。本職の土地の所有を公認すべきの旨、直にしっかり命じなされたようです。昔を重んぜられるの趣旨は、諸事斯くの如しのようです。

11月29日 [玉葉]
「群盗の事」
別当隆房卿(検非違使庁の長官)が群盗の間の事を申した。

12月9日 [玉葉]
「群盗の事」
今日、宗範をもって条々の事を(群盗多き事なり)法皇に申し上げた。

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2007年3月11日 (日)

10月13日 「吾妻鏡」「伊勢沼田御厨重忠所領を吉見頼綱に充て行ふ、狼藉を停止」

10月13日 「吾妻鏡」庚辰
「伊勢沼田御厨重忠所領を吉見頼綱に充て行ふ、狼藉を停止」
 太神宮の神職等の訴訟に依って、畠山の次郎重忠の所領の伊勢の国沼田御厨(みくりや)を没収し、吉見の次郎頼綱に割り当てられた。仍って重忠に於いては、その身を呼び出し閉じこめると雖も、詳細を知りませんとの由を申し、頗る理由を述べて謝り有るかの間、特別の厚意により赦免されました。当御厨については他人に与えたの旨、神宮に命令されたの上、(重忠の代官)員弁大領家綱の所領・資材等、員数に任せ本主に指図し付すべし。今後と雖も、彼の辺に於いて武士の狼藉を停止すべきの趣、山城の介久兼に命令されなさるべく指図なされたようです。

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2007年3月10日 (土)

10月8日 「吾妻鏡」「行平・常胤在京中の群盗の事を報告す」

10月6日 [玉葉]
「群盗の事」
群盗の事、左大臣右大臣共に申して曰く、検非違使の庁並びに武士等に命令し、地区を分けて守護すべし。且つ叉頼朝卿に命令されるべしと。但し左大臣申して曰く、真犯人を逮捕する者、賞あるべき由命令されるべしと。

10月8日 「吾妻鏡」乙亥
「行平・常胤在京中の群盗の事を報告す」
 下河邊庄司行平・千葉の介常胤が京都より帰参した。法皇の命令等に於いては、先々雑色に持たせ進上しました。ここに両人を御前に召され、上京の間、京中は静かに治まるの由は天子のおほめに及び、尤も御名誉たるの趣を感じお言葉ある所である。而るを行平は九月十一日に入京した。即夜兼ねて承り及ぶ群盗の衆会の所々をひそかに様子を探り、家来をして夜の見回りを致させた処、尊勝寺の辺に於いて奇怪の者に行き逢う。人数八人、残らずこれを逮捕し、犯罪の事実を尋ね明かすの間、常胤を相待たず、はたまた検非違使の廰に連絡せず、北條殿の例に任せ彼等の首をはねました。常胤、同十四日に京に着きました。各々在京し、幾日数を歴ずと雖も、更に狼藉の事を聞かず、自然に何事も無く平穏でした。誠にこれ将運の然らしむるの所に依ってか。次いで在京武士の事、御使雑色並びに両人の使いを以て、日時を廻らさず悉くこれを呼び出すに、来り集まる所である。尋問しました。面々主張し申すの旨有り。詳細が無い事も無い。その書状は五十三通これを進上しました。その上犯罪の実證は無し。指図出来ない事であるようです。これに就いて件の陳状等、師中納言に付すべきかの由、その指図有りと雖も、関東の武士の所行とは全く風聞せざるの由、法皇の命令に記述されるの間、あれこれ考慮を加えこれを準備進上はしませんでした。持参させたの由、行平等これを申しました。この事その道理は当然であるべし。仍ってまた御感心有りました。将軍の居所中に留められたようです。

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2007年3月 9日 (金)

