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2007年1月

2007年1月31日 (水)

5月14日 [吉記]「忠清法師、一日比姉小路河原の辺に於いて梟首」

5月14日 天晴 [吉記]
「忠清法師、一日比姉小路河原の辺に於いて梟首」

5月15日 「吾妻鏡」丁酉
「義経、宗盛父子を伴い酒匂に着く」
「宗盛を迎え入れ、義経鎌倉入りを停む」

5月16日 「吾妻鏡」戊戌
「忠清法師梟首さる」
「宗盛父子鎌倉に入る」

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2007年1月30日 (火)

5月9日 「吾妻鏡」「渋谷重助の任官内挙なきため召名を除かる」

5月9日 「吾妻鏡」辛卯
「渋谷重助の任官内挙なきため召名を除かる」
 渋谷の五郎重助、関東の御推薦に預からず任官せしむ事、任命書を申し止めらるべきの旨、重ねて指図有り。これ父の重国は石橋合戦の時、武衛(頼朝)を射奉ると雖も、寛大な許しの儀に依って召し仕わるるの処、重助は猶平家に従属し、度々の招集に違背した。而るに平家が京都から退却の日、京都に留まり義仲朝臣に従属した。滅亡の後、廷尉義経専一の者と為る。條々のとがめ、精兵の一事に優先されるの処、結局任官せしめた。旁々然るべからざるの由その指図有り。今度、重国また豊後の国(大分県)に渡るの時は、先登の功有りと雖も、参州(範頼)に先立ち上京するの條、同じく以て不快。則ちこの條々を仰せ遣わさると。
「原田の所領功臣に分かち与ふ」
また原田(種直)(平家の味方)の所領は、勲功のある者どもに分ち宛てらるべきの由、参州に仰せ遣わさると。

5月10日 「吾妻鏡」壬辰
「伊藤忠清を逮捕、京送す」
 志摩の国麻生浦に於いて、加藤太光員の郎従等、平氏の家人上総の介忠清法師を搦め取る。京都に伝うと。

5月11日 「吾妻鏡」癸巳
「宗盛逮捕の功により頼朝従二位に叙せらる」

5月11日 [吉記]「沙汰を致す武士妨げの庄園等の注文、管国等狼藉有る」

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2007年1月29日 (月)

5月3日 「吾妻鏡」「頼朝、義仲の妹に扶持を加ふ」

5月3日 「吾妻鏡」乙酉
「頼朝、義仲の妹に扶持を加ふ」
 木曽の妹公の事、御扶持(ふち)を加えられる所である。憐み奉るべきの趣、小諸の太郎光兼以下信濃の国の御家人等に仰せ付けらると。これ信州は、木曽義仲の領国の如くにして、住人と称する者は皆彼の恩顧を蒙るが故なりと。
(注釈)
扶持(ふち)・・・俸禄を給して、家臣としておくこと。世話をすること。

5月4日 「吾妻鏡」丙戌
「頼朝、景時の使に書を託し義経を勘発す」

5月5日 「吾妻鏡」丁亥
「宝劔捜索を範頼に命ず」

5月7日 「吾妻鏡」己丑
「義経起請文を頼朝に進ず」

5月7日 [玉葉]
 大夫の尉義経等東国に下向した。前の内大臣父子、並びに郎従十余人を引き連れるようだ。
5月7日 [吉記]
 早朝、大夫判官義経が前の内府(張藍摺の輿に乗る)並びに前の右衛門の督清宗(騎馬)、及び捕虜の者どもを引き連れ関東に下向した。左馬の頭能保朝臣同じく下向したようだ。

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2007年1月28日 (日)

5月1日 「吾妻鏡」「頼朝、義仲の妹に美濃遠山庄を与える」

5月1日 「吾妻鏡」癸未
「頼朝、義仲の妹に美濃遠山庄を与える」
 故伊豫の守「義仲」朝臣の妹公(字は菊)が京都より参上した。これ武衛(頼朝)が招待されたが故である。御台所(政子)は殊に哀れみなされた。先日所々横領の由の事、わるだくみのある族が名を仮り面に立つの條、全く詳細を知らざるの旨陳謝すと。豫州(義仲)は朝敵として、討罰に預かると雖も、指せる雑怠無きの女性、なんぞこれを憐まざらんかと。仍って美濃の国遠山庄の内一村を賜う所である。
(中略)

(注釈)
美濃の国遠山庄・・・美濃国(岐阜県)恵那郡遠山荘馬籠村らしい。木曽に近い。

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2007年1月27日 (土)

4月28日 「吾妻鏡」「平重遠、在京東士の不法を訴ふ」

4月28日 「吾妻鏡」辛巳
「建禮門院律師実憲の坊に移る」
「平重遠、在京東士の不法を訴ふ」
今日、近江国(滋賀県)の住人で前出羽の守(平)重遠が参上した。これ累代の御家人である。年齢は80才のようだ。頼朝はその志を哀れみ、御前に呼んだ。舎弟十郎並びに僧蓮仁等、助け支えを加えた。重遠が申して曰く、平治合戦の後、譜代のよしみを存ずるの間、ついに平家(清盛)の権威に従わずして、二十余年を送りました。たまたま御執権(政権を執る)の時に会い、安堵すべきのところ、かえって在京の関東の武士等がために、兵粮と称し、番役と号し、年貢を厳しく催促されるの条、はなはだもって耐え難し。およそ我が一身の訴えにあらず、諸人の愁いに及ぶ。平氏の時はかつてこの儀なし。世上いまだ安定せざるかと。申し状の趣、もつとも正理に叶うの由御感想あり。よってしかる如きの乱暴を停止して、安堵の思いをなさしむべきの旨、直に御決裁ありと。叉国中の訴訟の事、ご指図あるべきの由と。

