« 2006年9月 | トップページ | 2006年11月 »

2006年10月

2006年10月31日 (火)

12月8日「法皇御幸に他の人参らず」

12月8日 天晴
 使者を静賢の許に送り、法皇のお出かけの次第を問う。返事に云う、凡そ左右する能わず。仰せ下され一定した。今に於いては異議無し。天下今一重滅亡した。京都叉安堵すべからず。女房等少々、遠所に遣わすべきかと。凡そ京中の上下あわてふためき限り無しのようだ。叉宰相中将が退出した。法皇御所よりお出かけに参るべきにより、出立のため退出する所である。件の宰相の奥方は、この両三日女院に寄宿された。新御所の北対附近である。
「法皇御幸につき御占い行わる」
「五条殿に怪異あり」
当時の御所の五条殿、怪異を頗りに示した。よって八条院(鳥羽天皇皇女、法皇の妹、暲子内親王)にお帰りあろうと欲する処、義仲が受けざる間、忽ちに八幡へお出かけの儀出で来たるようだ。凡そ怪異を忌みられる条は、亡ぶごとき事あるか。今に於いては、法皇の御身、何によりて惜しみ思し食さるべきや。弾指すべし弾指すべし。
「法皇御幸に他の人参らず」
私の女房、大将の妻等、内密に明朝に奈良に使わすべき由、内々その指図を致した。然れども事猶穏便ならず。依って法皇附近に訪ね伺う処、10日のお出かけは頗る不定である。叉公卿等が参入し、お出かけの事を尋問せらる由、夕刻以後これを聞き及ぶ。叉縦いお出かけありと雖も、法皇の外他人参るべからず。お出かけあるべからず。入道関白以下、諸卿は京都市内に留まり、万事指図を致すべし。京都を損亡せざるため、お出かけを申し行う由、義仲は称せしめたようだ。よって明朝の下向は停止した。かつまた占いを加うる処、頗る快からざる故である。叉左少弁光長同じく忽ちにしかるべからざる由を申した。
「日頃山門衆徒蜂起す」
 22時頃に及び、或る人告げて云く、明日延暦寺を攻むべしと。驚奇限り無し。凡そ日来比叡山延暦寺の僧兵の蜂起は甚だ以て感心出来ない。世の為時に、訴訟も遺恨も有るべき事である。近日の事、ただ知らざるが如く見えざるが如くにて有るべき処、多数の僧侶の蜂起の條、還りて後々の手本の恥を為すべき所たるか。当時またこの蜂起に依り、攻め寄せらるべしのようだ。誠に比叡山の仏法滅尽の期至るか。悲しむべし、悲しむべし。頼輔入道が今日奈良に下向した。

|

2006年10月30日 (月)

12月7日「義仲法皇を奉じて八幡辺に向かわんとす」

12月6日 天晴、

12月7日 天晴、
早朝、仏厳聖人が来た。相次いで(藤原)範季(院の臣)朝臣が来た。世上の事を語る。平氏入京すべき一定の由、能圓法眼が告げ送るようだ。義仲と和平するや否や。未だ落着せずのようだ。
「藤原宗家来る」
「朔旦叙位の事につき法皇より諮られる」
「賜下名の儀の有無によるべし」
(中略)
伝聞、平氏と和平の事、義仲は内々に意地をはると雖も、外相は受けざるの由を示すようだ。
「義仲法皇を奉じて八幡辺に向かわんとす」
晩に及び宰相中将(定能)が告げ送りて云く、来たる十日義仲は法皇をお連れなさり、八幡の附近に向かうべし。彼より平氏を討たんが為、西国に赴くべしと。又(藤原)範季(院の臣)が同状を告げ送る。凡そ左右に能わざる事か。或いは云う、明日法皇のお出かけ有るべしと。然れどもデマか。
(注釈)
法眼(ほうげん)・・・法印に次ぐ僧位。

|

2006年10月29日 (日)

12月5日 「吉記」「義仲院より平家領を給わる」

12月4日 天晴れ、
定能卿が法皇御所より退出し、来た。語りて云う、昨日義仲は法皇に申し上げて曰く、頼朝の代官が日来伊勢の国に在り。家来等を派遣し追い落とした。其の中最もすぐれた者一人、生きながら搦め取ったようだ。又語り云う、法皇御所中の警護は、近日日来に於いて倍増し、女車に至るまで検知を加えるようだ。今日は終日写経した。

