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2006年12月13日 (水)

四.「愚管抄」に見る乱暴狼藉の記述

四.「愚管抄」に見る乱暴狼藉の記述(愚管抄巻第五より)

四.一 「ものとりの略奪」と「たがいについぶく」

 慈円の著書「愚管抄」には、義仲軍の乱暴狼藉の記述は無く、義仲軍入京前、平家軍が六波羅の屋敷などに火を付けて京都からの退却の時、「京中の物とりと名付たる者、火の中へあらそい入りて物とりけり。」と記述し、火事場泥棒が発生したようだ。法皇・貴族が比叡山に退避し、京都の権力・警備が空白になった時、「そのせつな京中はたがいについぶくをして物もなくなりぬ」と記述する。平家物語、玉葉、吉記にも平家軍が京都を撤退するとき、六波羅の屋敷を焼き払った記述はある。しかし「ものとりが争い入る」とか「たがいについぶくした」などの混乱の記述は見あたらない。「京中はたがいについぶく」この場合のたがいは誰と誰の組み合わせか、単純には市民同士だが、落ち行く平家軍に市民が襲いかかり略奪した、平家軍が民家などから略奪しながら退却したというように、平家軍と市民ではないだろうか。いわゆる「落武者狩」と追捕か。いずれにしても美しい話しではない。最近ではイラクの首都に米軍が進攻し、フセイン軍が撤退した時や、被災地の治安が悪い時など、一般市民が略奪に走るのを見ると、人間の心理行動は万国共通のようである。
 さらに、慈円の「愚管抄」では「法住寺合戦」も詳細に記述している。「愚管抄」では政変とか合戦の記述がメインであり、天変地異や、火事、放火、強盗、群盗のような事件の記述は非常に少ない。その慈円が義仲入京前の京都市内の混乱「ものとりの略奪」や市民の「たがいについぶく」を記述しているのは、よほど印象に残っているのだろう。このような人物が、「玉葉」に記述するような「義仲軍等の乱暴狼藉」を見逃すだろうか。兼実は弟の慈円の面倒をよくみており、当時慈円は法性寺座主であり、七月二十五日には行動を共にしている(玉葉の寿永二年七月二十五日参照)。多分、九条兼実の風聞では混乱が約一カ月続いたようである。しかし、慈円から見れば、義仲入京前の平家その他僧兵や一般市民の略奪の混乱、法住寺合戦に比べれば、記述するほどの事件でも無く、武士団の追捕は従前の平家軍と同様の食料調達のための当然の軍事活動とみなしたようである。

四.二 「火事場泥棒」と「落武者狩」か

 「平家物語」は琵琶法師による一般市民などへの語り物として広まった。そこで慈円の記述するような平家が都落ちするとき、京中の物とりが集まって物とりした(火事場泥棒)とか、京中の一般市民が互いについぶく(略奪)をした、平家軍から略奪した(落武者狩)などの混乱の真実を語れるはずが無い。物語の原作者は真実を忠実に記述したかもしれないが、次第に琵琶法師や編集者が、聴衆の反発を受けないように、さらに権力者たる朝廷や頼朝から迫害を受けないように変形編集した。平家物語の作者は僧も加わっているからやはり仲間の悪口は書けない。死人に口無し。義仲のせいにしておこう。とんだ濡れ衣を着せられたものである。庶民に媚び、権威に逆らえず、真実を語れない「平家物語」の限界である。いつの時代でも同じだが、事実のそのままの記述では反発を受ける、売れない、没収されたり、処罰されるかもしれない。しかし後日記録された「愚管抄」や「延慶本」には記述された。

四.三 兼実・慈円は頼朝贔屓

 慈円は「愚管抄」を記述するにあたり、史料を集め、「平家物語」を耳にし、兄の日記「玉葉」も眼にしたはずである。しかし、真実を記録しておこうと記述したに違いない。養和の大飢饉のとき、鴨長明の方丈記によれば餓死者が四万人も出たほどの大都市に五万の軍勢が入れば、かなりのひしめきあいでかなりの摩擦ごたごたは有るだろう。義仲軍入京前の混乱に比べれば、それほどの混乱では無いようだ。
 平家物語、源平盛衰記、玉葉には義仲軍等の乱暴について非常に詳しく記述するが、義仲入京直前に「ものとりが集まる」とか「たがいについぶく」などの記述は無い。「火事場泥棒」とか「落ち武者狩り」「たがいに略奪」など聴衆は聞きたくないだろう。
 入京後「愚管抄」では「かくてひしめきてありける程に」のみである。入京前の「ものとりが略奪」とか「たがいについぶく」などの混乱ぶりに比べれば随分あっさりしている。義仲軍のついぶく、ものとりの記述はない。更に、平家軍、鎌倉軍も追捕による略奪や放火をしたはずだが、その記述が無い。各軍の追捕があえて記述するほどの事でもないのか。軍事行動の一部としての追捕なら、民間人から見ればひどい話しだが、戦とはそのようなものである。平時において民間人の殺人や放火は重大な犯罪だが、戦時において焼き討ち(放火)や征伐(殺人)は当たり前で、将兵や軍人の大量殺人者は英雄になる。
 慈円は義仲贔屓では無い、どちらかといえば頼朝贔屓である。後に頼朝贔屓の兄兼実の推薦により、天台(比叡山延暦寺)座主にも就任した。

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