10月3日 「吾妻鏡」「群盗の事」

10月3日 「吾妻鏡」庚午
「上洛使に付し奏聞の条条の勅答」
 下河邊庄司(行平)・千葉の介(常胤)等の上京に付き、京中の群盗以下の條々申し上げなさる事、悉く天皇のお答が有りました。その書状が今日、鎌倉に到来したところである。また御熊野詣で用途の事を命令下された。まもなく御答申書を進上なさるべきの由のようです。法皇の命令に云く、去る八月十九日・同二十七日等の御手紙、今月十五日に到来した。條々の事申し上げました。
「群盗の事」
一、群盗並びに人々の事
 申しなさる如く、京中の事情に通じている者か、若くはまた京都近国の者どものしわざの由、お聞きなさる所である。本より関東の武士の所行とは全く風聞せず。またその旨のお言葉を与えず。ただ最近、検非違使の廰の指図は遂日弱少化し、偏に羽毛の如し。在京守護の武士、合力し指図を致せば、何ぞ禁圧出来ないものかの由お思いなされるに依って、殊に尋ね指図有るべきの由の命令を遣わされる所である。なかでも実行犯の者ども、武士と号し威すの時、検非違使の廰いよいよ制裁に迷うようです。尤も推察有るべき事か。然れども検非違使の廰の指図たるべきの由、計り申しなさるの條、法の指せる所、尤も然るべき事である。仍って殊に御指図有るべきの由を摂政に申されました。但し武士に於いて合力すべき事か。
(中略)
一、所々地頭等の事
 成敗なさるべしの旨に任せ、各々命令下されるべきである。この上申し上げる事有らば、重ねて命令遣わされるべきか。偏に御用の事に限り触れ命令されるに非ず。多く神社仏寺の訴訟があるに依って、黙止し難きの間、細々と命令をあたえる所である。人の愁いや神の祟りも積もりならば、世間も此の如く落着しないのです。もし所々の愁いを少なくすれば、神明もこれを擁護します。諸人も喜び楽しめば、徳政とも成て、世上もいよいよ静かに治まりに属きます。
(中略)

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2007年3月 8日 (木)

9月19日  [玉葉]「群盗の事」

8月30日 「吾妻鏡」丁酉
「常胤おくれて上洛す。」
 千葉の介常胤が使節として上京した。これは京中の狼藉の事が関東の御家人等の仕業であるかの由疑いの恐れ有るの旨、風聞するの間、尋問し指図する為である。御使として行平は先に以て進発させました。同道すべきの処、常胤は病気の間、延びて今日に及びました。

9月19日 丁巳 天晴 [玉葉]
「群盗の事」
 晩に及び、権右中弁定長が法皇の御使として来た。私はこれに会見した。頼朝卿が申し上げる所の群盗の間の事、計り指図すべきようである。この事は法皇より命令を遣わされるの御返事である。

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2007年3月 7日 (水)

8月27日 「吾妻鏡」「頼朝、使行平に付し京に言上する条々」

8月27日 「吾妻鏡」乙未
「頼朝、使行平に付し京に言上する条々」
  下河邊庄司行平が使節として上京しました。また重ねて京都に申される條々、
一、群盗の事
   京中の事情に通じている者のしわざか。若くは又畿内・近国の武士か。両篇よくよく御尋ね問有るべきかの事。
一、江大夫判官下部等狼藉の事
   河内の国に於いて、関東の御家人と号し押し取り狼藉に及ぶの由、風聞する所である。全く頼朝が申し付ける旨無し。御尋ね有るべき事。
一、北面の人々廷尉に任ずる事
   この事は近年諸人の望みである。以前たやすい事ではなかった。よくよくその人物を撰び、抜擢されるべき事。
一、壱岐判官(平知康)下向の事
   義経・行家等に同意する者である。したがって別の命令無し。この上進上すべきかの事。
一、奉公の人々子孫の事
   以前功労有るの人の子孫が落ちぶれ果てるなら天皇の御不覚で有る。殊におおやけの場所に進上されるべき事。
一、西八條地の事
   没収領としてこれを宛ていただくと雖も、公用有るべきの由、内々承りました。早く御命令在るべき事。
一、所々地頭の輩の事
   以前、すでに面々に詳細を申し含めました。もし頼朝の処置に服従しない者どもの事に於いては、命令下されるに随い、制裁して罰を加えるべき事。
  右條々、公平を存じ言上せしむ所なり。
    文治三年八月二十七日

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2007年3月 6日 (火)

8月19日 「吾妻鏡」「洛中狼藉鎮定のため、常胤・行平、上洛せしむ」

8月12日 「吾妻鏡」庚辰
「京より群盗鎮圧の要請あり」
 右武衛(一条)能保の手紙が到来した。当時京中は強盗が所処に乱入し、上下これが為に驚き恐れ甚だしいようです。なかでも、去年十二月三日、強盗が太皇太后(天皇の祖母で皇后)宮に侵入し、大夫の進仲賢以下の男女を殺害して以来、太略隔夜この事有り。武士等を差し向け殊に警衛なさるべきの由、天皇の意向が有るようです。

