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2006年11月

2006年11月29日 (水)

2月4日「平氏安徳天皇を奉じ福原に着すという」

2月3日 天晴
「行家入洛」
 法印が来た。今日行家が入京した。その勢は僅かに七八十騎のようだ。法皇の呼び出しに依るものである。頼朝また主君のとがめを免ずのようだ。

2月4日 雨下る
「平氏安徳天皇を奉じ福原に着すという」
 源納言(雅頼)示し送りて云く、平氏は主上(天皇)をお連れなされ、福原に着いた。九州は未だ付かず。四国・紀伊の国等の勢は数万のようだ。来たる十三日入京すべしは一定のようだ。官軍等は手勢を分けるの間、一方は僅かに一二千騎に過ぎないようだ。天下の大事、大略判明のようだ。

2月5日 雨下る
「弥勒講」

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2006年11月28日 (火)

2月2日「平家追討は院の素懐なり」

2月2日 天晴れ
「院の子と称する人伯耆半国を伐り取る」
「入夜火事あるも院御所難を免る」
「平家追討は院の素懐なり」
或る人云く、西国に向かう追討使等、暫く前進せず。猶大江山の辺に留まるようだ。平氏その勢は弱少に非ず。九州の勢力が少々付いたようだ。下向の武士、殊に合戦を好まないようだ。 土肥の二郎實平・次官親能等(この両人頼朝の代官である。武士等に相伴い、上京された所である)、或いは御使が誘い仰せられるの儀、甚だ感心を申したようだ。而るに近臣の小人等(朝方・親信・親宗等が少弁・北面の下級武士等に命ずるようだ)、一口同音に追討の儀を勧め申した。これ則ち法皇のかねてからの願いである。仍って時流にさからいかれこれ言うこと無き事か。この上左大臣(経宗)また追討の儀を執り申されるようだ。凡そこの条その道理然るべしと雖も、三種の神器を重要視されない条、神虜は如何。天意叉主とせざる者か。
「光長基房の縁人により棄置かるという」
人云う、摂政(基通)の執事は家実(兼光の子)年預は棟範のようだ。光長は松殿(基房)の縁人たるに依り棄て置くようだ。

2月2日 「吾妻鏡」辛酉
 樋口の次郎兼光をさらし首にした。渋谷庄司重国がこれを奉り、郎従平太の男に命じた。而るに斬り損ずの間、子息渋谷の次郎高重これを斬る。但し去る月二十日合戦の時、負傷するに依って片手打ちのようだ。この兼光は、武蔵の国兒玉党の者どもと親しいの間、彼等の勲功の賞に募り、兼光が命を賜うべきの旨申請するの処、源九郎主事情を申し上げされると雖も、罪科は軽くないとして、遂に以てお許し有ること無しのようだ。

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2006年11月27日 (月)

2月1日「頼朝近習親能兼実天下を直す事に異議無しと申す」

2月1日 天晴れ
「春日祭延引殿歴」
「頼朝近習親能兼実天下を直す事に異議無しと申す」
雅頼卿が来た。世上の事を談る。齋院次官親能(前の明法博士中原廣季の子)は頼朝の近習の者、また雅頼卿の門人である。今度陣の行事となり上京を為した。去る二十一日件の卿に会見するの次いでに、親能云く、もし天下を直されべくば、右大臣(兼実)殿が世を知ろし食すべきなり。異議無しと。納言は問いて云く、この條を法皇に申し上げに及ぶべきか如何。親能云く、もし尋ね有らば、この旨を申すべきの由所存なりと。納言重ねて云く、尋ね無くば、黙止すべきか。親能云く、進し申すべきの由は承らずと。事の体は頗るしっかりしていないに似たるか。くだんの男責めるも人覚えずなりと。昨今、追討使等、皆悉く下向したようだ。先ず山陽道を追い落とすの後、漸々沙汰有るべしのようだ。
2月1日 「吾妻鏡」
「蒲の冠者範頼主御気色を蒙る」
 蒲の冠者範頼主は御憤慨を蒙る。これ去年冬、木曽を征伐する為上京するの時、尾張の国墨俣の渡に於いて、先陣を相争うに依って、御家人等と争乱するが故である。その事、今日すでに聞こし食すの間、朝敵追討の以前、私の合戦を好み、太だ穏便ならざるの由仰せられた。

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2006年11月26日 (日)

1月29日「平氏追討の派遣一定」

1月29日 天晴れ
「平氏追討の派遣一定」
この日法印(慈円)が来入された。中御門大納言(宗家)が来られた。
 また聞く。西国の事、追討使を遣わされる事一定である。今日すでに下向(去る二十六日出門)したようだ。その上猶静賢が使節を遂ぐべきの由仰せ有り。静賢は辞退したようだ。その故は、御使を遣わせられるは、彼のおそれの心を休ましめ、三神を安穏に入京させる為である。而るに武勇の者を遣わし征討するの上、何ぞ尋常の御使に及ぶや。道理叶わず。また使節を遂げ難きの故なりと。申す所尤も道理有るか。凡そ近日の儀はてのひらを反すが如し。不便と。
「全玄僧正の天台座主補任定まる」

「愚管抄」
かゝる程にやがて次の年正月の廿日、頼朝この事を聞いて、弟の九郎と云ひし者に、土肥実平(どひのさねひら)・梶原景時(かぢはらのかげとき)・次官親能(すけのちかよし)など云者を差し登らせましたが、なんなく京へ打いりて、その日の内に打取て首を取りました。その時すでに坂東武者が攻め上ると聞いて、義仲は郎等どもを、勢多・宇治・淀などの方へ散らして防ごうと、手広く企てて有けるほどに、機敏に宇治の方より、九郎、親義馳せ入りて川原に打立ちたりと聞きて、義仲はわづかに四五騎にて駆け出でた。やがて落ちて勢多の手勢に加わろうとして大津の方面へ落ちたのに、九郎追いかゝりて大津の田中に追い込んで、伊勢三郎と云う郎等が打ち取りと聞えてきた。首を持ちて参りましたので、法皇は御車にて御門へ出て御覧になりました。

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2006年11月25日 (土)