12月5日 天晴れ、
「皇嘉門院忌日」
故女院(皇嘉門院、異母姉)の御忌日である。早朝大将(良通)を伴い、御墓所に参る。
「写経等を供養す」
舎利及び昨日書き奉る所の諸の真言並びに寿量品(復一巻)等を供養し奉る。僧三口、事了り布施を引く。九条の御堂に参る。14時頃に及び、僧徒が参入した。籠僧六口なり(但し、忠玄律師参らず、よって闕請一口を請じ加ふ。又観明法橋を以て導師となす。上臈たるに依りてなり)。公卿は右大将(良通)一人である。布施取衣冠、但し堂童子無し。略儀である。講演終わり、大将が被物を取る。その後弥勒講(三口)、日来の如し。その後の所作少なし。日没に及び退出した。

伝聞、平氏は猶室に在り。南海・山陽両道は大略平氏に味方したようだ。又頼朝と平氏同意すべしと。平氏密かに法皇に申し上げ許可が有るようだ。又義仲は使いを差し同意すべしの由を平氏に示したようだ。平氏は不承引のようだ。
「新摂政家司」
今日御堂に於いて光長が語り云う、新摂政の執事親経、年預光雅、御厩(うまや)上司資泰朝臣のようだ。他事未だ聞かずと。
「累代日記は鴨院に在り」
又累代日記併しながら鴨院に在るようだ。
(注釈)
寿量品(じゅりょうぼん)・・・法華経の一つ。
年預(ねんよ)・・・(臨時に1年を限り他の役所の職員が事務を担当)、執事の下で実務を行った職員。
厩(うまや)・・・馬小屋。
上司・・・上級の官吏。

12月5日 「吉記」
「義仲院より平家領を給わる」
院庁の御下文が到来した。平家領を義仲が相領すべしの由である。加判を与えた。

|

2006年10月28日 (土)

12月1日「大江公朝頼朝代官に義仲乱逆の次第を告ぐ」

12月1日 天気晴れ、
今暁女房最吉の夢あり。天下の穢れ気に依り、心経は書かず。件の写は春日神社の法楽の為である。よって穢れの限りを過ぎ書き奉るべきである。
「大江公朝頼朝代官に義仲乱逆の次第を告ぐ」
伝聞、去る21日法皇の北面に仕える下級役人2人(大江公友)が伊勢の国に到着し、乱逆の次第を頼朝の代官(九郎並びに斎院次官親能等である)に告げ示した。たちまち飛脚を頼朝の許へ差し遣わした。彼の帰来を待ち、命に随い入京すべし。当時九郎の勢は僅かに500騎、その外伊勢(三重県)の国人(在地の武士)等多く相従うようだ。又和泉(大阪府南部)の守平信兼同じく以て味方したようだ。信性闍梨が帰来した。比叡山より法印(慈円)の返事を示した。先日私の使となり登山する所である。
(注釈)
法楽(ほうらく)・・・神仏の手向けにするわざ。
斎院(さいいん)・・・賀茂神社に奉仕した未婚の皇女の居所。
闍梨(じゃり)・・・阿闍梨(あじゃり)?。僧位の一つ。

12月1日 「吉記」
「源義仲院厩別当となる」
伝聞、法皇は御厩(うまや)の事を義仲に仰せられるようだ。

12月2日 天気晴れ、
伝聞、義仲は使いを平氏の許に差し送り(播磨(兵庫県南西部)国室の泊りにあるようだ)、和親を乞うようだ。
「去る29日室山に於いて平氏と行家軍合戦す」
又聞く、去る29日平氏と行家は合戦した。行家の軍は忽ち以て敗績し、家臣の多く以て伐ち取られた。忽ち上京を企だてたようだ。又聞く、多田蔵人大夫源行弘(綱)は城内に引き籠もり、義仲の命に従うべからずのようだ。

12月2日 「吉記」
「義仲摂関家領荘園85箇所を給わる」
前摂政の御家領、一所御庄々85所、義仲これを給わり申した。

12月3日 天晴れ、
「義仲摂関家領86ケ所を賜るという」
伝聞、義仲一所を賜り、86ケ所を所領したようだ。
「藤原師家政所始め」
又新摂政の政所始めは去る29日のようだ。右中弁光雅が執事家司となるようだ。光長棄て置くか如何。拝賀は来る8日のようだ。
晩に及び小槻隆職宿祢が来た。前に呼び出し雑事を命じた。
(注釈)
家司(けいし)・・・三位以上の家の事務をつかさどった職員。
執事(しつじ)・・・事務を執りしきる者。

12月3日 「吉記」
「平氏入洛沙汰」
平氏入洛すべし一定。
「実清等義仲に召し籠められて後免ぜらる」
「解官」
右馬助源信国、左衛門尉平盛家

|

2006年10月27日 (金)

