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2006年11月18日 (土)

1月20日「義仲敗走し近江国粟津にて討たる」

1月20日 天気晴れ、物忌みなり、

6時頃、人告げて云く、東軍は、すでに勢多に到着した。未だ西地に渡らずのようだ。相次いで人云く、田原の手勢はすでに宇治に到着したようだ。その言葉が未だ終わらざるに、六條川原に武士等が馳走するようだ。仍って人を行かせて見せしむるの処、すでに事実である。
「義広敗績す」
義仲方の軍兵は、昨日より宇治に在り。大将軍は美乃の守義廣のようだ。而るに件の手勢は敵軍の為打ち敗られ、東西南北に散じた。
「東軍入京」
即ち東軍等追い来たりて、大和大路より入京した(九條川原の辺に於いては、一切狼藉無し。最もな神仏のお助けである)。引き返さず六條の末に到着した。義仲の軍勢は元々幾ばくもあらず。。而るに勢多・田原の二手に分けた。その上行家を討伐の為また軍勢を分けた。独身で在京するの間このわざわいに遭う。
「義仲院の御幸を促すも成らず」
先ず法皇御所中に参りお出かけ有るべきの由、すでに御輿を寄せようとと欲するの間、敵軍すでに襲ひ来た。仍って義仲は法皇を棄て奉り、あわてふためき対戦するの間、相従う所の軍兵は僅かに三十四十騎。敵対に及ばざるに依って、一矢も射ず落ちた。
「義仲敗走し近江国粟津にて討たる」
長坂方に懸けようと欲した。更に帰り勢多の手勢に加わらんが為、東に赴くの間、阿波津野の辺に於いて打ち取られたようだ。
「東軍一番手梶原景時」
東軍の一番手、九郎の軍兵は梶原平三のようだ。その後、多く以て法皇の御所の辺に群れ参じたようだ。法皇及びお仕えの者どもは虎口を免がれた。実に三宝の神仏のお助けである。凡そ日来、義仲の準備では、京中を焼き払い、北陸道に落つべしのようだ。而るにまた一家も焼かず、一人も損せず、独身さらし首にさせられた。天は逆賊を罰した。宜(むべ)なるかな。もっともであるかな。
「義仲の天下六十日」
義仲が天下を執る後、六十日を経た。信頼の前例(平治の乱)に比べ、猶そのおそきを思う。今日、公卿等が参院すと雖も、門中に入れられずのようだ。
「師家参院すれど追い帰される」
入道関白(藤原基房)は藤原顕家を以て使者と為し、両度上書(じょうしょ)した。共に答え無し、又甘摂政(藤原師家)は顕家の車に乗り参入した。追い帰されたようだ。弾指すべし、弾指すべし。私は風病に依り参入せず。大将又病悩。よつて参らず。恐ろしや恐ろしや。
(注釈)
上書(じょうしょ)・・・意見を書いて書状を差し出すこと。

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