4月28日 [玉葉]
「神鏡、神璽温明殿に」

4月29日 「吾妻鏡」壬午
「頼朝、西海の諸士義経の命に従はぬやう命ず」

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2007年1月26日 (金)

4月26日 「吾妻鏡」「頼朝、實平・景時に武士乱行禁止を命ず」

4月21日 「吾妻鏡」甲戌
「梶原平三景時、義経不義の事を訴う」

4月21日 [玉葉]
  泰経卿を以て密々尋ね問わるる事等
「建禮門院の御事如何」
「前の内府の事如何」
「頼朝の賞の事」

4月24日 「吾妻鏡」丁丑
「賢所・神璽今津の辺に着」

4月26日 「吾妻鏡」己卯
「頼朝、實平・景時に武士乱行禁止を命ず」
 近年、戦乱の間、武勇の者どもが私威を輝かし、諸荘園において乱行を致すか。これによって去年春のころ、よろしく停止に従うべきの由、天皇の命令を下された。しかるに関東、(土肥次郎)実平・(梶原平三)景時をもって、近国の総追捕使に差し定められるのところ、かの両人においては清廉潔白で正直を存ずといえども、補佐のため設置するところの代官等、おのおのほしいままなる所行あるの由、ようやく人の訴訟を懐く。これについて早く停止せしむべきの旨、御下し文を成されるところである。

下す、畿内近国実平押領の所々
早く院宣の状に任せて、実平が乱暴の知行を停止せしむべき事
右畿内近国の庄公、させる由緒なきに、空しくもって押領した。おのおの代官の者ども、ひとえに郡内に居住し、本家の命令に従わず、国の公文書・法皇庁の催告をおろそかにし、あるいは年貢をかすめ取し、あるいは官物を流用した。所行の至り、っとももって不当の事である。今においては、早く下された法皇の命令に従い、是非を論ぜず境界内を退出させるの後、理由を有する者は、追って詳細を言上させるべきの状件のごとし。以て下す。
 元歴2年四月26日

4月26日 [玉葉]
「前の内府、並びに時忠卿以下入洛すと」

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2007年1月25日 (木)

4月15日 「吾妻鏡」「東国侍の内任官の輩本国に下向することを停止」

4月15日 「吾妻鏡」戊辰
「頼朝、内挙なき御家人の任官を禁ず」
「東国侍の内任官の輩本国に下向することを停止」
 関東の御家人、推薦を受けず、功無くして多く以て皇宮警察や・役所等の官職を拝任した。各々殊に奇怪の由、御下文を彼の者どもの中に遣わされた。件の名字一紙に載せ、面々その不可を記述し加えらると。
   下す 東国侍の内任官の者ども中
    本国に下向することを停止せしめ、各々在京し軍務や公務に勤仕すべき事
     副え下す 連名書一通
 右任官の習い、或いは出勤日の労役を以て御給を賜い、或いは私物を以て朝家の御大事を償い、各々朝恩に浴す事である。而るに東国の者ども、徒に庄園の年貢を抑留し、国の役所の官物を掠め取り、公事を勤めて功を為すことなく自由に拝任した。官吏の職務の物事が次第に衰えてゆくことすでにこれに在り。偏に任官を停止せしめば、成功の便無きものか。前職現職を問わず、任官の輩に於いては、永く城外の思いを停め、在京し軍務に勤仕せしむべし。すでに朝廷の列臣に交わる。何ぞ謹慎などして家の中に閉じ籠もるべからず。もし違反して墨俣(岐阜県南西部)以東に下向するならば、且つは各々領地を取り上げ、且つはまた死罪に申し行わしむべきの状、件の如し。
     元暦二年四月十五日
「東士任官者の批評」
   東国住人任官の輩の事
 兵衛の尉(ひょうえのじょう)義廉 鎌倉殿は悪しき主である。木曽は吉き主であると申して、父を始め親しい人等を相つれそい、木曽殿に参上しよう、鎌倉殿にお仕えすれば、終には落人となり給うと処せられなどと申していたのに、何に忘却したのか。奇異の悪兵衛の尉である。
 兵衛の尉忠信 藤原秀衡の家来が、皇宮警察の職を拝任せしむ事、昔より未だ有らず。身の程を計り、お勤めするのがよいだろう。その気にてあるようだ。これはいたちに劣る。
 兵衛の尉重経 処罰は、ほぼ免除された。然れば領地に帰還せしむべきの処、今は領地に付け申されないだろう。
 渋谷馬の允(じょう)  父は在国である。而るに平家に従い経過せしむの間、木曽義仲が大勢を以て攻め入るの時、木曽に従いて駐留した。また判官義経殿御入京の時、また落ち降参した。度々の合戦に、心は一番にて有れば、前々の御処罰を免じ、召し仕わるべきの処、皇宮警察官として首を斬られるはいかがだろう。能く用意して鍛冶屋に相談して、首玉に厚く巻金をすべきである。
 小河馬の允  少々御処罰を免じて、御哀れみ有るべきの由思いなさるの処、顔色が良くない。何のための任官だろう。
 兵衛の尉基清 目は鼠(ねずみ)眼にて、ただお勤めすべきの処、任官は奇異である。
 馬の允有経  少々、やつは木曽殿御処罰有るの処、少々免ぜなされたならば、ただお勤めすべきに、五位の馬の允、未曾有の事である。
 刑部(ぎょうぶ)の丞友景 音声はしわがれて、後鬢の様子まで裁判官の様ではない。
 同男兵衛の尉景貞 合戦の時、心一番にて有る由聞こえ有り。仍って御愛おしみ有るべきの由お思いの処、任官は奇異である。
 兵衛の尉景高 悪い顔色して、本より切れ者でないと御見立てしに、任官は誠に見苦しい。
 馬の允時経  大ほらふきばかりを能力として、何とも言い表せない官好みして、甲斐庄と云うを知らない。あわれ粗略の人である。あばれ馬に細工して有れかし。
 兵衛の尉季綱 御処罰すこし免除して有るべき処、理由無き任官である。
 馬の允能忠  同じ。
 豊田兵衛の尉 色は白らかにして、顔は不覚気なるものの、ただお勤めすべきに、任官は奇異である。また下総に於いて、度々召集有るに参集せず、東国が平定されて後参集した。不覚ものめ。
 兵衛の尉政綱
 兵衛の尉忠綱 領地を少々返し給うべきの処、任官して、今は相叶うべきもない。ああ残念の人かな。
 馬の允有長
 右衛門の尉季重 久日源三郎 顔はふわふわとして、奇異の任官かな。
 左衛門の尉景季 
 縫殿(ぬいどの)の助   
 宮内の丞舒国 大井の渡りに於いて、声の様は誠に臆病気にて、任官見苦しき事である。
 刑部の丞経俊 官を好み、その必要な事無しである。あわれ無益の事である。
     この外の者ども、その数多く拝任せしむと雖も、文武官の間、何の官、何の職と明らかに知りなさるに及ばざるの故、委しく書状に載せられず。この外と雖も、永く城外の思いを停止せしむべきか。
 右衛門の尉友家
 兵衛の尉朝政
     件の両人、九州に下向するの時、京に於いて拝任せしむ事、のろい馬の道草を喰らうが如し。同じく以て下向すべきではないの状件の如し。
(注釈)
兵衛(ひょうえ)・・・兵衛府に属し、内裏の門の守衛など。
尉(じょう)・・・衛門府・兵衛府・検非違使などの次官(すけ)の下。
允(じょう)・・・寮のじょう、尉(じょう)と同等。
色様(いろさま)・・・美しい人の敬称。
刑部(ぎょうぶ)・・・裁判・行刑を担当する役所。
縫殿(ぬいどの)・・・縫殿寮で裁縫を担当する所。
助(すけ)・・・寮の次官。