11月29日 「解官さるる人々」

11月29日 天気晴れ、
宰相中将の定能卿が来た。只今法皇御所に参り帰るようだ。花山大納言(兼雅)は頗る恐れを成す由、大将(良通)の女房の許へ示し送るようだ。よって訪札の報状を送りて云はく、解官の中に入らずと雖も、所領を没官せられ、又出仕を停止されるようだ。尤も不便の事か。夕方に太夫吏小槻隆職宿祢が解官等を記録し送る。
「解官さるる人々」
解官
中納言藤朝方、    参議右京太夫同基家
大宰大弐同実清    大蔵卿高階泰経
参議右大弁平親宗  右中将播磨守源雅賢
右馬頭源資時     肥前の守同康綱
伊豆の守同光遠    兵庫頭藤章綱
越中守平親家        出雲の守藤朝経
壱岐の守平知親    能登の守高階隆経
若狭守源政家        備中守源資定
左衛門尉平知康(大夫尉)
此の外衛府26人と。
「即位踰年の例」
今日、16時頃、五位蔵人親経が法皇のお使いの為来た。質問した。御即位は来月22日遂行されるべきである。しかるに18日に至り穢気たり。よってその後22日、伊勢の贈り物を立てられる。28日本儲け日、即位、此の定定行されるべき処、万事叶ひ難し。よって年をこえる例を外記に問われた。天智・天武・皇極・陽成院等の例がある。或いは両三年を経たり、或いは7・8年に及ぶようだ。或いはまた明年である。先例すでに在り。明年行われるべきか。協議し申し上げるべしと。
申し云う、文武以後数代、陽成院の外、未だ年をこえるの例を聞かず。よって左右無く、歳の中に行われるべしと雖も、用途叶い難く、儀式或いは欠くならば、此の限りに非ず。就中近日の様子では、常途の例に似るべからず。
「即位延引すべし」
況んや先規有りに於いてをや。延引は時議に叶うかといえり。左大臣(経宗)・忠親・長方の両卿、皆延引されるべき由を申したようだ。入道関白は頗る歳内に執着され、院宣は延引よろしかるべしと。

11月30日 天気晴れ、
重ねて大外記頼業の許へ使者を送り、先日使いを以てその子の近業の事をとむらう。其の返報に付き、いささか申す事有り。忠言と謂うべし。よって其の事を感ずるため仰せ遣わす所である。

|

2006年10月26日 (木)

11月28日「基通の所領八十余所を義仲に賜わらんとす」

11月28日 天気晴れ、
(藤原)範季(院の臣)・光長等が来た。世上の事等を語る。
「基通の所領八十余所を義仲に賜わらんとす」
前摂政(基通)の家領等、混乱有るべからざる由、義仲が本所に示したようだ。然る間に新摂政(師家)が皆悉く下文を成し、八十余所を義仲に与えたようだ。 犯乱の世である。伝聞、借り(任)大臣の次第、先ず入道関白(藤原基房)が少将藤原顕家を以て使いと為し、内大臣(師家)に連絡されたようだ。希異の又奇 異、更に言語の及ぶ所にあらざるものか。

11月28日 [吉記]
「国尚書状を以て備前国合戦を報ず」
 前の兵衛の尉国尚、備前の守行家の同行の兵として西国に下向した。途中より書状を送りて云く、去る九日、三位中将重衡が大将軍として、三百余騎の勢を以 て、備前の国東川に押し寄せるの間、当国の検非違使所別当惟資・国の武者相共に合戦した。惟資は負傷した。武蔵の国の住人□四郎介並びに子息は打ち取られ た。仍って惟資は国府を引き山に引き入りたりの後、惟資は西川より千騎ばかりの勢を以て、16時ばかりに押し寄せるの間、平氏の兵が勝利した。少々武具を 脱ぎ棄てたようだ。件の日は暮れた。明暁すでに押し寄せるの由、国の武士が申せしむと雖も、検非違使所別当は即時に押し寄せるの間、18時ばかりに押し寄 せ合戦した。平氏方は五十四人討ち取られ、源氏方は国の武士や雑人二十人ばかりが打たれたようだ。
「平氏室泊に着く事」
また安藝(広島県西部)志芳庄より、飛脚が到来して云く、平氏の前陣が室泊の辺(播磨の国)に着いた。追討使が前宿に馳せ到着したようだ。
「院庁下文に加署す」
院庁の御下文が到来した。其の状に言う、前内大臣(平宗盛)以下党類追討すべしと。加判し返し給いた。
「解官」
今日解官の事有り。是非を知らず。嘆き、悲しむかな
(29日の玉葉の記述とほぼ同じ)
今度事に逢う人、皆法皇の近習の者どもである。その外基家卿並びに同家人が相交わるようだ。各所領を召し取られるべしのようだ。

|

2006年10月25日 (水)