8月19日 「吾妻鏡」丁亥
「洛中狼藉鎮定のため、常胤・行平、上洛せしむ」
 京中の狼藉の事、引き続いて法皇の命令を下されしの間、且つは詳細を尋問し、且つはこれを鎮圧する為、千葉の介常胤・下河邊庄司行平に上京すべきの旨を命令されました。各々承諾を申すの間、今日御前に呼び出され御旅立ちの儀式が有りました。また御馬を頂き、條々の命令を承りました。御手紙に云く、
「頼朝の経房宛て消息」
 京中の群盗の蜂起並びに散在の武士の狼藉の事、度々命令下されますの趣、殊に驚き歎き思い申し上げます。時政が下向の時、東国の武士を少々残留させました。その外にも、或いは兵粮米の指図として、或いは大番勤仕(宮廷警護)として、武士等が在京する事多くございます。彼の者どもは狼藉を鎮圧出来ず、還って計略に疲れ、若くは此の如き事をも企てましたか。世間のうわさは塞ぎ難きものであります。然かれば偏に頼朝の恥辱であります。当時親能・廣元が在京しましたが、元より武将の器ではありません。ただ閑院殿(天皇御所)の修理の事、指図を致しているばかりであります。此の如きの事、全く彼等の不手際ではありません。仍って常胤・行平を差し上げました。東国に於いて軍勢の多き者である上、信頼出来る武士であります。そのほかの事は知りません。武士等の中の狼藉は、この両人がたやすく鎮圧出来るでしょう。器量を見計らい進上しまた。よくよく命令されるべきであります。條々猶別紙を以て申し上げいたします。且つはこの趣をそっと報告なさるべきであります。頼朝が恐れながら申し上げます。
     八月十九日          頼朝
   進上 師中納言殿

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2007年3月 5日 (月)

6月20日 「吾妻鏡」「伊勢神宮領地頭の濫行を停む」

6月20日 「吾妻鏡」庚寅
「伊勢神宮領地頭の濫行を停む」
 伊勢の国の没収領の事、加藤太光員これを急ぎ報告された事に随い、地頭を任命されるの処、彼の者ども太神宮の御領に於いて乱暴を致すの由、所々よりその訴え有るの間、宜しく停止させるべきの由、今日定めを下された。その状に云く、
   下す 伊勢の国の御領内の地頭等
    早く無道の狼藉を停止し、内外宮の神主等の命令に従い、指図を致すべき事
 右謀叛人の所領に於いては、先例に任せ地頭職ばかりを任命させた処、各々自由の乱暴を致し、或いは所々を横領し、或いは神職を煩わすの由その聞こえ有るに依って、神職を優先すべきの由、度々命令させた。仍って神官等が指図を致そうとするの処、光員の報告書に任せ地頭に任命した者ども、尚所々を押領し、神領の煩いを致すの由その訴えが有る。所行の旨、甚だ以て不当である。今より後は、神官の命令に従い神への忠節をつくすべきである。縦え地頭と雖も、何ぞ神官を煩わし神社の職務役を怠るのか。宜しく件の狼藉を停止すべきである。もし違反させる場合には、たしかに連名を記録し、言上すべきの状件の如し。以て下す。
     文治三年六月二十日

6月29日 己亥
「伊勢沼田御厨の地頭代官の押妨を停む」
 雑色(下級の役人)の正光が御使として、御文書を所持し伊勢の国に赴任した。これ当国の沼田御厨(みくりや)は、畠山の次郎重忠が地頭職を領する所である。而るに重忠の代官の内の別当眞正、員部大領家綱が家来等の宅を追捕せしめ、資財を没収するの間、家綱、神職等を差し進上し訴え申し込みました。仍ってその罪を取り調べる為である。また正光は事を御使を口実にして、乱行を現すに於いては、誡めを加え詳細を言上すべきの趣旨を、山城の介久兼(彼の国に在りと)に命令を下された。

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2007年3月 4日 (日)

5月20日 「吾妻鏡」「名主、鹿島社領御寄進地を押領す」

5月20日 「吾妻鏡」辛酉
「名主、鹿島社領御寄進地を押領す」
 藤原行政は使節として常陸の国(茨城県)に下向した。これ鹿島社領の名主の貞家が御寄進の地を押領するの旨、御物忌(神に奉仕する者)が、これを訴え申すに依って、廣元(大江)の奉行として日来その裁定が有りました。この裁定を当事者に伝達する為派遣された所である。

5月26日 「吾妻鏡」丁卯
「宇治義定の代官、齋宮寮田を押領、義定恩地を収公せらる」
 宇治蔵人三郎義定の代官、伊勢の国の齋宮寮田の櫛田郷内の所処を押領したようです。悪事を問いただし追求されるべきの旨、法皇より命令が下されました。ただちに義定に尋問するの処、在鎌倉すでに多年に及ぶの間、彼の国の詳細を知らず。代官を呼び出し進上すべきの由これを陳謝し申しました。而るに道理にかなった訟を考慮するならば、追って申し上げすべきであるか。今群行(齋宮の儀式)の期に臨み、武家の者ども、件の式の田を押領するの上は、勅定(天皇の定め)を含みながらその科(とが)を行わなければ、御趣意を軽んずるに似たようなものだ。仍って義定は勲功により頂いた土地を没収されたようです。

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2007年3月 3日 (土)