(感想) これが本当に公文書か。

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2007年1月24日 (水)

4月4日 [玉葉]「平氏等を誅伐」

4月4日 「吾妻鏡」丁巳
「義経、平家側死傷交名を院に奉る」

4月4日 [玉葉]
「平氏等を誅伐」

4月5日 「吾妻鏡」戊午
「勅使長門に下向、神器無事奉遷を義経に命ず」

4月11日 「吾妻鏡」甲子
「義経の戦果報告鎌倉に到着す」

4月12日 「吾妻鏡」乙丑
「範頼九州に駐留、義経捕虜を伴い上洛せしむ」

4月14日 「吾妻鏡」丁卯
「院使下向、頼朝平家追討の功を賞す」
「頼朝、波多野経家より西海合戦談を聞く」

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2007年1月23日 (火)

3月27日「平氏長門の国に於いて伐たれたり」

3月27日 [玉葉]
「平氏長門の国に於いて伐たれたり」
 伝聞、平氏は長門の国(山口県西部北部)に於いて伐たれた。九郎の功のようだ。実否は未だ聞かず。

3月28日 辛亥 [玉葉]
「平氏伐たれたり」
 右少弁定長が来た。定長云く、平氏伐たれたの由、この間風を聞く。これ佐々木の三郎ト申す武士の説のようだ。然れども義経は未だ飛脚を進上せず。不審猶残るようだ。

3月29日 「吾妻鏡」壬子
「豊後住人に下す院宣案文関東に到着す」
 平氏追討の事、武衛(頼朝)申されるに依って、遠征軍の功を励ませる為、庁(法皇)の御下文を豊後の国(大分県)の住人等の中に下された。これ先日の事たりと雖も、彼の文書の写し、今日関東に到来する所である。
   院庁下す 豊後国の住人某等
    いよいよ征伐を専らにし、勲功を遂げ官位や賞品を期待すべき事
 右、平家謀叛の党類、四国辺の島を往復し、朝廷で立てた法規を軽視するの間、九州の辺民は多く鳥の集まるように規律もなく統一もない集群に入り、道理に背く企てを致させた。而るに当国の軍兵等、堅く国王の法令を守り、凶悪の側に味方せず。遂に数船を戦闘用に改装し、官軍を迎え取り、九州の者どもを服従させるべき由その聞こえ有り。殊に以て天子のおほめあり。いよいよ精鋭の兵を増し、彼の凶徒を討滅させるべきである。各々その功労により、申請に依り賞品を賜うこと有るべきである。当国の大名等、宜しく承知すべし。違反する勿れというべきである。仰せの所件の如し。故に下す。
     元暦二年二月二日

3月29日 [玉葉]
 定能卿が来た。平氏の間の事を語る。昨日定長の語る如し。

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2007年1月16日 (火)