11月26日「信円興福寺寺務を辞さんとす」

11月26日 天気晴れ、
今日文書の指図有り(師景文書なり)。大将(良通)・中将(良経)等、同じく会合した。夜に入り家に帰る。
「信円興福寺寺務を辞さんとす」
早朝、奈良僧正(信円)が書を送り云う、松殿(藤原基房)の辺の事、最も勝事(しょうじ)である。凡そ世上の事夢の如し。寺務及び僧正等を辞し申そうと欲するが如何。計らひ示すべしと。条々について委細返事を示した。
(注釈)
勝事(しょうじ)・・・人の耳目をひくような尋常でない事柄。すばらしいこと。奇怪な事件。

11月27日
伝聞、平氏は室の泊に付けたようだ。実否を知らず。
「源宗雅来る」
今日(源)宗雅朝臣が語る。前摂政(基通)の辺りの事、義仲が大略所領等の事、相違有るべからざる由を申したようだ。然れども、又万事は松殿(藤原基房)が押して指図したようだ。今日仏厳聖人が来た。伝聞、借り(任)大臣の事、天下の騒ぎ立てることである。禅門(藤原基房)頗る恥じ色有るようだ。

|

2006年10月24日 (火)

11月23日「藤原実定の内大臣を借用という」

11月23日 天気晴れ、
この日北家に帰る。
「藤原実定の内大臣を借用という」
伝聞、内大臣(藤原実定)は解官に非ず、借用したようだ。凡そ欠官は三なり。所謂死闕(けつ、かける)、転任・辞退である。
「借官これに始まる」
借官之当節に始まる。禅門(藤原基房)の計、然るべし、然るべし。

11月23日 「吉記」
次官(藤原定経)が来た。世上は轟々の外、殊なる事無し。

11月24日
侍(外記大夫大江政職)を以て大外記頼業の許に遣わし、其の子親業の安否をとむらう。去る19日戦場に於いて
若死にの由、風聞あるの故である。

11月24日 「吉記」
「諸卿に参院を命ず」
法皇御所に殿上渡らされるべしの由、指図有りのようだ。
伝聞、今日堀川大納言・八条中納言が呼び出しに応じ参院のようだ。
「火事」
今夜火事二箇所有り。吉田辺りである。祇園別当宗幸の住居並びに他住居である。武士が押し執りを欲すの間、家主が放火の由、風聞した。

11月25日 陰晴不定、夜に入り小雨、
「法皇殊に御嘆息の気無し」
定能卿が法皇御所より退出した。私は之に会見した。語りて云う、法皇殊に御嘆息の気無きかのようだ。
「方違」
此の夜方違いに依り堂廊に参宿した。

|

2006年10月23日 (月)

11月22日「藤原師家内大臣に任じ摂政とす」

11月22日 天気晴れ、
「藤原師家内大臣に任じ摂政とす」
早朝、太夫吏小槻隆職宿祢が告げ送りて云う、権大納言(藤原)師家が内大臣に任じ、摂政たるべき由仰せ下されたようだ。昨夜の2時頃のようだ。
「後鳥羽天皇閑院に御す」
晩に及び小槻隆職宿祢が来て語りて云う、主上(天皇)は閑院(かんいん、藤原冬嗣の邸宅)においでのようだ。今朝新摂政に参る人々済々、前摂政の居所近々、事甚だ掲焉(えん、いずくんぞ)と。私は今度の事を免れた。第一の吉慶である。
「合戦により天台座主明雲及び円恵法親王殺害さる」
伝聞、座主明雲は合戦の日、其の場に於いて切り殺された。又八条円恵法親王は華山寺附近に於いて伐ち取られた。又権中納言頼実卿、直垂折鳥帽子等を着け逃げ去る間、武士等卿相たる由を知らず、引き張りて斧せんとする処、自ら其の名を称すと雖も、衣裳の様子は尋常の人に非ず、偽りて貴種を称するなり。猶頸を打つべき由、各指図する間、下人の中に身知る者有り、実説の由を称した。よって忽ちに死を免れた。
「武士等頼実を経宗の許に送り纒頭を賜る」
武士等相共に父大臣(藤原経宗)の許に送るようだ。大臣は憂喜相半ばし、ほうびを武士等に与えたようだ。そもそも今度の乱、其の詮只明雲・円恵の誅殺にあり。未だ貴種高僧の此の如しの難に遭うを聞かず。仏法の為希代のきずである。悲しむべし悲しむべし。又人の運報、誠に測り難き事か。前摂政(基通)は去る7月の乱の時、専ら其の職を去るべき処、法皇の艶気に依り、動揺無く、今度何の過怠に依り所職を奪われたのだろう。
「基房に札を送り師家の吉慶を賀す」
入道関白(基房)の許へ書札を送り、其の子の吉慶の事を祝賀した。本意の由返礼が有った。
「義仲の許へ使者を遣わす」
又使者を以て義仲の許へに遣わす。是等当時の害を遁れん為である。
「清原近業落命すという」
又聞く、大外記頼業の子直講清原近業、流矢に中(あた)りて命を失うようだ。但し未だ一定を聞かず。よって父真人の許へ問ひ遣はす。今日訪札を前摂政の許に送る。
「殿歴」
この日天下穢れに依り、大原野祭り無し。よって奉弊せず。但し神斎恒の如し。殿歴の説に依るなり。

