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2006年11月28日 (火)

2月2日「平家追討は院の素懐なり」

2月2日 天晴れ
「院の子と称する人伯耆半国を伐り取る」
「入夜火事あるも院御所難を免る」
「平家追討は院の素懐なり」
或る人云く、西国に向かう追討使等、暫く前進せず。猶大江山の辺に留まるようだ。平氏その勢は弱少に非ず。九州の勢力が少々付いたようだ。下向の武士、殊に合戦を好まないようだ。 土肥の二郎實平・次官親能等(この両人頼朝の代官である。武士等に相伴い、上京された所である)、或いは御使が誘い仰せられるの儀、甚だ感心を申したようだ。而るに近臣の小人等(朝方・親信・親宗等が少弁・北面の下級武士等に命ずるようだ)、一口同音に追討の儀を勧め申した。これ則ち法皇のかねてからの願いである。仍って時流にさからいかれこれ言うこと無き事か。この上左大臣(経宗)また追討の儀を執り申されるようだ。凡そこの条その道理然るべしと雖も、三種の神器を重要視されない条、神虜は如何。天意叉主とせざる者か。
「光長基房の縁人により棄置かるという」
人云う、摂政(基通)の執事は家実(兼光の子)年預は棟範のようだ。光長は松殿(基房)の縁人たるに依り棄て置くようだ。

2月2日 「吾妻鏡」辛酉
 樋口の次郎兼光をさらし首にした。渋谷庄司重国がこれを奉り、郎従平太の男に命じた。而るに斬り損ずの間、子息渋谷の次郎高重これを斬る。但し去る月二十日合戦の時、負傷するに依って片手打ちのようだ。この兼光は、武蔵の国兒玉党の者どもと親しいの間、彼等の勲功の賞に募り、兼光が命を賜うべきの旨申請するの処、源九郎主事情を申し上げされると雖も、罪科は軽くないとして、遂に以てお許し有ること無しのようだ。

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