3月24日 「吾妻鏡」「壇浦合戦、安徳帝海底に没す」

3月24日 「吾妻鏡」丁未
「壇浦合戦、安徳帝海底に没す」
 長門の国(山口県西部北部)赤間関(下関)壇浦の海上に於いて、源平相対した。各々三町を隔て、舟船を漕ぎ向かう。平家は五百余艘を三手に分け、山峨の兵籐次秀遠並びに松浦党等を以て大将軍と為し、源氏の将帥に挑戦した。12時頃に及び平氏は終に敗退した。二品(二位時子)禅尼は宝劔を持ち、按察の局は先帝(安徳天皇、春秋八歳)を抱き奉り、共に以て海底に没した。建禮門院(藤重の御衣)は入水なされるの処、渡部党源五馬の允、熊手を以てこれを取り奉る。按察大納言の局同じく存命した。但し先帝終に浮かびなされず。若宮(今上の兄)は御存命のようだ。前の中納言(教盛、門脇と号す)は入水した。前の参議(経盛)は戦場を脱出し、陸地に至り出家し、立ち還りまた波の底に沈む。新三位中将(資盛)・前の少将有盛朝臣等同じく水に没した。前の内府(宗盛)・右衛門の督(清宗)等は、伊勢の三郎能盛の為生虜られた。その後軍士等が御船に乱入した。ある者は賢所(神鏡)を開き奉らんと欲した。時に両眼忽ち暗んで神心ぼう然たり。平大納言(時忠)が制止を加えるの間、彼等は退去した。これ尊神の別躰、朝家の惣持なり。神武天皇第十代崇神天皇の御宇、神威の同殿を恐れ、鋳改め奉らると。朱雀院の御宇長暦年中、内裏焼亡の時、円規すでに欠けると雖も、平治逆乱の時は、(源)師仲卿の袖に移らしめ給う。その後新造の箱に入れ奉り、民部卿資長蔵人頭としてこれを指図した。末世の今、猶不思議な変化を顕わす。仰ぐべし。恃(たの)むべし。

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2007年1月15日 (月)

3月22日 「吾妻鏡」「義経数十艘の兵船を促し、壇浦へ」

3月21日 「吾妻鏡」甲辰 甚雨
「周防の国の舟船奉行、数十艘を献ず」
 廷尉(義経)は平氏を攻める為、壇浦に出発向しようと欲するの処、雨に依って延引した。爰に周防の国(山口県東部)在廰船所の五郎正利、当国の舟船奉行たるに依って、数十艘を献ずるの間、義経朝臣に文書を正利に與えた。鎌倉殿の御家人たるべきの由と。

3月22日 「吾妻鏡」乙巳
「義経数十艘の兵船を促し、壇浦へ」
 廷尉(義経)は数十艘の兵船を促し、壇浦を差し出航した。昨日より乗船を聚(あつ)め計略を廻らすと。三浦の介義澄この事を聞き、当国大島の津に参会した。廷尉曰く、汝すでに門司関を見る者である。今は案内者と謂うべし。然れば先登すべしといえり。義澄は命を受け、壇浦奥津の辺(平家の陣を去ること三十余町なり)に進み到る。時に平家これを聞き、船に棹さし彦島を出た。赤間関(下関)を過ぎ田の浦に在りと。

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2007年1月14日 (日)

3月12日 「吾妻鏡」「兵粮米を納めらる」

3月12日 「吾妻鏡」乙未
「兵粮米を納めらる」
 平氏を征罰させる為、兵船三十二艘、日来伊豆の国鯉名の奥(こいなのおき)並びに妻良(めら)の津に浮かべ、兵粮米を納めらる。仍って早く出航すべきの由命令を下さる。(藤原)俊兼が、これを指揮した。

3月16日 己亥 天晴 [玉葉]
「平家安藝厳島に」
 伝聞、平家は讃岐の国(香川県)シハク庄に在り。而るに九郎襲い攻めるの間、合戦に及ばず退却し、安藝(広島県西部)厳島に到着したようだ。その時僅かに百艘ばかりのようだ。三種の神器が帰り来たる事、公家は特別の祈祷無し。兼実が一人この事を欲した。仍って近日、特別に随分の祈り等を修した。また中心この事を察す。仏天定めて照覧有らんか。

3月17日 庚子 [玉葉]
「平家或いは備前小島に在り。」
 伝聞、平家は或いは備前(岡山県南東部)小島に、或いは伊豫(愛媛県)五々島に在るようだ。九州の軍勢三百艘が相加わるようだ。但し実否知り難し。

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2007年1月13日 (土)

3月9日 「吾妻鏡」「兵粮その術無きに」

3月8日 「吾妻鏡」辛卯
「屋島の合戦すでに終わり」
「義経、屋島合戦を頼朝に報ず」
 源廷尉(義経)の飛脚が西国より参着した。申して云く、去る月十七日、僅かに百五十騎を卒い、暴風を凌ぎ、渡部より出航した。翌日6時頃に阿波の国(徳島県)に着き、則ち合戦を遂げた。平家の従兵、或いは殺され或いは逃亡した。仍って十九日、廷尉は屋島に向かわれた。この使その決着を待たず馳参した。
「屋島内裏焼亡す」
而るに播磨の国(兵庫県南西部)に於いて後を顧るの処、屋島の方に黒煙が天に昇る。合戦すでに終了した。内裏以下焼亡その疑い無しと。
(注釈)
廷尉(ていじょう)・・・検非違使で左衛門尉を兼務している者。検非違使の官職名は判官。

