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2006年12月15日 (金)

六.「風聞と実態の違い」

六.「風聞と実態の違い」

六.一 兼実は病弱で神経過敏で大袈裟

 「玉葉」の著者の兼実は右大臣ではあるが法皇や平家の権力中枢から遠ざけられている。いつか返り咲きを期待し、宮中や市内外から各種情報を集め記録している。親類縁者をはじめ、平家関係者からも情報を集める。但し病弱のせいか伝聞・風聞・或人云うが多い。伝聞・風聞であるから、真偽明らかではない事も、後日に真偽の確認のため記録するとしている(治承五年三月十七日参照)。風聞は大袈裟だから注意すべしと云いながら、風聞等を実によく記録している。風聞を後日訂正している場合もあるが、修正してない場合も多い。特に義仲軍、頼朝軍の入京の風聞は何回も出て来るが殆ど修正していない。記述した事が真実とは限らない。
 その風聞の程度は約十分の一に割り引いて受け取る必要がある。その理由は本人も自覚しているように「有名無実の風聞かくの如し」と軍勢の数の風聞と実数の違いである(寿永二年七月二十一日参照)。かなり神経過敏で、地震、雷鳴、大雨、大風などの天変地異にも驚き、官軍(平家軍)が大敗したとか、南都(奈良)の七大寺が焼き討ちされた、熊野の那智が荒れた、自分の意見が採用されない、除目(人事異動)が気に入らないときなど、得意の「可悲」(悲しむべし)、天下・王法・仏法・我が朝「滅亡」・「滅尽」、「未曾有」(みぞう)、「不能左右」(左右する能わず)、「可弾指」(弾指すべし)を連発し大袈裟である。又記録漏れもある

六.二 「有名無実の風聞かくの如し」「其の勢僅か千騎」

「玉葉」の寿永二年七月二十一日に、「追討使兼実家の傍を経て発向す」、「其の勢僅か千騎」「午の刻(十二時)追討使が発向する。その勢千八十騎と、多分確かである、日来、世の推しはかる所七、八千騎及び万騎と、その勢在るを見るに、わずか千騎、有名無実の風聞、これをもつて察すべし」と記述し、平家の追討軍の軍勢が家の近くを通ったので数えさせたら千八十騎だった。これを普通世間では七・八千騎または一万騎と称している。兼実自身も「風聞の大袈裟ぶり」を確認している。「風聞」の程度は十分の一に割り引いて受け取るべし。
 もっとも当時の遠征軍の編成方式は天皇の命令書である「宣旨」を旗印として、大将軍とその中心部隊が京都を出発し、進軍途中で、あちこちの将兵などが参加する「駆り武者方式」だったので、京都を出発したときの人数の数倍以上になるようである。初期の平家軍が順調な時期は十倍くらいになったかもしれない。「吉記」の同日の記事では三千騎と記録する。平家物語中の合戦の人数と玉葉の記事を比較するとほぼ十分の一となっている事が多い。平家物語で軍勢五万とある場合、実数は五千と見るのが良いようである。ただし、騎馬武者一騎とは、予備の馬一・二頭、従者一・二人が付くのが普通である。

六.三 情報提供者の信頼度

 「玉葉」では「風聞」、「伝聞」、「或人云う」、「人伝」が多い。(「風聞」約百七十回、「伝聞」約三百八十回、「或人云う」約二百三十回、「人伝」約百回・・・約四十年間の回数)この「或人」は誰なのか、信用に足るのか。後日検証すると誤りも多い。義仲軍等乱暴の記述についても「或人云う」であり、兼実は病弱のため自分の眼では見ていない。多分、下級の役人か京都の庶民の何人かが市内外の情報を集め報告していたようである。自分の仲間の不正は報告するはずがなく、信憑性に欠ける。風聞・伝聞・その他を報告する者も大袈裟にしないと意味が無い。「昨今売買の便を失う」と言わせているから商売人か。確実な情報は必ず情報提供者の名前を書いている。前述の如く兼実自身も「有名無実の風聞かくの如し」と「風聞の大袈裟ぶり」を確認している。「風聞」の程度は十分の一に割り引いて受け取るべしと。事件の数は十分の一に、被害の程度はやはり十分の一に割り引いて処理すべきである。兼実は平家など武家には反感を持っているが、何故か頼朝には期待している。兼実が義仲に反感を持っているとわかれば、義仲軍の悪評が集まる。一寸した事件も過大に報告され、記録される。その悪評記事も九月五日を最後に止まる。

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