1月28日 「隆職追捕さる」

1月28日 天晴れ
「隆職追捕さる」
早朝、大夫史隆職(小槻隆職宿祢)が使者を進上して云く、忽ち追捕(ついぶ)され、家中恥辱に及ぶ。これをなす如何。九郎の一族と家来どもの所為のようだ。召し使う人の滅亡を思ふに依り、使いを九郎の許に行かせて、詳細を相触る。縦えその身に罪科有りと雖も、当時の狼藉を停止すべきの由である。
「親能頼朝代官として義経を補佐し入洛」
また書札を以て前の源納言(雅頼)の許に示し行かせた。次官親能は彼の納言の家に在り。件の男は頼朝の代官となり、九郎に付き上京された所である。仍って万事奉行を為すの者のようだ。
「義経勢史大夫と大夫史を取り違え小槻隆職を追捕す」
これに因って触れんが為、件の男は彼の納言に示す所である。九郎の返事に云く、この事、平氏が書札を京都に進上した。件の使者は搦め取られた。各々報礼を持つようだ。その中にこれ有り。史大夫の者召し進上すべきの由、左衛門の尉時成の奉行として、法皇より仰せ下された。仍って相尋ねるの間、大夫史の宅に罷り向かう。次第は不敵である。狼藉に於いては、早く止むべしと。また納言の返札が到来した。親能は一切知らぬ事の由を申すようだ。叉宰相中将(定能)に相尋ねる処、返事の上、全くご存知無い事のようだ。
「隆職の文庫義経従類に打ち破られ文書を奪わる」
 晩に及び使いを隆職の許に行かせ、詳細を尋ね問う。帰り来て云う。文書等少々片山里に遣わすと雖も、要須の文書においては併しながら身辺に随う。にわかの尋ねに備えるためである。しかるに文庫の戸を打ち破り、併しながら取られたようだ。凡そ官中の文書、古来只一本書である。然るに肝心を失えば、即ち我が朝の滅亡である。誠に天下の運滅尽の期か。悲しむべし悲しむべし。
(注釈)
追捕(ついぶ)・・・ついふ。ついほ。ついふく。悪者を追いかけて捕らえること。没収。奪い取る。
率爾(そつじ)・・・にわかなさま。軽率なさま。

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2006年11月24日 (金)

1月26日 「吾妻鏡」「義仲等獄門首」

1月26日 晴
「三神の安全のため平氏追討止むべきか」
 去る夜より、京中では平氏が入京するとの由の風説がおおいに流布した。信受せざるの処、果たして以てデマのようだ。或いは云く、猶平氏の追討を止めらるの儀、静賢法印を以て御使として、詳細を仰せ含めらるべしと。この儀は私のこいねがう所である。これ全く平氏を引級するに非ず。三種の神器の安全を思うに依るものである。
1月26日 「吾妻鏡」
「義仲等獄門首」
 今朝検非違使(けびいし)等が七條河原に於いて、伊豫の守義仲並びに高梨忠直・今井兼平・根井行親等の首を請け取り、獄門(ごくもん)の前の樹に懸けた。また囚人の樋口兼光同じくこれを引き連れ渡された。儀式を指揮する公卿は籐中納言、実務担当は頭弁光雅朝臣のようだ。
(注釈)
引級
検非違使(けびいし)・・・京中の警察・裁判官。
獄門(ごくもん)・・・獄屋(ごくや、ろうや)の門。

1月27日 天晴れ
「平氏征伐朝方等の和讒によるか」
定能卿が来た、世間の事等を語る。その次いでに云く、平氏の事、猶御使を遣わす事を止め、偏に征伐されるべしのようだ。近習の卿相等の和讒(わざん)か。所謂、藤原朝方・藤原親信・平親宗である。小人君に近づき、国家を擾(みだ)す。誠かなこの言。
「余の庵借り上げの指示」
法皇より武士を住まわせるため、私の庵(いおり)を借られるべく、家を指定する由仰せあり(定長奉行)。承知したの由を申した。事の体は言うに足らず。然れども逓れ避く事は出来ない。末代の事勿論勿論。
「任子慈円より観音経等を受く」
(注釈)
和讒(わざん)・・・一方でやわらぎ親しんで、他方でそしり陥れること。仲介。密語。

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2006年11月23日 (木)

1月25日「逆賊朝務を執りて後の叙位等無効とすべし」

1月25日 天気晴れ、
「仏法の験により良通回復す」
「基通・実定還補の事」
「近衛亭にて吉書を覧ず」
「逆賊朝務を執りて後の叙位等無効とすべし」
私は案ずるに、去年11月19日以後、行はれた所の叙位、除目、宣命、宣旨、官府、昇殿、侍中併しながら用いるべきではない由、宣旨を下されるべきである。その故何となれば逆賊が朝務を執り、時人猶その権力に媚び、任ずる所の官位官職を、猶その身に帯びる。依って謀反の者と雖も人猶これに帰順している。甚だ以て奇怪である。自今以後、賊臣にへつらう条、後世の人をして厳粛たらしめんためである。

「平治・治承と異なり今度の乱は義仲一人の最たり」
平治・治承の乱は、この条は同じと雖も、皆成人の御宇(天子の御世)である。依って号する所皆勅定(天皇の定め)である。更に今度の乱に斉しくは無い。天子と臣下共に幼稚、未だ成人の度量に及ばない。法皇叉禁固の如し。何ぞ政事の沙汰に及ばないのだ。あにひとえに義仲一人の最である。あに木曽の下知を以て、専ら竹帛(ちくはく、書籍、歴史)の証拠に備えるのか。この条は法皇が尤もご存知あるべきである。而るに一切お考えなし、人叉申し行わないようだ。後に聞く、この事は数日を経し後申し行うことあり。人少しのようだ。然れども期に違ふ後、尤も見苦しかるべし。叉天気(天皇の機嫌)お考え寄らず。小人の異見に依り始終無しのようだ。この事二月下旬の比指図あるものである。依って追って書き入れるところである。

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2006年11月22日 (水)

1月23日「大地震」

1月23日 天気晴れ、
観性法橋が来た。叉範季朝臣が来た。語りて云う、平氏猶追討されるべき由仰せ下されたようだ。三種の神器の事、猶重ぜられざるか。この条神虜恐れあり。これをなす如何如何。大外記頼業が注進して云う、昨日宣下される事等。
「大地震」
この日14時頃、大地震。

