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2006年12月18日 (月)

七.「食料の調達」

Photo七.「食料の調達」

七.一 寄付・・・反乱軍の食料の調達

 木曽義仲軍などは最初は朝廷から見れば反乱軍として出発する。食料の調達はどうするか。当時の土地の支配は国有地と荘園という貴族や神社仏寺の私有地があった。まず官庁や政府軍の食料を略奪するか、神社仏寺または地方の豪族に寄付を請うしかない。また配下となった武士豪族から食料は入手出来る。信濃、北陸地方は食料調達は容易であったようである。源平盛衰記でも、延暦寺と対峙したとき、百斉寺から米五百石の寄付を受けたと記述する。 
 まず出発するとき、何日分の米が持参出来るか。現在の軍隊のような食料補給部隊は無い。本人持参が原則である。不足したらどうするか。寄付に頼るか、追捕(略奪)しか無い。当時は大軍の遠征の兵糧米は数ヶ月分持参し、不足分は略奪方式が普通であり、不可能となつたら、やむをえず停戦し本国へ帰還した。
 兵士は一日米何合必要とするか。通常米一石が一人一年分と計算したようであるが、これは一日三合弱となり、宮沢賢治の詩にあるように一日四合の玄米を食すとすれば、一.五石必要である。若い兵士なら一日五合以上必要である。つまり十日で五升。三十日で一.五斗、二ヶ月で三斗必要である。昔は米俵を使用した。米俵一表には約四斗が入り、約六十キログラムとなり、通常の大人なら軽々と担いだようである。米俵一俵で一人約二ないし三ヶ月持つことになる。米以外の食糧その他も荷物となる。これを牛か馬で運ぶことになる。一人一頭は必要かもしれない。五万騎の軍勢ということは、全員が騎乗するかは不明だが五万人と五万頭の馬ということになる。実際に武器を手にして戦う戦闘員以外に馬の世話をしたり、食糧の調達をする非戦闘要員が必要である。さらに現在の工兵隊の働きをする人夫も必要である。
 義仲軍も四月に信濃や越後を出発してから当然最初の米は無くなっているから、どこかで寄付を受けたり、強制調達して進軍したと思われる。義仲直轄軍は入京前に百斉寺から寄付を受け、北陸からも少しは補給があったかもしれない。しかし各地から乱入して義仲軍に合流した数倍以上の軍勢の分には不足したはずである。京都に入る前、比叡山延暦寺で法皇、公家と会見した時、兵粮米の調達について追捕を認める旨の指示があつたと思われる。兼実は義仲軍は追捕をしていると非難しているが、法皇以下他の公家は何ら非難せず、やむなしと黙認している。多分慈円も。

七.二 追捕・・・官軍の食料の調達

 現代の軍隊の遠征軍は補給部隊が本国から武器・弾薬・食料を補給するのが原則である。アメリカ軍は補給を重視し戦闘員と非戦闘員(補給担当)の比率が五対五といわれている。日本の自衛隊は旧日本軍と同じく補給を重視せず九対一のようである。
 当時は遠征軍に補給部隊など無く、食料は本人持参が原則である。「寄付」も奨励したようである。天皇の命令書たる「宣旨」によると功ある者には賞を与えるとあり、官位や官職を与えようとした。平家の北国追討軍の遠征から、状況が変化した。不足したら現地調達(追捕、強制取立、略奪)が当たり前になっていた。補給部隊が注目されるようになったのは、後の戦国時代でも秀吉の小田原城攻めの頃である。小田原の北条氏は籠城策をとった。これは以前越後の上杉謙信軍に攻撃されたとき、城下付近の食糧を城内に集め、上杉軍が略奪出来ないようにしたので、上杉軍は持参の食糧が無くなると撤退した。同様に籠城戦が有利と判断したが、秀吉軍は船などにより食糧の補給を続け、結局小田原の籠城策は失敗し落城した。
 治承五年二月八日には京中の諸家を左右京職官人・官吏・検非違使等が計る。備蓄米とか家の広さを調べ、兵士の食料、宿舎に徴用したようである。さらに、頼朝が悪法と非難した院宣「諸国からの兵粮米の徴収」が発令される。
 兵粮米不足であるから征伐を休むよう議論もしている。しかし、無理矢理兵粮米をかき集め路次追捕をしながら追討軍は進軍した。兼実はこの追捕を認める会議に参加出来ず、その宣旨の記述が無いが、この追捕を取り消す宣旨が出ている事(寿永三年二月二十三日)から、追捕、路次追捕は当時としては、合法だったようである。追捕される側からすれば、酷い命令ではある。京都から撤退した平家軍は、相変わらず官軍と称し、同様の追捕による兵粮調達をした。新たに官軍となった義仲軍も鎌倉軍も同様である。兼実は平家軍・義仲軍が京内外で追捕を行ない、どのような結果になるか知ったようである。そらみろという口調で或人に云わせて記述している。責任は法皇にあるとも言っている。
 路次追捕(現地略奪)は平家軍が始めた。進軍途中で参加した将兵は平家軍が負けたので、義仲軍に投降し、従軍した。当然平家軍と同様な調達方法だった。さらに彼らは後に義仲軍が敗色濃厚となると頼朝軍に鞍替えした。当時の武士の一般的傾向である。家系の継続のため、どちらに付くのが有利か不明の場合は、親子、兄弟で敵味方に分かれた。当然、追捕を続けた。
 義仲直轄軍は略奪はしなかったかもしれない。しかし、元平家軍に従い、後に投降し義仲軍に参加した将兵は追捕(略奪方式)が当然と考えていた。これは頼朝軍も同様で、頼朝軍に参加した将兵は元は平家軍、義仲軍に参加したものも多く、やはり追捕(略奪方式)が当然と考えていた。頼朝が略奪方式を禁止する命令を出してもなかなか止まなかった。略奪(路次追捕)の実行者は平家軍に従軍し、義仲軍に投降し、頼朝軍に鞍替えした将兵である。おそらく他の将兵もそれを真似したようである。愚管抄(巻第五)より左大臣範季(のりすゑ)の「東国武士は夫(〈ふ〉)までも弓箭(ゆみや)にたづさいて候へば」から推定すると、平家軍、源氏軍ともに本来は非戦闘員たる人夫がいたことを示す。人夫は多分、武器・兵粮の輸送任務のために徴発された農民などである。その他工兵担当の木こり、大工職なども徴発されたと思われる。これらの人夫なども食糧の追捕(略奪)を担当したかもしれない。

