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2006年12月 1日 (金)

2月8日「一谷合戦の子細」

2月6日 天晴 
 或る人云く、平氏は一谷に引退し、伊南野に赴くようだ。但しその勢は二万騎のようだ。官軍は僅かに二三千騎のようだ。仍って加勢されるべきの由申し上げたようだ。また聞く、平氏引退の事はデマのようだ。その勢幾千万を知らずと。

2月7日 天晴 

2月8日 天晴 
「一谷合戦の子細」
未明、人走り来たりて云う、式部権の少輔範季朝臣の許より申して云く、梶原平三景時の許より、飛脚を進め申して云く、平氏皆悉く伐ち取りのようだ。その後、12時頃に、定能卿が来た。合戦の詳細を語る。一番に九郎の許より告げ申した(搦手である。先ず丹波城を落とし、次いで一谷を落としたようだ)。次いで加羽の冠者からの案内を申した(大手、浜地より福原に寄せたようだ)。8時頃より10時頃に至るまで、猶一時に及ばず、程無く責め落とされた。多田行綱は山方より寄せ、最前に山手を落としたようだ。大略城中に籠もるの者一人も残らず。但し素より乗船の人々四五十艘ばかり島辺に在るようだ。而るに廻し得るべからず。火を放ち焼死した。疑うに内府(宗盛)等のようだ。伐ち取る所の輩の連名書が未だ報告無し。仍って進上しないようだ。
「劔璽神鏡の安否未だ聞かず」
三種の神器の安否、同じく以て未だ聞かないようだ。
(注釈)
搦手(からめて)・・・城の裏門を攻める軍勢。
大手(おおて)・・・城の正面に攻めかかる軍勢。

2月9日 天晴 
「平氏の穢(けがれ)充満」
「重衡實平の許に禁固せらる」
今日、三位中将重衡が入京した。褐(粗服、黒茶)の直垂小袴を着用のようだ。即ち土肥の二郎實平(頼朝の家来、最もすぐれた者である)の許に禁固のようだ。

2月10日 天晴 
「兼実母遠忌」
「義経等義仲と平氏の首に差あるを欝申す」
夜に入り蔵人右衛門権佐定長が来た。仰す。院宣に云く、平氏の首等、渡すべきではないの旨お思いである。而るに九郎義経・加羽の範頼等申して云く、義仲の首を渡され、平氏の首を渡されないの條、太だその謂われ無し。何故平氏を渡されないのかの由、殊に不満を申したようだ。この條はいかに協議し申すべしといえり。申して云く、その罪科を論ずるに、義仲と同様ではない。また帝の外戚(がいせき、母方の親類)等である。その身或いは卿相に昇り、或いは近臣である。誅伐(罪ある者を攻め討つ)を遂げられたと雖も、首を渡されるの條、不義と謂うべし。近くは則ち、信頼卿の首は渡されざる所(平治の乱の時)であると。
「神爾宝剣なお賊手にあり」
之に加え、三種の神器は猶残りの賊の手中にある。無為に帰来の条、第一の大事である。もしこの首を渡されば、かの賊等いよいよ恨みの心を励ましむるか。よって傍々その首を渡すべきではない。将軍等只一旦所存を申すか。詳細を仰せられる上は、何ぞ強ち(あながち)に執り申さんや。頼朝は定めてこの旨を承り申さざるか。この上の処置は勅定にあるべしといえり。定長云う、左大臣(経宗)、内大臣(実定)、忠親卿等に問われた。各渡すべきではない由を申し、一同したようだ。
「重衡書札を宗盛に送り剣爾を進上すべしという」
定長叉語りて云う、重衡が申していわく、書状に使者を副え(重衡の郎従と)、前内府(宗盛)の許に遣わし、三種の神器を乞い取り進上すべしと。この事叶わずと雖も、試みに申請に任せ御覧ずべしと。

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