1月24日 天気晴れ、
「良通所労」
「除病の符を書かしむ」
「不空羂(けん)索観音像を造る」
(注釈)
不空羂(けん)索観音・・・生死の苦海の衆生を済度する観音。
「泰山府君祭」
「不動供を修す」

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2006年11月21日 (火)

1月22日「兼実院より尋ねらるる条々」

1月22日 天気晴れ、
「兼実院より尋ねらるる条々」
風病はいささか減有り。仍ってなまじいに参院した。定長を以て尋問される事は五箇條、
「平氏追討の事」
一、かれこれ言うこと無く平氏を討たるべきの処、三種の神器は彼の手に御座います。この條は如何。協議し申し上げすべしといえり。兼ねてまた公家の使者を追討使につきそえ下し派遣するは如何と。
 申して云く、もし三種の神器の安全の計略が有るならば、忽ちの追討は然るべからず。別の御使を遣わし、語り誘われるべきである。また頼朝の許へ、同じく御使を遣わし、この詳細を仰せ合わされるべきである。御使を追討使につきそえられるの條、甚だ拠る所無きか。
「義仲の首の事」
一、義仲が首を渡さるべきや否や如何。
申して云く、左右共に事の妨げを為すべからず。但し道理の出る所、尤も渡されるべきか。
「頼朝の賞の事」
一、頼朝の賞如何。
申して云く、申請に依るの由仰せられるべきか。然れば又もし恩賞無き由を存ずるか。暗に行われ、その由を仰せられる。何事か有らんや。その官位等の事に於いては、私の案の及ぶ所に非ずといえり。
「頼朝上洛の事」
一、頼朝上洛すべきや否やの事
申して云く、早く上京させるべし。殊に仰せ下さるべし。参否に於いてはごぞんぢであるべからず。早速に行かせて呼び出しすべきであるといえり。
「院御所の事」
一、御所の事如何。
申して云く、早々に他所にお移り有るべし。その所は、八條院御所の外、然るべきの家無きか。
「昨日の議定大略兼実申状に同じ」
定長語りて云う、昨日左大臣(経宗)、左大将(実定)、皇后宮大夫(実房)、堀川大納言(忠親)、押小路中納言(長方)、左右大弁等参入し議定あり。各の申し状は大概兼実の申し状に同じ。但し平氏追討の間の事、左大臣左大将猶三種の神器を知らず、追討すべきの趣か。これ即ち法皇のお考えはかくの如しと(他事、定能卿密にこれを示す)。各形勢に従われるなり。然るべからず然るべからず。叉首を渡される事、長方いわく、もし遠国の賊首を渡される事かと(この事然るべからず然るべからず)。叉賞の事、左大将云う、恵美大臣を討ちし時の例に任せ、三品に叙せられる、宜しかるべしと(この事叉過分である)。この外の事一同と。退出した後、人告げていう、摂政(基通)内大臣(実定)、各元の如くの由仰せ下されたようだ。天は国を棄てずと雖も、法皇はこれを棄てた。末世受生の恨み、宿業を訪ね報いんと欲するのみ。

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2006年11月20日 (月)

1月21日 「吾妻鏡」「樋口の次郎兼光を捕らえる」

1月21日 天気晴れ、物忌み昨の如し。
ある人が忠告して云う、甘摂政(藤原師家)は安堵すべからず。兼実が出馬すべしと。私はこれを案ずるに、末世の作法進退について天下を恐れ国を棄てざる条あり。政道の治乱を頼むあるに似たりと雖も、偏に法皇の最にあるべし。法皇が天下を治める間、乱亡止むべからず。不肖の者、委任の任に当たらず。恐らく後悔あるか。これに加え、兼実が朝廷に置いて身命を惜しまざる条、仏天知見あるべし。然れば即ちもし世の運あれば、天は士を棄てるべからず。運無くば、また一旦の浮栄を欲せざる所である。只、伊勢太神官、春日大明神に奉仕せんに及ばない。依って一言も申し上げず。忠告する人云う、甚だ強しといえり。晩に及び呼び出しあり(定長が奉行、定めらるべき事があるようだ)。風病(ふうびょう、かぜか中風)のてだて無し。事は偽り飾りにあらず。よってその詳細を申した。今朝、大外記頼業が来た。世上の事を談じた。晩に及び大夫吏隆職が来た。洗浴の間これに会見せず。
「基通摂政に還補せらる」
ある人云う、前摂政(基通)が辞任した職に再び任ぜられる由のようだ。法皇の愛物である。いよいよ私が言葉を出す能わず。断じて断じて。

1月21日 「吾妻鏡」辛亥
「樋口の次郎兼光を捕らえる」
 源九郎義経主、義仲が首を獲るの由を申し上げた。今日の晩に及び、九郎主木曽が専一の者樋口の次郎兼光を捕らえ進上した。これ木曽義仲の使として、石川判官代を征伐する為、日来河内の国に在り。而るに石川逃亡するの間、空しく以て帰京した。八幡大渡の辺に於いて、主人滅亡の事を聞くと雖も、押し以て入京するの処、源九郎の家人が数輩馳せ向かい、相戦うの後これを生け捕るようだ。

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2006年11月19日 (日)