4月23日 「吾妻鏡」「重源、周防御家人の杣出妨げを訴ふ」

4月23日 「吾妻鏡」甲午
「重源、周防御家人の杣出妨げを訴ふ」
 周防の国(山口県東部)は、去年四月五日、東大寺造営の為寄付されるの間、材木の事、彼の国に於いて材木用の木の切り出し等が有りました。而るに御家人少々が武威を輝かし、妨げを成す事有るに依って、勧進聖人の重源(東大寺の僧)が国役所の役人等の書状を取り、公家に訴え申すの間、その上申書を関東に下された。詳細を尋問し命令される所である。
 重源申し上げます。御材木の事、急ぎ指図頂くべき由思いまして、まかり下ります処に、なおなお武士の狼藉が停まりません。
      筑前の冠者家重  内藤の九郎盛経  三奈木の次郎守直
      久米の六郎国眞  江所高信
 これらが各々、鎌倉より地頭になりまして、所々に保管していた米百八十六石、その故無く押し取りました。人夫の食料に頼みてまかり下ります間、かやうな狼藉が発生しまして、万事が相違ある事となりました。私に制止を加えましたが、さらに従いません。かやうの事は鎮まらねば、この御大事なり難きものであります。かねては国人を駆り集めて、城郭を構築して、私の材木の切り出しを始めます処、御材木引夫を呼び出しますのに、さらに承引しないのです。あるひは山野の狩をなさりますのに、またく法皇の命令に遠慮いたしません。此の如きの事によりまして、諸事がはかどりませんので、恐の為に急ぎ申し上げます由、委しくは国役所の役人の上申書に申し上げます由、重源が恐れながら申し上げます。
     文治三年三月一日       在判

「周防国在廰官人、地頭の非法を訴ふ」

   周防の国在廰官人等
    言上の二箇條
一、得善(とこぜ)末武の地頭として、筑前の太郎(家重)、都乃一郡に横行せしめ、政府の倉庫を打ち開き年貢米を押し取る。狩猟を趣意として、公民を駈け寄せ集め、城郭の堀を構築し、自由に任せ農業の勧めを妨害する事
(以下略)

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2007年3月 2日 (金)

3月19日 「吾妻鏡」「法隆寺領鵤庄の地頭の押妨を停む」

3月19日 「吾妻鏡」辛酉
「法隆寺領鵤庄の地頭の押妨を停む」
 聖徳太子の神聖な遺跡を重んぜられるに依って、法隆寺領の地頭の金子の十郎(家忠)が横暴の事、停止すべきの趣、去年命令されたのに、猶静かにならざるの由、住職が法皇の命令書を持参し訴え申すに就いて、雑色の里久を派遣し、鵤(いかるが)庄の押領を停止すべきの由指図を致しました。件の庄の事、聖徳太子を殊に重要視なされるに依って、書き記される気配が有ります。頼朝様は専らお聞きなされて驚く所であります。
   下す 播磨の国鵤庄住人
    金子の十郎の妨げを停止せしめ、ひたすらに荘園領主の指図に従うべき事
 右件の庄、金子の十郎の妨げを停止せしむべきの由、去年法皇の命令に依って指図した。而るに金子の十郎は代官を配置し、庄を押領するの由、重ねて申しつけられる所である。甚だ以て不当の所行である。自今以後、早くその妨げを停止せしむべきである。もし用いざるに於いては、その指図者を呼び出し誡める為、使者里久を下し派遣する所である。早く彼の妨げを停止させるべきの状件の如し。
     文治三年三月十五日

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2007年3月 1日 (木)

2月9日 「吾妻鏡」「草野定康に近江領所を安堵せしむ」

2月9日 「吾妻鏡」辛巳
「草野定康に近江領所を安堵せしむ」
 (草野)大夫屬定康と云う者がいます。関東の功労ある武士である。彼の近江の国の領地、平家在世の時は、源家の味方と称し、没収され滅亡した。今また守護(佐々木)定綱が兵粮米の為これを調べて没収した。これに依って参上を企てた。功労の有るを強く申すの間、かたがた狼藉を停止し、元の如く領有支配すべきの趣、今日命令下されたようです。
「定康平治の乱の功」
 去る平治元年十二月合戦の敗北の後、左典厩(義朝)が東国美濃の国に御行きなされた。時に寒嵐が膚を破り、白雪が路を埋め、進退の歩行困難でした。而るにこの定康、忽然としてその所に参向せしむの間、平氏の追捕を遁れる為、先ず氏寺(大吉堂と号す)の天井の内にお隠しいたしました。院主の阿願房以下の住僧等を以て警固するの後、私宅にお招き申しました。翌年の春に至るまで忠節をつくしたようです。

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