3月9日 「吾妻鏡」壬辰
「兵粮その術無きに」
「範頼窮状を頼朝に告ぐ」
 参河の守(範頼)九州より書状を差し上げて云く、平家の在所近々たるに就いて、相構えて豊後の国(大分県)に着くの処、一般の人民悉く逃亡するの間、兵粮その術無きに依って、和田の太郎(義盛)兄弟・大多和の次郎(義成)・工藤一臈(祐経)以下侍数輩、推して帰参しようと欲するの間、まげてこれを抑留し、相伴い渡海した。猶御旨を加えらるべきか。
「熊野湛増讃岐に渡る。」
次いで熊野の別当湛増、廷尉(義経)の引級に依って追討使を承り、去る比讃岐の国(香川県)に渡る。今また九州に入るべきの由その聞こえ有り。四国の事は義経これを承る。九州の事は範頼承るの処、更にまた然る如きの輩にぬきんぜられば、ただに身の面目を失うのみならず、すでに他の勇士無きに似たり。人の思う所尤も恥と為すと。

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2007年1月12日 (金)

3月4日 「吾妻鏡」「在洛の武士狼藉」

3月4日 「吾妻鏡」丁亥
「在洛の武士狼藉」
 京都付近の国々の乱暴狼藉を鎮める為、典膳大夫(中原)久経・近藤七国平を以て、御使としてすでに差し遣わされた。而るに猶在京の武士が乱暴を現すの事情を聞き及びなされるに依って、法皇の疑問の恐れを和らげる為、その詳細を言上されると。
 武士を上京させる事は、朝敵を追討させる為であります。朝敵がいなければ、武士また上京させるべきではありません。武士また上京させなければ、狼藉を致すべきではありません。而るに朝敵の人々は海を隔つの間、今に追討を遂げる事が出来ません。あちこち転戦中の武士、国々庄々で四度の計略が無き事、その聞こえ多くあります。仍って追討される以後、命令し直すべきの由、そのような思案はありますと雖も、近国に於いては、且つは不正を正す為、使者二人を上京させる所であります。その以前に不覚の者があるならば、ただ法皇の命令を守り、御使に相副え、計略を廻らし行なうばかりであります。従わない者が進退するならば、定めて自由の振る舞いに似たものであります。頼朝の威勢に強くなり、武士が乱暴の事、停止させるべしの計略であります。詳細は書状に乗せ、使者に持たせました。この旨を以て申し御命令されるようお願いいたします。
恐々謹言。
     三月四日           頼朝
   謹上 籐中納言殿
(注釈)
恐々謹言(きんげん)・・・手紙の末尾に用いて、敬意を表す語。

3月4日 [玉葉]
「義経が凶党を追討」
 隆職が追討の間の事を記録し送る。義経が許より上状を申すと。去る月十六日出航した。十七日阿波の国に着いた。十八日屋島に押し寄せ、凶党を追い落とした。然れども、未だ平家を伐ち取らないようだ。

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2007年1月11日 (木)

3月3日 「吾妻鏡」「義仲朝臣の妹公有り」

3月3日 「吾妻鏡」丙戌
「義仲朝臣の妹公有り」
 左馬の頭(さまのかみ)義仲朝臣(あそみ)の妹公有り。これ先日武衛(頼朝)御台所(政子)御養子の契り有り。而るに美濃(岐阜県南部)(一村御志有るの間在国)より上京し、御息女の威光に力がついて強くなり、在京するの間、悪巧みのある者ども多く以てこれに従属した。むかし棄損(きそん)の古い文書を捧げ、不知行(ふちぎょう)の所々を件の姫公に寄附するの後、またその使節と称し、官位高く権威のある家柄の庄公等を押し入って乱暴したり、不当な課税をした。この事、当時人民の愁う所である。既に関東の御遠聞に達するの間、これを乱心の女房と名づけた。且つは彼の乱暴を停止し、且つは相順う族を逮捕し進上すべきの由、今日近藤七国平、並びに在京・畿内の御家人等の許に命令を遣わされた。但し御一族の中に於いて、過度の悪巧みをする人相交るの條、世のそしりを恥なされるに依って、御文書の面に於いては乱心の由を載せられると雖も、潛かにあわれみの御志有り。関東に参向すべきの趣、内々いさめご命令されると。
(注釈)
左馬の頭(さまのかみ)・・・左馬寮の長官。
左馬寮(さまりょう)・・・馬寮(めりょう)。官馬の役所。左右がある。
朝臣(あそみ)・・・三位以上のひとの姓の下、四位の人の名の下につける敬称。
不知行(ふちぎょう)・・・知行・領地を持たないこと。

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2007年1月 9日 (火)

2月19日 「吾妻鏡」「義経屋島の内裏の向浦に到り民屋を焼き払う」 

2月18日 「吾妻鏡」壬申
「義経屋嶋に発向」
 廷尉(義経)は昨日渡部より渡海しようと欲するの処、暴風が俄に起こり、舟船が多く破損した。士卒の船等一艘として纜を解かなかった。ここに廷尉(義経)云く、朝敵の追討使は暫時逗留した。その恐れ有るべし。風波の難をかえりみるべからずと。仍って2時頃、先ず舟五艘を出した。6時頃、阿波の国椿浦に到着した(常の行程では三箇日である)。則ち百五十余騎を率い上陸した。当国の住人近藤七親家を招集し仕承と為し、屋嶋に出発した。路次桂浦に於いて、桜庭の介良遠(散位成良の弟)を攻めるの処、良遠は城から退却し行方をくらましたようだ。