1月20日 「吾妻鏡」「範頼・義経入京」

1月20日 「吾妻鏡」
 蒲の冠者範頼・源九郎義経等、武衛(頼朝)の御使として、数万騎を卒い入京した。これ義仲を追罰の為である。今日、範頼は勢多より入京した。義経は宇治路より入る。木曽、(志田)三郎先生義廣・今井の四郎兼平以下は軍士等を以て、彼の両道に於いて防戦すと雖も、皆以て敗北した。蒲の冠者・源九郎、河越の太郎重頼・同小太郎重房・佐々木の四郎高綱・畠山の次郎重忠・渋谷庄司重国・梶原源太景季等を引き連れて、六條殿に馳参し、上皇の御所を警衛しなされた。この間、一条の次郎忠頼以下の勇士、諸方に競走し、遂に近江の国(滋賀県)粟津の辺に於いて、相模の国(神奈川県)住人石田の次郎をして義仲を誅戮(ちゅうりく)せしめた。その外錦織の判官(義高)等は逃亡したようだ。
 征夷大将軍従四位下行伊豫の守源朝臣義仲(年三十一)、春宮帯刀(とうぐうたてはき)の長義賢男。壽永二年八月十日、左馬の頭に任じ、越後の守を兼ね、従五位下に叙す。同十六日、伊豫の守に遷任(げんにん)す。十二月十日、左馬の頭を辞した。同十三日、
従五位上に叙す。同正五位下に叙す。元暦元年正月六日、従四位下に叙し、十日、征夷大将軍に任ず。
検非違使右衛門権の少尉源朝臣義廣、伊賀の守義経男。壽永二年十二月二十二日、右衛門権の少尉(元は無官)に任じた。使の宣旨を蒙る。
(注釈)
武衛(ぶえい)・・・兵衛府(ひょうえふ)。頼朝は兵衛府の佐(すけ)、次官だった。
誅戮(ちゅうりく)・・・罪あるものを殺すこと。
遷任(げんにん)・・・一旦退官したものが、再びもとの官職に任ぜられること。

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2006年11月18日 (土)

1月20日「義仲敗走し近江国粟津にて討たる」

1月20日 天気晴れ、物忌みなり、

6時頃、人告げて云く、東軍は、すでに勢多に到着した。未だ西地に渡らずのようだ。相次いで人云く、田原の手勢はすでに宇治に到着したようだ。その言葉が未だ終わらざるに、六條川原に武士等が馳走するようだ。仍って人を行かせて見せしむるの処、すでに事実である。
「義広敗績す」
義仲方の軍兵は、昨日より宇治に在り。大将軍は美乃の守義廣のようだ。而るに件の手勢は敵軍の為打ち敗られ、東西南北に散じた。
「東軍入京」
即ち東軍等追い来たりて、大和大路より入京した(九條川原の辺に於いては、一切狼藉無し。最もな神仏のお助けである)。引き返さず六條の末に到着した。義仲の軍勢は元々幾ばくもあらず。。而るに勢多・田原の二手に分けた。その上行家を討伐の為また軍勢を分けた。独身で在京するの間このわざわいに遭う。
「義仲院の御幸を促すも成らず」
先ず法皇御所中に参りお出かけ有るべきの由、すでに御輿を寄せようとと欲するの間、敵軍すでに襲ひ来た。仍って義仲は法皇を棄て奉り、あわてふためき対戦するの間、相従う所の軍兵は僅かに三十四十騎。敵対に及ばざるに依って、一矢も射ず落ちた。
「義仲敗走し近江国粟津にて討たる」
長坂方に懸けようと欲した。更に帰り勢多の手勢に加わらんが為、東に赴くの間、阿波津野の辺に於いて打ち取られたようだ。
「東軍一番手梶原景時」
東軍の一番手、九郎の軍兵は梶原平三のようだ。その後、多く以て法皇の御所の辺に群れ参じたようだ。法皇及びお仕えの者どもは虎口を免がれた。実に三宝の神仏のお助けである。凡そ日来、義仲の準備では、京中を焼き払い、北陸道に落つべしのようだ。而るにまた一家も焼かず、一人も損せず、独身さらし首にさせられた。天は逆賊を罰した。宜(むべ)なるかな。もっともであるかな。
「義仲の天下六十日」
義仲が天下を執る後、六十日を経た。信頼の前例(平治の乱)に比べ、猶そのおそきを思う。今日、公卿等が参院すと雖も、門中に入れられずのようだ。
「師家参院すれど追い帰される」
入道関白(藤原基房)は藤原顕家を以て使者と為し、両度上書(じょうしょ)した。共に答え無し、又甘摂政(藤原師家)は顕家の車に乗り参入した。追い帰されたようだ。弾指すべし、弾指すべし。私は風病に依り参入せず。大将又病悩。よつて参らず。恐ろしや恐ろしや。
(注釈)
上書(じょうしょ)・・・意見を書いて書状を差し出すこと。

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2006年11月17日 (金)

1月16日「義経勢数万に及ぶ」

1月16日 雨下る 
「義経勢数万に及ぶ」
去る夜より京中は騒動した。義仲が近江の国に派遣した所の郎従等、併しながら以て帰京した。敵勢は数万に及び、敢えて敵対は不可能の故のようだ。今日法皇をお連れなさり、義仲は勢多に向かうべき由が風聞した。その儀忽ち変改した。ただ郎従等を派遣し、元の如く法皇御所中を警固し待機すべし。
「義仲行家を追伐す」
また軍兵を行家の許に分け派遣し追伐すべしのようだ。凡そ去る夜より今日14時頃に至るまで、議定は変々数十度に及ぶ。てのうらを反すが如し。京中のあわてふためきようは喩えに取るに物無し。然れども晩に及び頗る落居した。関東の武士が少々勢多に到着したようだ。

1月17日 朝間天陰、午後頗晴れ

1月19日 
「志田義広大将軍として宇治田原を防ぐ」
昨今天下頗るまた騒動した。武士等多く西方に向かう。行家を討伐の為のようだ。或いはまた宇治に在り。田原地の手を防ぐ為のようだ。(志田)義廣(三郎先生)が大将軍のようだ。

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2006年11月16日 (木)

1月15日 「義仲を征東大将軍となすという」

1月14日 天晴 
「伊勢神宮怪異の条々」
伝聞、大神宮より怪異の由、義仲の許に急いで報告した。
「伊勢国永松御厨・栗真庄・安濃津」
「関東飢饉か」
或る人云く、関東は飢饉の間、上京の勢幾ばくならずのようだ。実否知り難きか。16時頃、人伝えて云く、明後日義仲は法皇をお連れなさり、近江の国に向かうべしのようだ。事すでに決定のようだ。

1月15日 天晴 
早朝、人告げていわく、法皇のお出かけは停止した。御赤痢病に依るようだ。義仲は独り向かうべしのようだ。或はいわく、向かうべからずのようだ。
「義仲を征東大将軍となすという」
隆職が来た。語りて云く、去る夜御斉会の内、論議無し。即位以前たるに依るようだ。叉云う、義仲は征東大将軍たるべきの由、宣旨を下されたようだ。
今日、家の節供(せちく、15日は小豆粥)は欠如、私は指図を致さず。かくの如き事を執し思うべき身にあらざる故である。

