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2006年12月 9日 (土)

3月1日 「吾妻鏡」「平家追討の御下文(くだしぶみ)」

3月1日 雨
「重衡源平共に召仕わる事を望むも頼朝承諾すべからず」
蔵人左衛門権佐定長が昨日の呼び出しにより来た。語りて云く、重衡が遣わす所の使者(左衛門の尉重国)が帰参した。また消息の返事有り。申状は大略和親をこいねがうの趣である。しょせん源平相並び召し仕わるべきの由か。この條頼朝は承諾すべきなし。然れば治め難き事である。但しこの上は別の御使来たるの時に於いて、詳細を奉り、重ねて所存を申すべしと。

3月1日 「吾妻鏡」
「平家追討の御下文(くだしぶみ)」
 武衛(頼朝)は御下文を九州九国の住人等の中に遣わした。平家を追討すべきの趣である。凡そ諸国の軍兵を召し集めると雖も、彼の国々は平家に味方するに依って、未だ降参せざるが故である。件の御下文に云く、
   下す 九州九国の住人等
 早く鎌倉殿の御家人として、且つは本の如く安堵し、且つは各々[彼の国の官兵等]を引率し、平家の賊徒を追討すべき事
 右、彼の国の輩皆悉く引率し、朝敵を追討すべきの由、院宣(いんぜん)を奉り仰せ下す所である。そもそも平家謀叛の間、去年追討使、東海道は遠江の守(とおとおみのかみ)義定朝臣、北陸道は左馬の頭(さまのすけ)義仲朝臣、鎌倉殿の御代官として、両人上京するの処である。兼ねて又義仲朝臣平家と和議を為し、謀反の條、意外の次第である。仍って院宣の上、私の処罰を加え、彼の義仲を追討せしめた。然れども平家は四国の辺をうろうろし、ややもすれば近国の港や船着き場に出で浮かび、人民の物を奪い取る。乱暴は絶えざるものである。今に於いては、陸地と云い海上と云い、官兵を遣わし、まもなく追討せしむべしといえり。九州九国の住人等、且つは本の如く安堵し、且つは皆彼の国の官兵等を引率し、宜しく承知すべし。まもなく勲功の賞を完全に果たすべし。以て下す。
     壽永三年三月一日       前の右兵衛の佐源頼朝
(注釈)
蔵人(くらんど)・・・くろうど。蔵人所(宮中の雑事)の職員。
左衛門(さえもん)・・・左の衛門府(えもんふ、皇居の護衛)
権(ごん)・・・定員外の権(かり)の地位
佐(すけ)・・・兵衛府、衛門府の次官。
尉(じょう)・・・次官(すけ)の下。
重衡(しげひら)・・・平清盛の五男。
下文(くだしぶみ)・・・上位者からその管轄下の役所や人民などに下した公文書。
右兵衛の佐・・・右の兵衛府の次官。

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