2月19日 「吾妻鏡」癸酉
「義経屋島の内裏の向浦に到り民屋を焼き払う」 
 また廷尉(義経)は昨日の終夜、阿波の国(徳島県)と讃岐(香川県)との境の中山を越え、今日8時頃屋島の内裏(だいり)の向浦に到着し、牟礼高松の民屋を焼き払った。これに依って先帝(安徳天皇)は内裏を出でなされた。前の内府(宗盛)また一族等を相率い海上に浮かぶ。廷尉(赤地錦の直垂・紅下濃の鎧を着し、黒馬に駕す)、田代の冠者信綱・金子の十郎家忠・同余一近則・伊勢の三郎能盛等を相具し、なぎさに馳せ向かう。平家また船に棹(さお)さし、互いに矢石(しせき)を発つ。この間佐藤三郎兵衛の尉継信・同四郎兵衛の尉忠信・後藤兵衛の尉實基・同養子新兵衛の尉基清等、内裏並びに内府休幕以下の舎屋を焼失した。黒煙天にそびえ、白日光をさえぎる。
(注釈)
内裏(だいり)・・・天皇の居所としての御殿。
矢石(しせき)・・・矢と弩(いしゆみ)の弾石。やだま。

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2007年1月 8日 (月)

2月16日 「吾妻鏡」「義経先陣を欲す」

2月16日 「吾妻鏡」庚午
「義経先陣を欲す」
 関東の軍兵が平氏を追討する為讃岐の国(香川県)に赴任した。廷尉(ていじょう)義経は先陣として、今日18時頃、纜(ともづな)を解いた。大蔵卿泰経朝臣は彼のよそおいを見るべしと称し、昨日より廷尉義経の旅館に到る。而るに大蔵卿は諫(いさ)めて云く、泰経は兵法(へいほう)を知らずと雖も、推量のおよぶ所、大将軍たる者、未だ必ず先陣を競わないものである。先ず次将を派遣されるべきであるといえり。義経云く、殊に存念(ぞんねん)有り。先陣に於いて命を棄てようと欲すと。則ち以て出発した。尤も精兵と謂うべきか。平家は軍陣を2箇所に準備した。前の内府(宗盛)は讃岐の国(香川県)屋嶋を以て城郭と為した。新中納言知盛は九州の官兵を相具し、門司関を固めた。彦島を以て軍営に定め、追討使を相待つようだ。
(注釈)
廷尉(ていじょう)・・・検非違使で左衛門尉を兼務している者。検非違使の官職名は判官。
纜(ともづな)・・・艫(とも、船尾)にあって、船をつなぎとめる綱。
存念(ぞんねん)・・・いつも心に思っていること。

2月16日 [玉葉]
「義経の発向を制止」
 伝聞、大蔵卿泰経卿は御使として渡辺に向かう。これ義経が出発を制止させるが為と。これ京中の武士無きに依って御用心の為であるようだ。然れども敢えて承引せずと。泰経すでに公卿である。此の如き小事に依って、安易に義経が許に向かうこと、太だ見苦しと。

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2007年1月 7日 (日)

2月14日 「吾妻鏡」「船無くして粮尽きる」

2月14日 「吾妻鏡」戊辰
「船無くして粮尽きる」
 参州(範頼)日来周防の国(山口県東部)に在るの時、武衛(頼朝)は命令を遣わされて云く、土肥の二郎・梶原平三に談らしめ、九州の軍勢を召集すべし。これに就いて善く帰順の形勢を見るならば、九州に入るべし。然らずんば、九州と合戦を好むべからず。直に四国に渡り平家を攻めるべしといえり。而るに今参州(範頼)九州に進軍しようと欲し、船無くして進まず。たまたま長門の国(山口県西部・北部)に渡ると雖も、食糧が尽きるの間、また周防の国に退却した。軍士等漸く変意有りて、心を同じくしてまとまること無しの由これを歎き申された。その飛脚が今日伊豆の国に参着した。仍って今度合戦を遂げず帰京されるならば、何の面目が有ろうか。食糧を送るので堪え忍びなされ、これを相待つべし。
(中略)

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2007年1月 6日 (土)

2月5日 「吾妻鏡」「散在の武士狼藉を致す」

2月5日 「吾妻鏡」己未
「散在の武士狼藉を致す」
 典膳(てんぜん)大夫(たいふ)の中原久経・近藤七国平が使節として上京した(先々使節たりと雖も、他人相替わる。今度世の中を治めると)。これ平氏を追討するの間、事を戦時における将兵の食糧と理由を付け、散在の武士、京都付近の地や近国の所々に於いて乱暴を致すの由、諸人の苦しみや悲しみを嘆き訴えることが有り。仍って平家滅亡を相待たれずと雖も、且つは彼の乱暴を停止させる為、派遣する所である。
(中略)

(注釈)
典膳(てんぜん)・・・内膳司(ないぜんし、天皇の食事担当)の次官。
大夫(たいふ)・・・五位。たゆう。

2月13日 「吾妻鏡」丁卯
「飢饉にて粮無き乗船無き」
 今日、伊澤の五郎の書状、九州より武衛(頼朝)の御館に到着した。その文章に云く、平家追討の計略を廻らす為、長門の国(山口県西部・北部)に入ると雖も、彼の国は飢饉(ききん)によりて行軍に携行する食糧無きに依りて、猶安藝の国(広島県西部)に引退しようと欲した。また九州を攻めようと欲するの処、乗船無きの間、進み戦わざるの由と。即ち御返事に云く、食糧無きに依って長門を退くの條、只今敵に相向かわずんば、何事か有らんや。
(中略)