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2006年11月15日 (水)

1月13日 「平氏入洛せざる三つの由緒」

1月11日 朝間雨下る、午後天晴
 この日内密に女房等を奈良に行かせた。世間の物騒の理由に依る。基輔の母尼は奈良に下向した。これを以て名となす。
今朝、義仲の下向は忽ち停止した。物の告げ有りに依るようだ。来たる十三日平氏入京すべし。法皇を彼の平氏に預け、義仲は近江の国に下向すべしようだ。

1月12日 朝間雨下る、晩に及び大風 
この日大将(良通)の女房は叉奈良に下向した。但し頼輔入道は日来中川(山寺なり)にあり。その所に行かせた。
伝聞、平氏この両三日以前に使を義仲の許に送りて云く、再三の起請に依って、和平の儀を存ずるの処、猶法皇をお連れなさり、北陸に向かうべきの由これを聞いた。すでに謀叛の儀である。然れば同意の儀用意すべしと。仍って十一日の下向は忽ち停止した。今夕から明朝の間、第一の郎従(字は楯のようだ)を派遣すべし。即ち法皇御所中の守護の兵士等を召し返したようだ。

1月13日 天晴
今日明け方より午後2時ごろに至り、義仲は東国に下向の事、有無の間変々七八度、遂に以て下向せず。これ近江に遣わす所の郎従が飛脚を以て申して云く、九郎の勢僅かに千余騎のようだ。敢えて義仲の勢に敵対すべからず。仍って忽ち御下向有るべからずと。これに因って下向は延引したようだ。
「平氏入洛せざる三つの由緒」
平氏今日入京すべき一定の処、然らざる條三つの由緒が有るようだ。
一は義仲は法皇をお連れなさり、北陸に向かうべき由が風聞の故、
二は平氏は武士を丹波の国に派遣し、郎従等を招集させた。仍って義仲また軍兵を派遣し相防がせた。然る間、平氏は和平を決定した。仍って事が決定の後、飛脚を遣わし引き退くべき由仰せ遣わす処、猶合戦を企て、平氏方の郎従十三人の首すでにつるしたようだ。茲に因って心を置き遅怠した。
三は行家は渡野陪(わたのべ)に出で逢いて、一矢射るべきの由を称したようだ。この事に因って遅延した。
縦横の説信じ取り難しと雖もデマに非ずに依りこれを記録した。

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2006年11月14日 (火)

1月10日 「吾妻鏡」「義仲征夷大将軍」

1月9日 
伝聞、義仲と平氏が和平の事すでに一定した。この事去年の秋の比より連々謳歌した。様々の異説有り。忽ち以て一定した。
「義仲鋳す鏡の事」
去年月迫る比、義仲は一尺の鏡面を鋳て、八幡(或る説では熊野)の御正体を顕し奉る。裏に起請文(仮名と)を鋳付けこれを遣わした。茲に因って和親したようだ。

1月10日 
夜に入り人告げて云く、明朝、義仲は法皇をお連れなさり、北陸に向かうべし決定。公卿も多く同道すべしのようだ。これはデマに非ずと。
1月10日 「吾妻鏡」
「義仲征夷大将軍」
 伊豫の守義仲征夷大将軍を兼ると。ほぼ前例つきあわせてしらべると、鎮守府の宣下に於いては、坂上中興以後、藤原範季(安元二年三月)に至り、七十度に及ぶと雖も、征夷(せいい)使に至りては、僅かに両度たるか。所謂桓武天皇の御宇延暦十六年十一月五日、按察使兼陸奥の守坂上田村麻呂卿を任命された。朱雀院の御宇天慶三年正月十八日、参議右衛門の督藤原忠文朝臣等を任命されるものである。爾より以降、皇家二十二代、歳暦二百四十五年、絶えてこの職を任命されないの処、今例を三輩に始む。希代の朝恩と謂うべきか。
(注釈)
鎮守府(ちんじゅふ)・・・蝦夷(えぞ)を鎮撫するため陸奥国に置かれた官庁。
鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)・・・鎮守府の長官。
征夷(せいい)・・・えびす(蝦夷、えぞ)を征伐すること。
按察使(あんさつし)・・・あぜち。あんせちし。諸国の行政を監察した官。
宇(う)・・・天子の統治する世界。

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2006年11月13日 (月)

1月5日6日7日

1月5日 陰晴不定
「弥勒講」
御堂に参る。恒例の弥勒講に依りてである。この間源中納言(雅頼)が来た。よって大将相共に広庇の座に着かしめ、私は簾中にあり。講演が終わり、布施(公卿等これを取らず)を置く後、私は仏前(堂中他所便宜無き故なり)に出で、前源中納言(雅頼)を招き入れ、会談は刻を移す。語りて云く、頼朝の軍兵は墨俣に在り。今月中に入京すべきの由聞く所である。日没に及び退出した。
「東大寺大仏鋳造の事」
「河内国鋳師を宋朝鋳師に加う」
「行隆子息等に霊託あるか」
(中略)
右中弁行隆また云く、義仲は永くあるべきではない。頼朝また同様である。平氏若しくは運有るか。すべてその所行に依るべしと。

1月6日 天晴風吹く
「叙位」
或る人云く、坂東の武士すでに墨俣を越え美濃に入ったようだ。義仲大いに恐れおののきを懐くようだ。

1月7日 天晴
「叙位聞書を見る」
摂政(藤原師家)正二位に叙された(従二位を越えた。本正三位である)。
「白馬節会」

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2006年11月11日 (土)