11月22日 「吉記」
「高階光兼出家」
蔵人大夫光兼は出家のようだ。去る19日は戦場にあり、即逃亡し、恥辱に及ば無いようだ。

|

2006年10月22日 (日)

11月21日「義仲今後世間の事は基房に申し合わすという」

11月20日 天気晴れ、
「基房五条亭へ参るという」
伝聞、入道関白(藤原基房)は去る夜より五条亭に参り宿泊した。義仲が迎えに寄すようだ。花山大納言(藤原兼雅)は日野の方へ向かい逃げたようだ。或る人云う、源雅賢は搦め取られた。又源資時は切り取られたようだ。但し一定の説を知らず。後に聞く、両人共に搦め取られ武士の許に在るようだ。

11月20日 「吉記」
「上西門院等五辻前斉院御所に渡御す」
あわてふためくの間、出仕に及ばずの処、上西門院(統子親王)が五辻前斉院御所にお出かけ有るべしの由、前斉院よりその仰せ有り。仍ってすぐさま参上した。午後4時頃、女院・皇后宮(亮子内親王)・前斉院等が御同車でおいで、ひとえに略儀である。宮大夫御車寄せ、右京大夫・光雅朝臣・基宗朝臣等が従がう。以て御堂御所を御所と為した。予め検知を加えた。人々に会見の後、夕方に退出した。この時、別当(藤原実家)・宮権大夫等が参入した。

11月21日 天気晴れ、
今日定能卿が参院した。(藤原)親信卿は相替り退出したようだ。昨日静賢法印は又呼び出しに依り院に参り、見参に入るようだ。
「義仲今後世間の事は基房に申し合わすという」
又義仲は内々示して云う、世間の事は松殿(藤原基房)に申し合わせ、毎事指図を致すべしと。頗る静賢詳しからざるか。
「基通入京す」
今夕16時頃、摂政(基通)は奈良より入京した。前駆け6人、共78人、済々たる威光のようだ。私は案ずるに感心せず、忍びて入京されるべきだろう。
「義仲の政に預からざる旨を仏神に祈謝す」
私は内密に願かけして云う、今度義仲もし善政を行うならば、私は其の仁に当たる。此の事極まり無き不吉である。よって今度の事、其の中に入るべからず。義仲に従うべからざる由、いささか仏神に感謝した。言ふ莫れ言ふ莫れ。

11月21日 [吉記]
今日、伯耆の守光長以下の首百余、五條河原に懸けた。人以て目したようだ。義仲が検知したようだ。
「藤原脩範出家」
参議正三位左京大夫脩範卿、昨日醍醐寺において出家の由これを聞いた。元よりその志有り、当時元々の意思を遂げた。随喜すべし感歎するものである。年41、故信西入道(藤原通憲)の末子、母紀伊二位(藤原朝子)、法皇の御乳母である。
「藤原基通南都に逃る」
殿下(藤原基通)一昨日、奈良に入りなされた。別当僧正(信円)の房においでのようだ。
「円恵一昨日死去す」
或る説に曰わく、八条の宮(円恵親王)が花山寺附近で一昨日終命されたようだ。
「藤原師家摂政となる」
今夜、権大納言師家を摂政に為さるべしの由の宣下、上卿権中納言頼実卿が奉行である。重日(不吉な日)例の如し。長者の宣下、大下記師尚が花山院亭に持参した。蔵人少輔親経家司が之を見た。陣の儀尋ね記録すべし。内大臣に任ぜられたようだ。頭中将藤原隆房朝臣が深夜に内府(実定)に参り、暫く之触れ申す由を避けらせれるべしと。誰人の使いか。この如しの風聞。
「天下の庶勢は基房の沙汰」
天下の庶勢は入道関白殿基房の指図のようだ。大臣の借用は未だこの例を聞かず。上表無し。押してこの任ぜられる。乱世の政は驚くべき事か。叉前殿下の今度の罪科は何事か。

|

2006年10月21日 (土)

11月19日「義仲法住寺御所を攻む」

11月19日 天気陰、時々小雨、
「義仲法住寺御所を攻む」
早朝、人告げて云う。義仲は、すでに法皇御所を襲おうとしたようだ。私は信受せざるの間、暫く連絡無し。基輔を以て法皇御所に参らしめ、詳細を尋ねさせた。12時頃に帰り来て、云う。すでに参上の由、其の聞こえ有りと雖も、未だ其の実無し。凡そ法皇御所中の勢は甚だ少しと為す。見る者興違の色有りのようだ。光長が又来た。法皇に申し上げる為退出した。然れども義仲の軍兵、すでに三手に分かれ、必定寄せるの風聞、猶信用せざる処、すでに事実である。私の屋敷は大路の頭たるに依り、大将の居所に向かった。幾程を経ず黒煙が天に見えた。是は河原の在家を焼き払うようだ。又時を作る両度、時に14時頃である。或いは云う、吉時と為すようだ。