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2007年1月 5日 (金)

1月26日 「吾妻鏡」「周防の国の住人兵粮米を献ず。」

1月10日 甲午 [吉記]
「義経西国に発向す」
 大夫判官義経が西国に出発したようだ。

1月12日 「吾妻鏡」丙申
「粮絶え船無く」
 参州(範頼)は周防(山口県東部)より赤間関(下関)に到着した。平家を攻める為、その所より渡海しようと欲するの処、兵粮(食糧)が絶え船が無く、意外な逗留は数日に及ぶ。東国の者ども、頗る退屈の意有り。多く本国を恋う。和田の小太郎義盛が如きは、猶潛かに鎌倉に帰参しようと見せかけた。ましてや、その外の士族に於いてはなおさらである。
(中略)

1月26日 「吾妻鏡」庚戌
「豊後の国の住人八十二艘の兵船を献ず。」
 豊後の国(大分県)の住人臼杵の次郎惟隆・同弟緒方の三郎惟栄等は、参州(範頼)の命を含み、八十二艘の兵船を献上した。
「周防の国の住人兵粮米を献ず。」
また周防(山口県東部)の国の住人宇佐郡の木上七遠隆は兵粮米を献上した。
これに依って参州は纜(ともづな)を解き、豊後の国に渡るようだ。
(中略)

(注釈)
纜(ともづな)・・・艫(とも、船尾)にあって、船をつなぎとめる綱。

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2007年1月 4日 (木)

1月9日 「光輔宅に群盗乱入す」

1月8日 壬辰 陰晴不定 [吉記]
「義経四国に向かうべき」
 大府卿が法皇御所に於いて示して云く、廷尉(ていじょう)義経四国に向かうべきの由申す所である。而るに自身は京中に滞在すべきか、ただ家来を差し遣わすべきかの由、申される人有り。且つはこれ忠清法師(平氏の家人、上総の介)が在京中の由が風聞した。定めて凶心を挿むかと。二三月に及べば兵粮は尽きたり。範頼もし引き帰すならば、管国の武士等猶平家に従属し、いよいよ大事に及ぶかの由、義経が申す所である。予申して云く、義経が申し状、尤もその理由が有る。大将軍は下向せず、家来等を差し遣わすの間、諸国の出費有りと雖も、追討の実は無きか。範頼下向の後この指図に及ぶか。然れば今春、義経が出発し尤も勝敗を決すべきか。忠清法師の事に於いては、指図に及ばざるか。但しその身を逮捕し進上すべきの由、尤も宣下されるべきか。義経が下向すと雖も、猶然るべきの者どもは、差し分け京都に駐在させるべきの由、尤も指図合わされべきである。御祈祷は微々、不便極まり無き事である。その用途無きと雖も、尤も諸社・諸寺に命令されるべきである。三種の神器の事、よくよく計り事を廻らすべきの由これを申す。
(注釈)
廷尉(ていじょう)・・・検非違使で左衛門尉を兼務している者。検非違使の官職名は判官。

1月9日 壬辰 陰晴不定 [玉葉]
「光輔宅に群盗乱入す」
今日隆職が来た。前に呼び、雑事を命令した。去夜、大内記光輔の家に群盗が乱入した。父長光入道も同居、同じくこの災いに遭う。所望により綿衣一領、小袖一領これを与えた。

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2007年1月 3日 (水)

1185年 (元暦2年)1月6日 「吾妻鏡」「船無く粮絶え、船を用意し兵粮米を送る」

1185年 (元暦2年、8月14日改元 文治元年 乙巳)

1月6日 「吾妻鏡」
「船無く粮絶え、船を用意し兵粮米を送る」
「乗馬を所望、馬は送らぬ」
 平家を追討する為、九州に滞在する東軍の将兵等、船が無く食糧が絶えて合戦の算段を失うの由、その聞こえ有るの間、日来指図有り。船を用意し兵粮米を送るべきの旨、関東の国に命令される所である。その趣を以て、九州に命令を遣わそうと欲するの処、参河の守範頼(去年九月二日出京し九州に赴く)去年十一月十四日の飛脚、今日参着した。食糧が欠乏するの間、将兵等は一致団結せず。各々本国を恋い、過半は逃れ帰ろうと欲すようだ。その外九州の各種状況を申された。また乗馬を所望されるようだ。この申し状に就いて、いささか御不審を散ずと雖も、猶雑色の定遠・信方・宗光等を下し遣わされた。但し定遠・信方は在京した。京都より同道すべきの旨、宗光に命令含められた。宗光は委細の御文書を所持した。これは九州に於いて指図有るべきの條々である。その書状に云く、十一月十四日の御文書、正月六日に到来した。今日これより飛脚を立てようとしている程に、この飛脚が到来し、申し遣はしたるむね詳細に承りました。筑紫の事、なかなか従がわないとこそ思う事にていなさるべし。物騒がしからずして、よくよく静かに指図なさるべし。構えて構えて国の者共に憎まれずしているように。馬の事、実にそうあるべき事にてはあれども、平家は常に京都をうかがふ事にてあれば、もしおのづから道にて押し取られなどされる事は、聞く耳も見苦しき事にてありますので、送りません。又内藤六が周防の軍勢を以て志を妨げているのは以ての外の事である。
(中略)