1184年(寿永3年、元歴元年)1月1日

1184年(寿永3年、元歴元年)1月

1月1日 陰、
「院拝礼・小朝拝無し」
明けがた、四方拝(しほうはい)常の如し。今日法皇の拝礼無し(法皇の御所鋪(ほ)設を改むるに及ばずと)。又小朝拝無し。代始めたれども、日次宣しからざるに依りてなり(凶会)。14時頃、大将(九条良通)が(飾剣例の如し)法皇御所に参り、即ち参内(さんだい)である。夕方、甘摂政(藤原師家)が参入した。その後公卿が着陣した。節会(せちえ)は例の如し。内弁は皇后宮大夫(藤原)実房卿、外弁は上首権中納言(藤原)長方卿のようだ。大納言(藤原)忠親並びに此の大将等、内弁の作法を見るため外弁に着かずのようだ。不当と雖も又近例のようだ。22時頃、大将が帰り来たり今日の事を語る。具さに大将を召しこれを記録した。
「忌月に依り音楽・国栖笛音せざる事重ねて宣下有るべきか」
そもそも御忌月たるに依り、音楽並びに国栖(くにす、くず)の笛声を奏せず。この事先帝(安徳天皇)の御時に宣下された。当今(後鳥羽天皇)又同じかるべし。しかるに重ねて宣下有るべきや否や、大将不審を成し、大外記(中原)師尚の許へ問い遣わす処、事の理重ねて、仰せらるべからざる上、延久元年の例又然らずと。今日又仰せられずと。然れども諸司存じて奏せざるなり。今日の手水陪膳(みなもと)は季長朝臣、節供は((藤原)光長朝臣之を勤め陪膳同前)。この日右少弁(平)基親が来た。夜にいり大風降雨、又雷鳴す。
(注釈)
四方拝(しほうはい)・・・1月1日の宮廷行事。
参内(さんだい)・・・内裏(だいり)に参上すること。
晩頭(ばんとう)・・・ゆうがた。
節会(せちえ)・・・節日などの宴会。
内弁(ないべん)・・・儀式を門内で指揮する首席の公卿。
外弁(がいべん)・・・儀式を門外で指揮する第2位の公卿。
国栖(くにす、くず)・・・大和の国栖人が参列して歌笛を奏したこと。
手水(ちょうず)・・・手・顔などを洗う水。
陪膳(ばいぜん)・・・膳部の給仕
節供(せちく)・・・節日に供する供御(くご)。元日の膳、15日の粥など。
供御(くご)・・・天皇の飲食物。

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2006年11月10日 (金)

12月28日29日30日

12月28日
「不堪佃田荒奏」
此の日摂政(師家)初度の上表(じょうひょう、君主に文書をたてまつること。)のようだ。又不堪荒奏有りのようだ。右少弁基親が拝賀の為来た。権中納言隆忠が拝賀したようだ。定能卿が来た。

12月29日 天晴れ、
大夫小槻隆職宿祢が来た。世上の事を談じた。平氏・義仲の和平は一定の由、忠清法師の説を以て聞いたようだ。
「不堪佃田和奏」
今日和奏のようだ。左大臣(経宗)陣に参り、不堪の定め有りのようだ。

12月30日 天晴れ、
「熊野御燈明追儺」
今日は熊野御燈明の日である。大将の使いとなり智詮阿闍梨が参入である。よって精進潔斎、追儺(だ、おにやらい、疫病を追い払う)例の如しのようだ。
(注釈)
儺(だ、おにやらい)・・・疫病を追い払う。
追儺(ついな)・・・年末に火を燃やして虫や鬼を退治した。

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2006年11月 9日 (木)

12月25日26日27日

12月25日 天晴れ、
「賀茂臨時祭」
この日は臨時祭である。使は参議右衛門督隆房朝臣、公卿は忠親卿以下56人が参入したようだ。
「兼実子息春日社に参詣す」
この日愚息小児(良円)が内密に春日の御社に参詣した。凡そ私の子息は七歳以前に春日に参らしむべき由、所願有りの故なり。

12月26日 天晴れ、
「崇徳院の神祠立つ所につき諮られる」
大将(良通)方に行き向かう。夜に入り帰り来る。
蔵人少輔親経が来た。問いて云う、崇徳(崇徳天皇)院の神祠(しんし、ほこら)を立たれるべき由其の指図が有り。其の所如何。計り申すべしといえり(院宣と)。申し云う、この事先日御占い不快に依り、神祠を止め、改葬を為すべき由これを承る。今の仰せ相違如何。但し此の条和説(話し説くこと)なり。其の所に於いては、暗に計らひ申し難し。もし一定の地無くば、然るべき所両三所相定め、御占い行われるべきか。

12月27日
法皇は正月十三日天王寺にお出かけすべしのようだ。此の事は親信卿及び(平)業忠等、義仲に追従するため申し行う所のようだ。
(注釈)
天王寺(てんのうじ)・・・四天王寺の略。大阪市天王寺区にある

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2006年11月 8日 (水)

12月23日 「吉記」「義仲法皇の西海臨幸を望む」

12月23日 天陰、午後雨降り、夜に入り殊に甚だし、
早朝、下名聞書を見た(去夜行われたようだ)。今日頭中将(源)通資が書札を大将の許に送り、臨時祭に参るべき由を催促した。其の上謹み上る所のようだ。当然に進上と書くべし。よって書札を使いに返した。今日宗家卿が来られた。

12月23日 「吉記」
「義仲法皇の西海臨幸を望む」
或る人が示し送り云う、平氏追討の為、義仲は西海に起つべし、法皇同じくお出かけ有るべしのようだ。一昨日この旨申すと謂えども、ご承引無し、然るに猶一定の気有り、未だ是非を弁せず、天下は至極なり、悲しむべし、哀れむべし、

12月24日 天晴れ、
一昨日覚乗の許に遣わす所の心経、使者が遅れて持ち向かう。昨日は衰日である。今日供養し奉るべく、示し送る所である。よって今日旦つ神事を聞く。10時頃、大下記頼業が布袋を着け内密に来た。自身及び世上の事を談じた。今日夕方始めて出仕すべしのようだ。大外記頼業云う、西海の主君(安徳天皇)が入御されるならば、当今(後鳥羽天皇)は如何。六条院の体の若(ごと)きかと。私はいささか思う所を示した。大外記頼業は感心の様子有り。
「牙笏紛失の事」
この日頭中将(源)通資朝臣が書札を送り(基輔朝臣の許に遣わす)、示し云う、牙(きば)の御笏(しゃく)不虞に紛失の事有り。明日臨時祭の料、尋ね進らすべしといえり。申し云う、元より相持たず。又尋ね得べき力無しといえり。
(注釈)
当今(とうぎん)・・・当代の天皇。今上天皇。
笏(しゃく)・・・束帯着用のとき、右手に持つ板片。牙または木製。

