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2006年10月 8日 (日)

閏10月23日「義仲三ケ条の事を院に奏す」

閏10月23日 天気晴れ、
早朝人告げる、今夕から明朝の間、法皇は南都(奈良)にお出かけなさるようだ。疑うらくは、吉野に引き籠もりなさるべきか。但し未だ一定ならずと。
「頼朝の縁者たるにより公衡恐れを成す」
10時頃、観性法橋が来て語り云う、少将藤原公衡は大宮権亮藤原能保(頼朝の妹の夫)の縁に依り(公衡は能保の妹の夫也)頗る恐れを成すようだ。
「義仲三ケ条の事を院に奏す」
12時頃、静賢法印が来て語り云う、去る夜、義仲が法皇御所に参り、静賢・(大蔵卿、高階)泰経等を以て伝え申し上げたようだ。其の申し状に云う、先ず法皇をお連れなさり、北陸に引き籠もるべき由が風聞した。以ての外の無実、極まり無き恐れである。この事相伴う所の源氏等(行家以下を指す)がとりついで申し上げる所か。返すがえす恐れ申す。早く証人を承るべきであると。
「志田義広を以て平家を討たしめんと欲す」
次いで、当時は平氏追討使無し。尤も不便。三郎先生義広を以て討たせようと欲した。又平氏の入京を恐れるに依り、法皇御所中の僧と俗人、京都市内の上下、資材を運び妻子を隠す、おおいに穏便に非ず。早く御制止有るべし。此の三ケ条であるようだ。仰せ云う、先ず法皇を取り奉るべき条、全く源氏等の取り次ぎ申すに非ず。只世間があまねく申す為に依りお聞きなされる所である。然れども全く御信用無きを以て、指図に及ばずと。次いで義広を追討使の事、仰せ切られると雖も、頼朝が殊に意趣存ずる者かといえり。静賢又云う、実に法皇をお連れなさるべき事は、必ずしもそう有るべきではないことか。事の道理無く、又其の必要無き事である。
「義仲に意趣を存する輩あり」
只毎事いきどおり恨むこと許さない間、もし北陸に逃げ籠るか、その時意趣を存ずる者ども、武士と云い、法皇の近臣と云い、自ら怨みを報ずるか。然らば定めて物騒かと(武士の中には、葦敷重隆、殊に意趣を結ぶようだ。又法皇の近臣(大蔵卿、高階)泰経の如く、同じく内々相を怨むと)。然りと雖も、其の恐れ、他人に及ばざるかと。又云う、かの宣旨の趣の事、定長が宣を伝え、頭弁(藤原)兼光が宣下のようだ。頭弁(藤原)兼光に問わるる処、たちまち改め直した。しかるに修正以前の宣旨を以て聞き及ぶか。全く用いるべきではない事である。其の由を以て義仲に仰せられるべき由、頭弁(藤原)兼光は申したようだ。良久しくありて帰り出でた。
伝聞、摂政(基通)の愛物・母堂等昨日の明け方鞍馬の方へ行かせたようだ。又入道(藤原基房)関白の家中は太く以て騒動したようだ。
又聞く、義仲の郎従等は多く伊勢国・美濃国等に派遣した。京中に勢力は無しのようだ。尹(いん)明語り云う、平氏再び繁盛すべき由、衆人の夢想等有るようだ。(藤原)範季(院の臣)が申し云う、昨日義仲に会見した。申し状の如くでは、謀反の儀は無しのようだ。
夜に入り、定能卿が来た。世上・法皇御所中の事等語る。南都へお出かけの事、未だ聞き及ばずのようだ。

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