「官軍敗績す」
16時頃に及び、官軍悉く敗績し、法皇を取り奉りました。義仲の士卒等、歓喜限り無し。

「義仲法皇を取り奉り五条亭へ渡る」
たちまち法皇を五条東洞院の摂政亭に渡し奉りました。武士の外、公卿・侍臣の矢に中(あた)り死傷の者十余人のようだ。夢か夢に非ざるか。たましいは退散し、万事覚えず。

「天下乱逆のうち未だ今度の如きは無し」「義仲はこれ天の不徳の君を誡むる使いなり」
凡そ漢家本朝天下の乱逆、其の数有りと雖も、未だ今度の如き乱は有り得ない。義仲はこれ天の不徳の君を誡める使いである。其の身の滅亡、又以て忽然か。ねがひに生きて此の如しの事を見る。只前世の行為を恥ずべきものか。悲しむべし悲しむべし。

「基通宇治の方に逃げる」
摂政(基通)は未だ合戦せざる前、宇治の方へ逃げられたようだ。夜に入り、定能卿が密かに母堂の許へ来た。即日私の居所の北隣に来た。

「兼房院に参るも合戦のため迷い出ず」
今日、二位中納言(藤原)兼房は法皇御所に参り、合戦の間、下人のため、僕従・乗り物等を隔てられ、歩行して、迷い出で、当時は小屋に在り。乗物を送るべき由、召使いを以て示し送られた。依って牛車等を相伴い送り遣わす処、尋ね失なうようだ。後に聞く、歩行で法性寺の僧都(慈円)の許に来たようだ。深夜に及び家に帰られたようだ。日来却って家の中にとじこもっている人が何故今日参院されたのだろう。無作法の甚だしき、鳴呼(ああ、あはあ)と謂うべきである。定めて天下の指図となるか。
「天皇の御在所知れず」
主上(後鳥羽天皇)には実清卿が相伴いなさるようだ。未だ其の御在所は知れないようだ。今夜は大将亭に宿泊した。

11月19日 [吉記]天晴れ。
「法住寺合戦」
 12時頃、南方に火有り。怪しみてこれを見る処、法皇の御所附近のようだ。再三進入すと雖も、戦場たるに依って、敢えて以て通ぜず。馬を馳せんと雖も、参入することが出来ない。南方の空を見るに夕陽に及び、縦横の説信じ、信ぜざるの処、日入るに及び、法皇の御方は逃げ落としめなさるの由風聞有り。のどをつまらせて泣くの外更に他事を覚えず。
「院御所火災」
後聞、御所の四面皆悉く放火した。その煙が偏に御所中に充満し万人が迷惑した。義仲軍は所々に破り入り、敵対に能わず。
「後白河院脱出」
法皇は御輿に乗せ、東を指して臨幸した。参集の公卿は十余人。或いは馬に乗り、或いははらばい、四方に逃走の殿上人以下その数を知らず。女官等多く以て裸形。武士伯耆の守光長・同子廷尉光経以下合戦した。その外併しながら以て逃げ去る。
「義仲法皇に追いつき摂政亭に幽閉す」
義仲は清隆卿堂の附近に於いて追参し、甲冑を脱ぎ参会した。申す旨有り。新御所の辺に於いて御車に乗せた。時に公卿修理大夫親信卿・殿上人四五人が御供に有り。摂政の五條亭においでのようだ。今年は闘諍堅固百三十三年にあたる。しかるに保元以後連々逆乱有りといえども何時この度に及ぶべきか。根本において、これを記ざる故、ひとえにこれ讃岐上皇の怨霊の所為か。天照大神守り給い奉りしめず、先世に御果報と雖も、悲しむべし嘆くべし。筆端及び難し。後代に恐れあり。然り而るに諸人定め以て記録か。憖録大概而已
今日参入の公卿は
花山院大納言兼雅、権中納言兼房、民部卿成範
前源中納言雅頼、三条中納言朝方、藤中納言頼実、
左京大夫脩範、修理大夫親信、左宰相中将定能、
源宰相中将通親、大貳藤原実清、経部卿藤原頼輔、
大蔵卿高階泰経、治部卿源顕信、信三位藤原季能、
信宰相中将泰通、右大弁親宗、
殿上人
 頭弁藤原兼光朝臣以下の連名書を知らず。
「所々火災」
夜に入り、所々に火有り。伯州(伯耆)光長宅、叉山(天台)座主三条房等である。
「賀茂臨時祭」
今日賀茂臨時祭である。しかるに天下乱逆により、その沙汰無しのようだ。

|

2006年10月20日 (金)