七.三 「腹が減ってはいくさは出来ぬ」

 頼朝は「一の谷合戦」以後、この「路次追捕」のような兵粮米調達と全国への「兵粮米」徴収の禁止の宣旨を出させ通達したが、そのため源氏の現地軍は兵粮の調達に苦労し、「一の谷合戦」以後平家追討は遅れた。まさに「腹が減ってはいくさは出来ぬ」のであり、度々の現地軍からの兵粮米不足の要請に頼朝が応じ、後方からの補給や義経の参戦もあり、ようやく平家追討が終わる。また平家滅亡後、義経以下が頼朝に無断で法皇より官位を受けたことを非難する文書にもかれら将兵が略奪などをしたとついでに非難している。しかし頼朝は約一年半後の文治元年十一月二十八日、新たに全国一律の五パーセントの兵粮米を割り当てた。旧日本軍が各地で略奪暴行した例が報告されるが、やはり食料の補給が不充分なため、現地軍としては現地調達と称して略奪せざるを得ない。
 「平家物語」にも各種あり、平家軍・木曽義仲軍の追捕乱暴は共通に記述されているが鎌倉軍の追捕乱暴の記述は「平家物語・延慶本」のみである。梶原景時の軍勢が勝尾寺を追捕し放火する場面である。当時鎌倉の悪口は書きにくいはずだが、延慶本が記述されたころは、梶原景時は追放された時期でもあり、「平家物語・延慶本」には義経軍は宇治川の合戦のとき、川端の家三百軒に放火して焼き払ったので、逃げ遅れて隠れていた女子供、老人、病人などが焼け死んだと記述されている。
 当時の遠征軍の武士の食糧調達はこの「路次追捕」と「諸国の荘園等からの兵粮米の徴収」による。頼朝が発令させた宣旨の文面から推理し判断すると、義仲軍は「路次追捕」は取り締まったようだが、「諸国の荘園等からの兵粮米の徴収」は継続したようである。つまり、義仲軍は「武士達の自由横領」つまり路次追捕の禁止のみはつとめたが、「公田庄園への兵粮米の徴収」は継続したようである。つまり弱者であり貧者たる庶民に被害の及ぶ路次追捕(略奪)は禁止し、強者であり富者たる法皇、宮家、公家、寺社、諸国荘園等のみから兵粮米の徴収をしていたことになる。義仲は弱者・貧者の味方である。
 頼朝は「諸国の荘園等からの兵粮米徴収」は悪法なので禁止と言いながらも、後日、再びより強固な兵粮米の徴収を始めている。ここで注目すべきは、頼朝は路次追捕が悪いとは言っていない。法皇の院宣が無いのがいけない。路次追捕についても現場指揮官の判断でやるな、必要な場合は頼朝に申請し、頼朝が法皇に申請して院宣(法皇の命令書)を頂いてから実施せよと命令している。ここで奇妙な事を指摘すると、「玉葉」には「宗盛追討宣旨」「源義仲党類追討宣旨」「武士押妨停止の宣旨」「公田庄園への兵粮米を徴集停止の宣旨」の記述があるが、「吾妻鏡」には「武士押妨停止の宣旨」のみ記述する。これは単なる記述漏れか、すでに平家や義仲の追討は既定方針なので記述しないのか。「公田庄園への兵粮米を徴集停止の宣旨」は無視したのか。
 いずれにしても広く普及している語り物系の「平家物語」における義仲軍のみの庶民に対する乱暴狼藉は捏造である。「平家物語・延慶本」に記述する平家軍や鎌倉軍の路次追捕による乱暴狼藉を義仲軍のみに編集している。平家軍の乱暴狼藉の場面は短縮し、鎌倉軍の乱暴狼藉は削除している。さらに義仲軍入京前の京都市民や僧兵の略奪の場面は記述していない。

まとめ

 木曽義仲軍と同時に入京した源氏軍の乱暴狼藉は、当時の食糧調達のための追捕という朝廷公認の軍事行動の一部であり、民間人から見れば乱暴な行為であるが、当時の平家軍も鎌倉軍も同様な追捕をしていた。その他、警備の空白や混乱に乗じて僧兵、一般市民も略奪に参加していた。平家物語の語り物としては、琵琶法師は彼らの前で彼らが乱暴狼藉を働いた場面は語れない。「勝てば官軍、負ければ賊軍」の時代である。当時の権力者や聴衆に不都合な部分は削除された。そのため敗者となった木曽義仲軍の乱暴のみが強調された。しかし、平家物語・延慶本や愚管抄には事実の記録が残っていた。「平家物語」に基づく木曽義仲軍の乱暴説は捏造である。では真犯人はというと元平家軍(後に源氏軍)将兵、僧兵、一般市民である。また「平家物語」では法住寺合戦の前に義仲軍が乱暴狼藉を働いたり治安が悪化したと記述するが、「玉葉」「愚管抄」にそのような記述は無い。

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