「九国の御家人への御下文」
  また御下文一通、九国の御家人の中に遣わさる。その状に云く、
下す 
鎮西九国の住人等
 早く鎌倉殿の御家人として、且つは本所を安堵し、且つは参河の守の下知に随い、同心合力し朝敵平家を追討すべき事
 右彼の国々の者どもに命令する、朝敵を追討すべきの由、法皇の命令が出た。仍って鎌倉殿の御代官が両人上京するの処、参河の守は九国に向かい、九郎判官を以て四国に派遣する所である。ここに平家、たとえ四国に在りと雖も、九国に着くと雖も、各々且つは法皇の命令の旨を守り、且つは参河の守の下知に随い、同心合力せしめ、件の賊徒を追討すべきということである。九国の官兵、宜しく承知し、不日に勲功の賞を全うすべし。
以て下す。
     元暦二年正月日        前の右兵衛の佐源朝臣

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2007年1月 2日 (火)

12月7日「院御所放火近辺に強盗入るも沙汰なし」

12月7日 晴れ
「院御所放火近辺に強盗入るも沙汰なし」
 近日は群盗の恐れ連日絶え絶え間なし。去る日は法皇御所に放火事件(即ち打ち消した)が有った。又近辺1・2町の中、強盗が入り数人に傷害を与えた。しかるに敢えて其の指図は無いようだ。よって泰経(大蔵卿、高階)卿を介して上申書を差し上げた。親しく無い身で訴訟などの嘆願書を差し上げる事など出来ないと雖も、納めずの条、全く恥じに非ず。よって忠心より、嘆願書を差し上げる許りである。其の書状は此の如し。

「兼実款状(かんじょう、嘆願書)」
「放火群盗等をおしとどめてやめさせるべき事」
 右天下騒乱以後、天下静かならざるの間、全国の海路と陸路は塞がり、調庸祖の税の貢ぎすでに空し。住むに適さ無い境、災難は猶免れず、或いはひでりの愁いに依り、悉く亡損の地と為した。或るいは武士の妨げを恐れ、敢えて子のごとく来たる民無し、之に加え山門の岩のほら穴が未だ安全のすみかを聞かず。神社内や寺の周辺も併せて合戦の場と為した。此の如しの間、身分の上下無く忽ち安堵の計を失う、僧と俗人も各危困の嘆きを懐く。国土の衰え疲れる事、年を経て増すと雖も、朝家の大工事がこれに因りて減ずること無し。富者は倉庫の蓄えを減らし、以て僅かに身命を延長する。貧者は衣食無く以て飢え寒さ忍び難し。何に況んや近ごろ以来、放火間々起こり、盗賊の事が頗りに聞える。公卿殿上人の居所を遠慮無く、京都市内城外の舎屋を選ばず、連夜の災いは日を追って絶えること無し。ただ資材を奪ふのみに非ず、殆ど又死傷に及ぶ。万人の歎き只此の事に在るのみ。逆党の征伐に於いて、それぞれ計略をめぐらすと雖も、盗賊の厳重な制圧に至りては、速やかに法による刑罰を行うべきであります。争乱を鎮める政治は、近きより遠きに及ぶ故であります。早く役人並びに武士等に命令し、確かに押し止めさせるべきであります。其の間の詳細については宜しく役人の者どもに相談し、無為の計略を廻らされるべきであります。此の指図がもし遅引すれ、人家忽ち滅亡し、庶民いよいよ度を失うものであります。それ天皇法皇は臣下の元首であります。人民の嘆き悲しむ事、法皇の胸の内はどうして傷まないのだろうか。相談することを待たず。進みて申し上げの条、恐れかしこまり複雑で多岐にわたっており、恐ろしくて、おののきふるえ感謝し難し。然れども忠心を持つにより、天子の徳を驚かせる許りであります。開き表して見せることを計られるべき状はこのようなものであります。
        十二月七日        在判
    大蔵卿殿
夜に入り泰経(大蔵卿、高階)の返書が到来した。速く申し上げるべしと。

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2007年1月 1日 (月)

11月2日「頼朝に讒言あり」

11月2日 晴れ
「頼朝に讒言あり」
今日源中納言雅頼卿が来た。世上の事を談じた。その次に云う、ある小僧(東国に通達する者と)語りて云う、摂政(基通)の辺りの人、兼実の事を頼朝に讒言(ざんげん)した。これにより先日奏聞の大事、黙止したようだ。兼実はかくの如きを聞く、悲しむべし、悲しむべし。推挙は専ら好む所ではない。讒言何ぞ痛むべきや。只家のゆくすえ、国の大事、悲しみて余りあるものか。
(注釈)
讒言(ざんげん)・・・人をおとしいれるため、事実をまげ、またいつわって、その人を悪くいうこと。

11月27日 
「頼朝、兼実に甘心」
 實厳阿闍梨が来た。密に語りて云く、少納言入道(相者、俗名宗綱、三條宮近臣)が去る夜関東より上京した。語り言うの次いでに申して云く、頼朝云く、右府(兼実)殿の御事を京下りの者どもに問う処、人別にその美を称し、未だその悪を聞かず。爰に国家の重臣たるを知ると。その気配を見るに、深く感心の様子有り。且つはこれ殊に音信を通せざるの故のようだ。
(注釈)
阿闍梨(あじゃり)・・・僧位の一つ。

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