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2006年12月10日 (日)

「木曽義仲軍乱暴狼藉事件の真相」

「木曽義仲軍乱暴狼藉事件の真相」

目次

あらすじ
一.当時の食糧事情と事件の概要
二.「平家物語」に見る乱暴狼藉の記述
三.「玉葉」「吉記」に見る乱暴狼藉の記述
四.「愚管抄」に見る乱暴狼藉の記述
五.乱暴狼藉の真相・・・とんだ濡れ衣
六.風聞と実態の違い
七.「食料の調達」
まとめ
参考文献
参考史料(事件と史料の記述のあらまし)

(この論文は木曽義仲史学会誌第8号に掲載されました)

本論文のあらすじ

 「平家物語」には、木曽義仲軍の京都での乱暴狼藉の記述がある。後世の歴史解説者や小説家がこの一部の記述のみを取り上げて、さも義仲軍のみが乱暴狼藉を働いたように大袈裟に記述している。しかしどの平家物語にも、まず平家軍の乱暴狼藉の記述があり、そして平家物語・延慶本には鎌倉軍の乱暴狼藉の記述もある。さらに公家の日記「玉葉」「吉記」などには平家軍、義仲軍、鎌倉軍、僧兵、一般市民などの乱暴狼藉の記述がある。
 その平家軍などの乱暴狼藉とは近代の軍隊が都市部などへ進攻したとき、規律を乱した一部の兵士による略奪や婦女子への乱暴とは明らかに異なる。当時のそれは食糧の調達のための軍としての組織的な「追捕(ついほ、ついぶく)」である。追捕とは従来の年貢以上に兵粮米(軍用米)の取り立てと称する現地調達である。しかし実態は略奪に等しく、民間人の略奪をもついぶくと言うようになった。これが当時の庶民や貴族から乱暴な行為と見なされ記録された。当時は飢饉も重なり、武士団の遠征軍には追捕が許可されていた。つまり当時の軍隊(武士団)としては兵粮の調達、追捕は朝廷公認の軍事活動の一つである。軍隊(武士団)とは平時の民間人から見れば、異常な行動が正当化されるものである。例えば敵を討つということは殺人であるが、平時に民間人が殺人をすれば殺人罪で罰せられる。また戦闘行動のときの放火や破壊は正当な軍事活動だが、平時に民間人が実行すれば放火罪、器物損壊罪となる。平家物語の原作者は事実を正確に記述したかもしれない。しかし琵琶法師の伝承の過程で聴衆や権力者に不都合な部分は削除された。「勝てば官軍、負ければ賊軍」の時代である。その後再度文章化されたとき、敗者となった義仲軍の乱暴狼藉の場面のみが残った。平家物語に基づく木曽義仲軍のみの乱暴狼藉は捏造であり、真犯人は元平家軍将兵、僧兵、一般市民である。本論文の論点は次の五つである。
 一、平家軍、鎌倉軍の乱暴狼藉の記述はあるのか。
 二、一般市民、僧兵の略奪の記述はあるのか。
 三、追捕は朝廷公認であるのか。
 四、各史料の記述の信憑性。
 五、平家物語の成立過程。
それぞれについて検討し、何故平家物語は捏造されたか、また特に玉葉の記述の信憑性について考察する。

一.当時の食糧事情と事件の概要

一.一 義仲軍入京前

 当時、京都付近及び以西の西国は大飢饉であった。官軍たる平家軍も兵粮米の調達に苦心し全国の荘園からも、かき集めた。治承五年二月八日「玉葉」に「京中在家を計注せしむ」とあり、京都市内の民家は公卿の家も含め、点検され、食糧の徴収、官軍平氏の兵舎として徴用された。二月二十日「玉葉」に「天下飢饉により富を割き貧に与うという」とあり、京中市内から徴集した食糧などは軍用米(兵粮米)としてのみでなく、飢饉の為、貧者に分け与えるものでもあると説明された。治承五年閏二月六日「玉葉」に「清盛没後は宗盛万事院宣に従うべき旨を奏す」「反逆を宥行(ゆうこう)せられるべきか、なお追討せられるべきか」と、清盛の死後、宗盛は政権を法皇に返還したが反乱の征伐は困難である。「兵粮すでに尽き、征伐の力無し、清盛の沙汰の如く西海・北陸道の運上物を点定(徴収)し、兵粮米にあてるべきかと」と兵粮米が不足なので、荘園からの運上物を徴収すべきと提案し、了承を求めている。さらに各地で発生する反乱に対し、官軍として派遣する毎に兵粮米が不足し、治承五年三月六日「玉葉」に「官兵の兵粮尽きたり」と官兵(平家軍)の兵粮が尽きた、三月二十八日「玉葉」に「官軍兵粮無し」の記述が見られる。養和二年二月二十二日[吉記]に「人人を食う事実無し」と人が人を食うの珍事の記述がある。勿論たんなる風説(デマ)である。記述は誤りと後日訂正した。また養和二年三月十七日[吉記]に「兵粮米徴収を検非違使庁の遣いに託す」と、諸国の庄園に兵粮米徴収の院宣(法皇の命令)を下した。三月十九日[吉記]に「道路に死骸充満」の記述がある。
 しかし未だ不足し、とうとう寿永二年四月の義仲追討軍の場合は「平家物語・北国下向」に「かた道を給はッてげれば、道のほとりを次第に追捕(ついふく)して通りければ、人民こらへずして、山野にみな逃散す。」と表現されるように、兵粮米の片道分は進軍途中で現地調達(強制取り立て・略奪)を認められた。これを「路次追捕(ろじついぶく)」という。現地調達との名目とはいえ実態は略奪に等しく進軍途中の官庁・神社仏寺・民家は大迷惑である。抵抗すると殺されたり焼き討ちされた。平家軍は京都を出発する時は京都市内外でも追捕をした。寿永二年四月十三日「玉葉」に「武士等狼藉」「武者の郎従等、近畠を刈り取るの間狼藉と」、さらに四月十四日「玉葉」に「武士等狼藉」「武士等狼藉昨の如しと、凡そ近日の天下この事に依りて上下騒動す、人馬雑物、眼路に懸かるにより横に奪ひ取る」、「平宗盛に訴えるも止まず」と、平家軍の追捕による乱暴狼藉があり、平宗盛に連絡しても止められないとの記述がある。

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