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2006年12月16日 (土)

六.四 「風聞・伝聞は事実か」

六.四 「風聞・伝聞は事実か」

 兼実は平家その他の武家に反感を抱いていた。当然である。兼実は天皇の後継問題に平家や義仲が口出しするのが不愉快だった。これは現代でも同じでガードマンに雇った男が家の跡継ぎに特定の者を推奨するなどの口出しをしたら不愉快である。
 情報を伝える側も義仲の悪評を大袈裟に伝える方が兼実が聞き入れる。良い評判を伝えてもいい顔をしない。それなら悪評のみ伝えよう。捏造しても話そうとなる。これは現代でもある話しで、イラクが核兵器を保有している確かな情報があるとのことで、イラクに進攻したが、実際には核兵器は無かった。
 このように情報は集める側が公平でないと偏った情報が集まり易い。なぜか頼朝の上洛を期待しているので、頼朝上洛すの風聞、伝聞、或人云うは多い。実際の上洛まで何回あるか。数えてみると、8回以上。10回。やはり伝聞、風聞の10分の9は誤りか。
 兼実は当時右大臣であり、後には太政大臣も務めた人物である。その人の日記だから間違いは無いと誤解している小説家・歴史解説者は多い。「玉葉」を頭から信じて、記述は真実と思い込んでいる人が多い。朝廷の行事、儀式の記述は間違い無いと思うが、「玉葉」の風聞・伝聞・或人云うは疑問視すべきである。火の無い所に煙りは立たぬという言葉もあるが、風聞・伝聞は最初の事実の見聞からいかに変遷するか、簡単な「伝言」ゲームや「伝言」実験でも良く知られている事である。兼実の日記のみで決めつける事は出来ない。兼実がそのような風聞を聞いたのは事実かもしれない。しかしその風聞の元の事実があったかどうかは定かでは無い。「玉葉に見られる表現の大袈裟なことは大変なものである」と堀田善衛氏は「定家明月記抄」で述べている。

六.五 義経が検非違使でも放火強盗事件が多発

 翌年、範頼軍が中国地方で苦戦し、義経が検非違使(警察官兼裁判官)として京都にいるころ、放火強盗事件が多発する。「玉葉」元歴元年十二月七日
「院御所放火近辺に強盗入るも沙汰なし」。とにかくこの時代は全国的な内乱状態で、ほぼ全員が武器を持ち、いつ強盗に変身しても不思議ではない。
 兼実は取り締まりを申し込むがその時の上申書は義仲軍が乱暴狼藉したと勘違いした記述と類似している。贔屓の頼朝の関係者への上申書であるから、かなり穏やかに書いてあるが、京都内外の治安が悪いと嘆いている。中身は義仲在京中の八月から九月に記述したものと酷似している。義仲には反感を抱いているからかなり厳しい表現である。比較的治安が良いと思われていた義経在京中も、義仲在京中もあまり違いが無いのか。義仲の在京中に治安が悪いと嘆いたのもこの程度か。しかし、義経軍も平家追討の準備に忙しく、翌月には群盗事件が発生した。一一八五年 (元暦二年)一月九日[玉葉]「光輔宅に群盗乱入す」。

六.六 「方丈記の記述」

 「方丈記」はこの時代に京都市内で生きた「鴨長明(一一五一年生、一二二一年没)」が晩年に記述したものである。安元の大火(一一七七年)、治承の旋風(一一八〇年)、養和の飢饉(一一八一年)、元歴の大地震(一一八五年)の惨状を克明に記述している。その彼が平家軍や義仲軍の行動の記述が無い。慈円と同じく後年に冷静に検討すれば、前述のような災害に比べ、記述するほどの事件でもなかった。

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