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2006年12月14日 (木)

五.乱暴狼藉の真相・・・とんだ濡れ衣

五.乱暴狼藉の真相・・・とんだ濡れ衣

五.一 追捕(ついほ、ついぶく)

 当時の乱暴狼藉とは「追捕」による食料・兵糧米の調達のときのいざこざである。平家軍に始まった路次追捕の朝廷の許可について玉葉に記述は無いが、法皇以下の朝廷の暗黙の了承は出ていたと思われる。その理由は「一ノ谷合戦」後に頼朝の申請により、この路次追捕を取り消す宣旨(せんじ)が寿永三年二月に記述されている。つまり平家軍、義仲軍、頼朝軍ともに路次追捕(による乱暴)をしていたことになる。
 この追捕(ついふく)が官軍となった義仲軍にも引き継がれた。平家軍に参加し、徴兵徴発された将兵の大部分は義仲軍に投降したり、はやばやと逃げ帰った京都近辺の将兵なども義仲軍と同時に源氏軍として入京した。また大部分は後に義仲軍不利となると頼朝軍に鞍替えした。当時の不安定な政治情勢ではそれぞれが家系の存続のため右往左往していた。それらの将兵の食糧の調達は平家軍と同様に官軍としての追捕(つまり略奪)によるものであった。義仲軍は源平盛衰記によれば、百斉寺から米五百石の寄付を受けたようである。しかし全軍に支給するには不足している。木曽軍五万騎、五万人とすると一人当たり一升つまり二日分しかない。仮に実数五千人としても一ヶ月分もない。義仲軍は入京後は法皇から兵粮米の支給を期待していたようだ。法皇側も議論はしたが、実際の支給は無かったようである。とすると京都周辺で追捕による食料調達をしたと思われる。この時期の武士達の食糧調達は「本人持参」や「寄付」以外には、この「路次追捕」と「諸国の荘園等からの兵粮米」などの追捕による。頼朝が後に発令させた宣旨から判断すると、義仲は「路次追捕」は取り締まったようだが、「諸国の荘園等からの兵粮米」は継続したようである。荘園を保有している法皇・宮家・公家・神社・仏寺からは追捕徴集したかもしれない。入京時の旧暦七月二十八日(新歴八月二十四日)は米の収穫前で特に食料が不足していた。その後新米の収穫が始まり兼実の風聞でも一ヶ月ほど(旧暦九月五日、新暦十月一日)で追捕は終了したようだ。食料の確保が出来れば治安の回復は容易である。その後上京した義経軍は京都市内では遠慮したが、平家側とみなした公家や京都以外では追捕・乱暴した。二月二十三日「玉葉」に「路次追捕」と「諸国の荘園等からの兵粮米」を取り消す宣旨(せんじ)が記述される。ただし、「武士押妨停止の宣旨」については、院宣(法皇の命令書)があれば許可された。頼朝軍はそれ以後路次追捕を完全に停止したかというと、そうはいかず兵粮米不足に悩み追捕を続けたようである。「吾妻鏡」元暦二年二月五日、四月十五日に追捕・狼藉を非難する記述がある。

五.二 「平家物語」の木曽義仲軍の乱暴説は捏造である
        では真犯人は元平家軍将兵、僧兵、一般市民である

 「愚管抄」によれば、義仲軍等の乱暴狼藉の記述は無く、義仲軍等の入京後は「かくてひしめきてありける程に」である。「押し合ってごたごたしているうちに」である。何も無く無風であったわけではない。大混乱の中へ進駐したのである。当時、京都市内の民家は公卿の家も含め、官軍平氏の兵舎として徴用されていた。なお兼実は右大臣であるから、平家や義仲は遠慮したが、義経軍は兼実の庵を徴用したようである。
 頼朝、義仲の反乱を始め各地で反乱が起き、平家は追討軍を発するが、その軍の集結地として、京都市内の徴用された民家などが使用された。出発する前の平家軍による追捕などの混乱があった。さらに僧兵、市民による略奪の混乱中であった。それを義仲軍は一応制圧したようである。しかし、六波羅の放火略奪、市内の市民等の略奪、落武者狩の惨状に比べれば、平家軍、義仲軍の追捕によるごたごたなどは慈円から見れば問題ではないようだ。
 とにかくこの時代は全国的な内乱状態で、市内は強盗、群盗、放火など平家軍、源氏軍、僧兵、公卿の従者、庶民の乱暴が横行した時代である。「勝てば官軍、負ければ賊軍」の時代である。当時の権力者、鎌倉の頼朝や京都の朝廷に逆らう事は困難である。それらをまとめて義仲軍のせいにしたようである。「平家物語」の「創作・誇張」である。「玉葉」による風聞の「大袈裟」な表現によるものである。「平家物語」の木曽義仲軍の乱暴説は捏造である。では真犯人はというと元平家軍(後に源氏軍)将兵、僧兵、一般市民である。彼らの前で彼らが乱暴狼藉を働いた場面は語れない。

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