11月18日「義仲に敵対するは王者の行いに非ず」

11月18日 天気晴れ、
「吉田祭」
此の日は吉田祭である。
「兼実良通共に院に参る」
早朝大将(良通)を伴い法皇御所に参ろうとする間、(大蔵卿、高階)泰経卿が奉行となり、只今参るべき仰せあり。承りたる由を申した。たちまち相共に法皇御所に参る。時に8時頃である。泰経卿を以て仰せ下されて云はく、世上の物騒、逐日倍増した。然り間デマが多く出で来た。御所の警護は法に過ぎた。義仲は叉命令に伏する意思が無きに似た。事すでに大事に及ぶ。よって昨日主典代景宗を以て御使いと為し、仰せられて云わく、征伐の為西国に向かうべき由、度々仰せ下さる。しかるに今下向せず。又頼朝の代官を攻むべき由申さしめたようだ。然からば早く行向かうべし。しかるに両方とも出立ちせず、すでに法皇に敵対しようとした。其の意趣は如何。もし謀反の儀が無くば、早く西海に赴くべしといえり。義仲は報奏して云う、先ず君に立ち会い奉るべき由、一切存知せず。これにより度々起請文書を書き進上した。今尋ね下される条、生涯の慶びである。西国に下向に於いては、頼朝の代官が数万の勢を引率して入京すべし。されば、一矢射るべき由、素より申す所である。彼を入れられるのでなければ、早く西国に下向すべきのようだ。
「法皇条々の事を兼実に諮られる」
この上頼朝の代官の事何様に仰せられるべきや。兼ねて又此の騒動に依り、法皇御所に天皇のお出で有るべきか。将に忽ち然るべからざるか。此等の条々について協議し申しあげるべしといえり。

「義仲に敵対するは王者の行いに非ず」
申し云う、先ず法皇御所中のご用心の条、頗る法に過ぎたり。是何故ぞや。ひとえに義仲に敵対されるものである。おおいに以て身苦しい。王者の行いに非ず。もし犯過有らば、只其の軽重に任せ、刑罰を加えられるべし。又仰せくだされる如くならば、申し状いまだ穏便のようだ。然らば先ず然るべき御使いを遣わされ、且つデマの次第を尋問され、且つ所行の不当の罪を問いただされ、もし告げ言う者どもを指し申すならば、法に任せ刑罰に行われるべし。先ず当時敵対の儀を止められるのが尤も宜しいようだ。義仲もし道理に従い和顔有らば、何ぞ征討に赴むくことがあろうか。たとい罪科有るべしと雖も、出境の後其の指図が有れば、当時の恐怖は有るべからざるか。京中間近の間、法皇に敵対されるの条、当時後代、朝の恥辱、国家のきず、何事か之に過ぎようか。もし又猶天皇の命令を受けるに背くならば、かの時法に任せ科断有るべきか。今の指図の如くならば、王者の徳は無しが如し。甚だ以て身苦しきか。頼朝の代官の条に於いて、勢少なくば入るべき由、義仲が申す旨、先日風聞が有り。更に変じ申すべからずか。又巨多の士卒を率いるならば、停止すべき由、かの代官に仰せられるべきか。天皇のお出かけの条、忽ちそうあるべきではないといえる。(大蔵卿、高階)泰経卿が御前に参りました。その後人々多く以て参集し、左大臣(経宗)以下大略残る人無きか。定長卿を以て暫く待機すべき由仰せられた。よって待機した。
「密々に行幸あり」
14時頃に及び、定能卿が内密に来た。告げて云う、只今御車を以て内密に天皇のお出でが成された。法皇はお知りなさらずのようだ。しばらくありて定長が来た。問いて云う、
「何処を皇居とすべきか」
図らざる外に天皇のお出でが有り。此の御所を以て皇居とすべきか。将に又猶閑院を以て皇居と為すべきか、協議し申すべしといえり。申し云う、此の御所を以て皇居と為さば、天皇のお出かけの条はおおいに奇異である。よって只殿上以下の事、閑院に在るべきかといえり。定長云う、左大臣(経宗)が申される旨同前のようだ。16時頃に及び待機した。殊に尋問せらるる事無し。よって(大蔵卿、高階)泰経に連絡して退出した。太夫吏小槻隆職宿祢が来た。私は之に会見した。小槻隆職宿祢の所存は私の案の如し。
「法皇の宮々院中に候す」
摂政今夜より院御所に参宿されるようだ。仁和寺宮(守覚)・八条宮(円恵)・鳥羽法印等、皆日来より法皇御所中にお出でのようだ。