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2006年11月 7日 (火)

12月21日「京官除目執筆藤原経房」

12月21日 天晴れ、
「京官除目執筆藤原経房」
此の夜、京官(京都で勤務する官吏)の人事異動が行われたようだ。執筆は左大弁((藤原)兼光)、一夜の儀と。
今日心経一巻を(復十三巻)、覚乗法眼の許に送る。社前に於いて供養し奉らんためである、今日心経千巻を読み奉る。

12月22日 天晴れ、
「心経を覚乗法眼に遣わす」
毎月心経十三巻、(復一巻)を書写し、小布施を相副え、覚乗法眼の許に遣わすところである。是は毎年の勤めである。社前に於いて供養し奉る所である。今日又心経千巻を読み奉り、春日御社に法楽し奉る。信心殊に発り、利益は炳焉(へいえん、あきらか)たるものか。
「除目聞書を見る」
14時頃、聞書を見る。左京大夫(藤原)清通(侍従を辞し其の子に譲る(高通))、
右京大夫(藤原)季能、中納言(藤原)隆忠、右衛門督(藤原)家通、左兵衛督(藤原)実守、この外覚悟せず。
「下名」
長方卿は備中国を賜るようだ(元は淡路である)。今日下名のようだ。
「大地震あり」
今夜24時頃、大地震。近代必ず験有り。恐るべし恐るべし。
夜に入り下記が闕(けつ、かける)官帳持ち来たり云う、昨日大下記師尚の許より送り遣わすもの、しかるに参陣の間、今日の除目を行ふを知らず。退出の時、これを見て、持参する所であるようだ。先例無きに依り、返し給いた。甚だ奇怪の由を仰す。
「八条辺り焼亡す」
今夜焼亡有り。八条院(鳥羽天皇皇女、法皇の妹、暲子内親王)の辺り、故家朝の後家のようだ。
(注釈)
左京大夫・・・左京職の長官
京職・・・京の行政・訴訟・租税・交通の事務の役所。
闕(けつ、かける)官・・・現任者の欠けている官。解官(げかん)

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2006年11月 6日 (月)

12月20日 「吉記」「平氏入洛の説あり」

12月20日 天晴れ、
「叙位聞書を見る」
早朝、聞書を見る、殊なる事無し。光長が四位に叙された。大将のうわぎを申請するに依り与えた。今日と明日は物忌みである。今朝、智詮阿闍梨は熊野に出発した。私及び大将は沐浴(もくよく)潔斎(けっさい)してこれを礼す。
「実定礼及び一首を兼実に送る」
今日左大将(藤原実定)が書札を送り、世上及び自身の事等を示された。粗く述懐の状有り。其の次一首を送る。
あらきかせ ふきやむと まつほとに もとの心の ととこほりぬる
「兼実の返歌」
返歌
われもさそ かせにととろく かけはしを あやふむほとに ととこほりぬる
天下騒乱の後、茲に五箇年、心一実の道慕うと雖も、首猶双華の鬢(びん)梳(そ、くしけずる)り、たちまち静謐(せいひつ)の時を期す。念仏の行を修めんためなり。愚心を以て賢慮を察す。猶豫宜しきか。
(注釈)
沐浴(もくよく)・・・神を洗い身を洗うこと。湯水で身体を清めること。
潔斎(けっさい)・・・神事などの前に、酒や肉食などをつつしむ。
鬢(びん)・・・頭の左右側面の耳ぎわの毛。
静謐(せいひつ)・・・静かであること。特に世の中がおだやかに治まること。

12月20日 「吉記」
「平氏入洛の説あり」
或る者が来たり云う、平氏の入洛は来る二十二・五・八日の間、必然である、門々戸々営々、或る説、義仲と和親した、或るいは然らずと。

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2006年11月 5日 (日)

12月19日「山大衆和平す」

12月19日 陰晴れ不定、晩に及び少雨、
「(藤原)兼光に定能の車を貸す」
参議右大弁(藤原)兼光朝臣が拝賀の為来た。車を申請するに依り、定能卿の車を借りこれを与えた。内密に(藤原)兼光の許より返し遣わすようだ。是は非礼と雖も、近日の天下に候ふ毎時、別段の事か。私は又車を持たざる故である。
「朔旦叙位行なわる」
此の夜、朔旦(ついたちのあさ)叙位が行われた。当然11月中行われるべき処、五節を行わざるに依り、御即位は叙位の次に合はせ行うべき由、前もって議定有り。是即位の次、下名を賜わるためである。しかるに嘉承の例、亮闇の時の例を混合するに依り、さしさわり有るべし。只格別に叙位を行ない、下名を賜ふ儀有るべからざる由、法皇の仰せ有るようだ。然り間大事が出で来た。よって即位と叙位合わせ行う条、異議無き処、即位又延引した。よってもし明春の叙位の次、加え行はるべきか。将に又歳の内に之を行う。
「執筆藤原経房」
先日法皇の仰せに依り、下名を賜ふ儀有るべからざるかの由、前もって其の指図有り。遂に歳の内に行われる所である。執筆は左大弁経房卿。
「山大衆和平す」
この日比叡山延暦寺大衆(僧兵)の和平、神輿を振り下げ奉りたのようだ。無動寺法印(慈円)は内密に大衆(僧兵)発すべからざる詳細を永弁・智海等の許に示し送られた(内々私の示すに依るものである)。各感心の様子が有るようだ。今日早朝春日神社の料の心経を書き奉る。穢れの限り過ぐるに依りてである。

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2006年11月 4日 (土)

12月15日 [吉記]「頼朝追討の事院庁下文成りせらる事」

12月15日 天晴れ、
「方違」
「最勝金剛院堂廊に宿す」
夜に入り法性寺に向かう。最勝金剛院の堂廊に宿泊した。春節に違わ無いためである。女房同じく之を相伴う。主税助安倍晴光が来た。天変の事を示した。

