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2006年12月11日 (月)

一.二 義仲軍入京直前

一.二 義仲軍入京直前

 寿永二年七月二十五日に平家軍は六波羅の屋敷などに火を付け、京都から退却した。この時法皇は比叡山に退避した。「愚管抄」には平家軍の京都からの退却の時、「物とりと名付たる者、火の中へあらそい入りて物とりけり。」の記述がある。火事場泥棒が発生したようだ。七月二十六日[吉記]に「山僧等京に下る。路次の狼藉勝げて計ふべからず。或いは降将の縁辺と称し放火し、或いは追捕・物取と号す。人家一宇全うする所無し。眼前に天下の滅亡を見る。」と記述し、山僧(比叡山延暦寺の僧兵)も加わり追捕、略奪が横行した。平家関係者の屋敷は特に狙われた。
 「愚管抄」には、法皇・貴族が比叡山に退避した時、「そのせつな京中はたがいについぶくをして物もなくなりぬ」の記述があり、平家軍が退却し、京都市内の警備が空白になったので、市内は一般市民や僧兵などが互いに略奪する大混乱になった。寿永二年七月二十七日「玉葉」に「平宗盛以下追討の事につき法皇より諮られる」「今においては、義仲、行家等、士卒の狼藉を停止、早く入京すべしか」とあり、この混乱の停止を義仲軍に期待した。

一.三 義仲軍入京後

 寿永二年七月二十八日「玉葉」に「今日義仲・行家等、南北より入京すと。京中の狼藉の停止すべき由」。[吉記]に「義仲行家御前に召し、前内大臣追討すべし由仰せ下さる」とあり、義仲軍が入京し、京中の狼藉の停止を命令された。七月三十日「吉記」に「京中の追捕・物取等すでに公卿の家に及ぶ。京中守護義仲院宣を奉りこれを支配す。」と、源氏軍その他が追捕・物取したようだ。義仲に京中守護を命じた。さらに、七月三十日「玉葉」に「京中の狼藉及び兵糧用途如何すべきか」と、法皇からは軍勢が多過ぎるから減らせ、京都市内の治安を回復せよ、平氏の追討もせよ、食糧の支給はしないと無理難題が要求された。八月六日「玉葉」に「京中の物取り追捕逐日倍増」、八月十日「玉葉」に「源氏等の悪行止まらず」と乱暴狼藉が継続の記述がある。
 八月二十八日「玉葉」に「武士十余人の首を切る」と取り締まりの伝聞がある。九月三日「玉葉」に「四方の通路皆塞がる」「人々の災難法皇の乱政と源氏の悪行より生ず」と、全て刈り取られた。全て奪い取られたと記述がある。九月五日「玉葉」に「京中の万人存命不能」と、一切存命出来ない。殺されそうだ。餓死しそうだと記述する。十月九日「玉葉」に「頼朝忽ちに上洛すべからざる故を申す」と、頼朝に上京を促がしたが鎌倉軍も兵粮米の調達のために追捕をすると京都市内は堪えられない、その他の理由もあり断った。しかし、「愚管抄」によれば義仲軍等の入京後は「かくてひしめきてありける程に」である。「押し合ってごたごたしているうちに」である。義仲軍等の「ものとり」「ついぶく」の記述は無い。

一.四 義仲軍敗北後

 寿永三年一月二十日義仲軍は義経軍に敗北した。一月二十七日「玉葉」に「余の庵借り上げの指示」とあり、義経軍は兼実の庵(別宅)を徴用したようである。さらに、一月二十八日「玉葉」に「隆職追捕さる」と、義経軍の武士が兼実の部下の隆職を平家関係者と誤認して追捕し乱暴した。二月四日、「平家物語・延慶本」の「梶原摂津の国勝尾寺焼き払うこと」の場面に鎌倉梶原軍の追捕乱暴の記述がある。二月二十三日「玉葉」に「宗盛追討宣旨」「源義仲党類追討宣旨」「武士押妨停止の宣旨」「公田庄園への兵粮米を徴集停止の宣旨」として、平家軍、義仲軍の残党の追討に続き「路次追捕」と「諸国の荘園等からの兵粮米」を取り消す宣旨(せんじ)が記述される。ただし、「武士押妨停止の宣旨」については、「但し由緒有るに於いては、彼の頼朝子細を相訪らひ、官に言上し」とあり、院宣(法皇の命令書)があれば許可された。また「公田庄園への兵粮米を徴集停止の宣旨」についても、「況や源義仲その跡を改めず、益々この悪を行う。」となっているので、義仲は路次追捕は取り締まったようだが、公田庄園への兵粮米の徴集は続けたようである。元暦二年一月六日「吾妻鏡」に「船無く粮絶え、船を用意し兵粮米を送る」「乗馬を所望、馬は送らぬ」と記述されるように、頼朝軍はそれ以後路次追捕を完全に停止したかというと、そうはいかず兵粮米不足に悩み追捕を続けたようである。元暦二年二月五日「吾妻鏡」「散在の武士、事を兵粮(ひょうろう)に寄せ狼藉を致す」。四月十五日「吾妻鏡」に「東国侍の内任官の輩本国に下向することを停止」と、平家滅亡後、義経以下の武士の自由任官を非難する頼朝の有名な文書にも「庄園の年貢を抑留し、国衙(こくが)の官物を掠め取り」と追捕を非難する記述がある。さらに「渋谷馬の允(じょう)、父は在国なり。而るに平家に付き経廻せしむの間、木曽大勢を以て攻め入るの時、木曽に付いて留まる。また判官殿御入京の時、また落ち参る。度々の合戦に、心は甲にて有れば、」と、平家、義仲、義経と次々と主君を変更する渋谷馬の允の例がある。しかし、文治元年十一月二十八日「吾妻鏡」に「兵粮米(段別五升)を課す」と、再び全国一律の兵粮米(段別五升)の徴収を始める。そして兵粮米の徴収を停止するのはさらに後である。文治二年三月二十一日「吾妻鏡」に「諸国の兵粮米催しを停む」とある。

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