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2006年12月12日 (火)

二. 「平家物語」に見る乱暴狼藉の記述

二. 「平家物語」に見る乱暴狼藉の記述

 殆どの平家物語には義仲軍入京後「およそ京中には源氏みちみちて、在々所々に入り捕り多し。」とあり、後世の小説家や歴史解説者の多くがここだけ取り上げて、いかにも義仲軍のみが乱暴狼藉したように説明している。しかし、義仲軍入京の前に義仲軍追討のため派遣した平家軍が北陸への北国下向の場面において「かた道を給はッてげれば、道のほとりを次第に追捕(ついふく)して通りければ、人民こらへずして、山野にみな逃散す。」と記述している。延慶本には、さらに「人民を費やし国土を損ずる事なし。」と詳細に記述する。兵粮米不足であるが、反乱軍の鎮圧はしなければならない。やむをえない選択である。正式な天皇の命令、宣旨が出たか、暗黙の了解かは不明である。当初院宣は出なかったようであるが、後に頼朝は院宣を受けるように変更した。食糧だけでなく、色々な資材や、人夫としても徴発したようである。多分、食糧や資材の調達や輸送その他の雑用に使用された。つまり、保元・平治の乱以後、約二十年間権勢を誇った清盛平家軍も頼朝や義仲などの各地で起こる反乱軍の鎮圧に官軍として追討軍を派遣している内に飢饉も重なり兵粮米が不足し、とうとう寿永二年四月の義仲追討軍の場合は進軍途中で片道分を路次追捕(ろじついふく)という名目の現地調達・強制取り立てを認めさせた。進軍途中の官庁、神社仏寺、民家から強制取り立てをした。追捕の名目とはいえ実態は略奪に等しいと見られ、普通の民間人の略奪をも追捕(ついほ、ついぶく)というようになった。(注:追捕の本来の意味は罪人などを追跡し逮捕し、資財を没収すること)そして、高野本などでは鎌倉軍の乱暴狼藉の記述が無い。しかし「平家物語・延慶本」や兼実の日記「玉葉」には平家軍、義仲軍、鎌倉頼朝軍ともに追捕による乱暴狼藉の記述がある。また兼実の「玉葉」、経房の「吉記」などの貴族の日記、慈円の「愚管抄」によれば、京都市内の混乱は平家軍退却前後から、つまり義仲軍入京前から始まっており、その混乱の鎮圧を義仲軍に期待したのである。
 「平家物語」延慶本には、平家軍、義仲軍、鎌倉軍の追捕の記述があるが、義仲軍入京直前の僧兵や市民の略奪による混乱の記述は無い。平家軍の追捕乱暴は、同様な状態が義仲軍・頼朝軍にも繰り広げられたと想像するのが普通である。実際の現場で追捕の活動を行うのは「かり武者方式」により各地からかり集められた下級の武士や農民などである。平家軍が始めた追捕の方式がそのまま義仲軍・頼朝軍にも引き継がれた。義仲軍も京都に入る前までは寄付に頼っていたようであるが、入京後は寄付のみでは食糧が不足するので追捕やむなしとして、追捕禁止の命令は直ぐには出せなかったようである。
 鎌倉軍の追捕乱暴は「梶原摂津の国勝尾寺焼き払うこと」の場面に「元歴元年二月四日、梶原一ノ谷へ向かいけるに、民ども勝尾寺に物を隠す由をほの聞きて、兵襲いせめしかば、老いたるも若きも逃げ隠れき。三衣(さんえ、僧の着る三種の衣)一鉢(鉄鉢)を奪うのみにあらず、たちまちに火を放ちにければ、」とあり、義経の目付役として有名な梶原景時が食料調達のための追捕の軍勢の指揮官として登場している。一の谷の合戦場へ向かう途中である。食糧や衣類を追捕(略奪)している。勝尾寺は焼失したが、戦後、頼朝は再建し、梶原景時が尽力したと記録されている。このように鎌倉軍は京都市外では追捕を行ったが、京都市内では追捕を遠慮した。なお鎌倉軍の乱暴狼藉を記述した延慶本は一三〇九年頃(延慶二年)作成されたようである。

三.「玉葉」「吉記」に見る乱暴狼藉の記述

 平家軍の乱暴狼藉は「玉葉」寿永二年四月十三日に「武士等狼藉」と十四日に「武士等狼藉」「平宗盛に訴えるも止まず」の記述がある。義仲軍追討のため北陸方面に向かう平家軍は先ず京都近辺で「追捕」を始めた。この後、平家物語の「北国下向」の追捕、乱暴狼藉の状況が続くことになる。著者の兼実は右大臣であるが、当時は政権中枢から外れており、病弱であったので、「追捕」について法皇以下の暗黙の了解がなされたことを知らなかったようである。また「他所の事に於いては知るべからず、近辺の濫吹太だ畏怖有り」とあり、兼実には京都近辺の情報しか届いていない。
 義仲軍の入京前、[吉記]七月二十六日に「山僧等京に下る。」となっており、山僧(比叡山延暦寺の僧兵)も加わり物取追捕したようである。「玉葉」七月二十七日に「今においては、義仲、行家等、士卒の狼藉を停止、早く入京すべしか、」とあり、この混乱の停止を義仲軍に期待した。
 義仲入京後も混乱は続いたようである。「吉記」七月三十日に「京中の追捕・物取等すでに公卿の家に及ぶ。」と記述されている。これらの乱暴が義仲軍とは限らない。義仲追討の平家軍に参加し、逃げ帰り今度は源氏軍として義仲軍に合流した将兵が平家軍と同様の追捕を行った。どさくさに紛れ込んだ強盗、夜盗、平家の残党かもしれない。なにしろ現代のように警察官や軍隊のような制服を着ているわけではない。田舎を出たときの粗末な服装か途中で平家の落ち武者から略奪した服装かもしれない。義仲軍か平家軍か野盗か判別も出来ないだろう。
 義仲軍の乱暴狼藉は「玉葉」寿永二年八月六日、九月三日、九月五日に記述がある。田は全て刈り取られた。運上物は全て奪い取られた。一切存命出来ない。殺されそうだ。餓死しそうだと記述する。とすれば北朝鮮のように市内には餓死者があふれかえりそうであるが、そのような報告、伝聞、風聞は無い。追捕に逆らった民間人が殺されたという風聞すら無い。八月二十八日に「武士十余人の首を切る」と取り締まりの伝聞がある。なお九月六日以後は乱暴狼藉の記述が無い。善意に解釈すると、ほぼ一か月で混乱を制圧したようである。頼朝軍の乱暴狼藉は寿永三年一月二十八日に「隆職追捕さる」の記述があり、頼朝軍は京都市内および近辺では追捕を遠慮したが、平家関係者や京都以外の遠方では追捕をした。

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