12月15日 [吉記]
「頼朝追討の事院庁下文成りせらる事」
院庁の御下文が到来、鎮守府将軍に仰せられた。その書状に曰く、早く左馬頭源義仲と相共に陸奥出羽両国の軍兵を率い、前兵衛佐頼朝を討つべしと、判を加え返し給いた。

12月16日 天晴れ、
早朝に東北谷、並びに南隍(こう、ほり)等を見回り、8時頃許り九条に帰る。

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2006年11月 3日 (金)

12月11日12日13日

12月11日 天気晴れ、
早朝法印(慈円)が示し送り云う、無為無事登山した。夜の内に護摩以下の所作等悉く勤行(ごんぎょう)した。悦びをなす少なからずと。大衆(だいしゅ)僧兵の事、義仲に立ち会ふ儀は停止し、座主を任用すべきではないの条は、旺盛に決定なるべしのようだ。
(注釈)
護摩(ごま)・・・護摩木を焚いて祈る。
勤行(ごんぎょう)・・・勤めて仏道修行すること。

12月12日 天気晴れ、晩に及び雨下る、
伝聞、比叡山延暦寺の大衆(僧兵)が蜂起し、和平相半ばのようだ。五位蔵人親雅、荷前の事を定め申すべき由、右大将を招集した。病気の由を申した。
(注釈)
荷前の勅使(のさきのちょくし)・・・年末に集まる諸国からの貢ぎ物を、皇室祖先神や陵墓に捧げる使い。

12月13日 陰晴れ不定、時々風吹き
伝聞、平氏の入洛は来たる二十日のようだ。或いはまた明春のようだ。義仲と和平の事一定したようだ。

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2006年11月 2日 (木)

12月10日 「頼朝追討の院庁下文を成す」

12月10日 天晴れ、
法印(慈円)は比叡山に登り帰られた。百日の入堂(無動寺なり)、退転、遺恨たるに依り、隆憲を以て義仲に連絡し、許しをこうむり登られた。是また我が身の慶びである。昨日京に下りしは、世間の物騒に依り、私の附近の事不審の故に下京のようだ。又比叡山延暦寺は既に城郭を構えた。仍って城中に籠もる條、甚だ穏便ならず。しかのみならず、すでに比叡山延暦寺を攻めるべきの由風聞した。仍って且つは下京されるべきの由、私は示し送る所である。而るに比叡山延暦寺を追討の儀、また忽ち然るべからずと。仍って義仲に連絡するの処、案の如く許し有り。たとい又内心許さざる有りと雖も、此の願いすでに退き難き故、万事を顧みず、山に帰り、私と相共に能く議評せしむるものである。山王大師(山王権現)の知見証明あらんか。大願の趣、詳細に記録し難きものか。只仏法の興隆・政道反素の趣なり。
「慈円入堂して兼実等の大願を祈願す」
法印(慈円)と私、観性(法橋)三人の大願、すでに年数を積みたり。今の入堂すでにこの事を祈請の故である。よって百千の事顧みるべからず。只諸神に任せ奉るのみ。
「臨時除目」
この夜臨時の除目が行われた。
参議藤俊経、藤隆房、(即ち右武衛に任ず)、藤頭弁(藤原)兼光、
左大弁(藤原)兼光、左中弁光雅、右中弁行隆、
権光長、左少弁源兼忠、右少弁平基親、
右中将忠良、
義仲は左馬の頭を辞退した。また天台座主(俊尭僧正)を仰せ下されたようだ。
(注釈)
山王大師(山王権現)・・・日吉(ひえ)神社の祭神。
知見(ちけん)・・・物事を悟り知る智慧。
法橋(ほっきょう)・・・法眼の次に位。

12月10日 「吉記」
「後白河院平業忠邸に還御」
法皇は六条西洞院の左馬権守平業忠宅においでになられた。五条殿には奇怪な事が有りの故のようだ。
「頼朝追討の院庁下文を成す」
頼朝を追討すべしの由、宣旨を改め院庁下文を下し成されたようだ。
「臨時除目」
今日臨時の除目が行われた。善政相交わるの由、世以て美と称した。入道殿は殊に指図給わり申さしむの故のようだ。
(玉葉と同じ)
辞退 左馬頭源義仲
「僧事」
天台座主に権僧正の俊尭が任命された。
伝聞、第一は昌雲、第二は全玄なり。
「義仲の執着により俊尭を天台座主に補す」

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2006年11月 1日 (水)

12月9日 「長方の言により八幡御幸停止せられる」

12月9日 天陰 頗る風雪、
伝聞、昨日左大臣(経宗)並びに忠親卿が法皇御所に参り、成範卿を以て左大臣(経宗)に問われて云う、義仲申して云う、西国を討つ為罷り向かうべきである。而るに法皇は御在京、不審無きに非ず。比叡山延暦寺の騒動の由風聞した。仍って法皇をお連れなさり下向を欲すようだ。この事如何。御占い行われるの処、不快の由を申した。之を為す如何。左大臣(経宗)申し云う、御占いの事指図に及ぶべからず。義仲の申す所然るべし。早くお出かけ有るべしと。又静賢法印を以て忠親卿に問われる。申し状左大臣(経宗)に同じ。但し密かに申し云う、平氏と和平の儀、義仲に仰せられるべきであると。然れども件の事義仲おおいに不快の由、外相に表すようだ。よって仰せ下さるに及ばずのようだ。
「長方の言により八幡御幸停止せられる」
しかる間、長方卿ひそかに使者を以て義仲に連絡した。穢れ中に八幡へのお出かけは如何。たとい御参社無しと雖も、猶神慮の恐れ有り。おおいに以て然るべからずと。ここに因り忽ち延引し、穢れ以後のお出かけなさるべき由定め仰せのようだ。猶長方は賢名の士である。
「慈円下京す」
今日、山の法印(慈円)があからさまに京に下られた。大衆僧兵の蜂起は旺盛のようだ。実に只天台の仏法の滅亡すべき時である。
「俊尭天台座主に補さる」
伝聞、俊尭が座主に任命されたようだ。

12月9日 「吉記」
「山僧蜂起」
比叡山延暦寺の僧兵が東西坂に城を構えを欲し、叉近江への通路之を塞いだ。

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