11月18日 [吉記]
「後鳥羽天皇密密に行幸す」
天皇が今朝内密においでなされた。御車を用いなされた。内裏は有るべしの如くの儀在り。未曾有と云うべしか。
「北陸宮院御所より逐電す」
 高倉宮(北陸宮と号す)、日来法皇御所にお住まいでした。女房が一二人之に具し奉る。去る夜行方をくらまし逃げたようだ。
「上西門院皇后双林寺辺に渡る」
上西門院(統子親王)・皇后宮(亮子内親王)は内密に他所においでになりました。双輪寺辺りのようだ。院中の武士多田蔵人大夫行綱以下斉々か。
「院中武士参入」
義仲に相従う者どもの大略が参入か。
「仁和寺宮巳下相具武士群集」「守覚以下の僧侶辻を固む」
仁和寺宮(守覚)以下宮々、並びに山座主(明雲)、及他奏綱僧徒、各武士を相伴い、辻々に待機し、或いは防雑役車を引き、或いは逆毛木を引き、せきを堀、警護の様子は、言語の及ぶ所に非ず。但し偏えに是天魔の結構である。
「景宗御使いとなし義仲を勘発される」「法皇義仲に京退去を命ず」
昨日主典代景宗を以て義仲の許へ仰せ遣わし云う、偏えに公家を威し奉り、謀反を巧らむの由、其の聞こえ有り、本儀の如く追討の為西海に向かうべしは勿論、叉頼朝代官を防ぐため東国に向かうべし意有るべしか。京を早く退出すべし、明快に申し切らないようだ。
「義仲西海下向を承諾す」
今日西海に向かうべしの由両度申したり。解官有るべし否、叉追討されるべしの条、
「頼朝舎弟伊勢に着く」
頼朝の舎弟が伊勢神郡に着くの由、飛脚を進上したようだ。

|

2006年10月19日 (木)

11月17日「義仲院御所を襲う由院中に風聞あり」

11月17日 雨下る、
「京中騒動」
午前4時頃、人告げて云う、法皇御所中に武士が群集した。京中騒動のようだ。何事かは不明である。
「義仲院御所を襲う由院中に風聞あり」
しばらくありて又人云う、義仲が法皇の御所を襲うべき由、法皇御所中にうわさが広まった。
「法皇が義仲を討たるか」
又法皇より義仲討たれるべき由彼の家に伝聞した。両方いつわりを以て告げ言う者有るか。此の如しのうわさに依って、彼是騒動した。敢えて云うべからずと。もし天皇の命令に背くならば、罪の軽重に随い、罪科行われるのは例である。又たとい王者の徳で世の中をよくすることに服従しない者有りと雖も、一国を横領し、都から遠く離れた土地に引き籠もる、ほぼ先例有り。未だ京中間近の間で此の如しの乱有るを聞かず。此の事は悪巧みである。義仲は忽ち国家を危うくし奉るべき道理なし。
「君が兵を集むるは志愚の政なり」
只法皇が城を構え兵を集め、大勢の心を驚かされるの条、専ら至愚の政である。是小人の計略より出たようだ。果たして以て此の乱有り。王事の軽き、是非の論ずるに足らず。悲しむべし、悲しむべし。午後に及び、いささか落居したようだ。
「法皇御愛物たるにより基通宿候す」
摂政(基通)が呼び出しに依り参入した。今夜は宿泊し待機するようだ。是御愛物たるに依り、殊に呼び出しに応ずるものである。他の公卿近習、二三人の外、参入の人無しのようだ。弾指すべし弾指すべし。藤原長方卿が一人参入し、悲泣して退出したようだ。
「義仲の許に法皇使者を遣わす」
主典代(大江)景宗を以て御使いと為し、義仲に遣わされた。其の状に云う、謀反の条、あらそい申すと雖も告げ言ふ人は其の実を称した。今に於いてのがれ申すに及ばざるか。

「義仲洛中に逗留するを勧めず」
もし事無実ならば、速やかに天皇の命令に任せ、西国に赴き平氏討つべし。たとい又法皇の命令に背き、頼朝の使いを防ぐべしと雖も、天皇の命令書を申さず、一身早く向かうべきである。京中に在りながら、動もすれば天子の耳を驚し奉り、諸人を騒がせるのはおおいに不当である。猶西方に向かわず、京中に逗留すれば、風聞の説、実に処せられるべきである。よく思量し進退すべしと。其の報奏の趣未だ聞き及ばず。

「兼実使者を以て物騒の子細を院中に尋ねる」
私は使者(国行)を以て法皇御所に進上させ、定能卿に示し送りて云う、病気に依り早く参らず、物騒の詳細、委しく告げ示されるべしという。返事の趣、大途風聞の如し。晩に及び、左少弁光長が来た。語る旨、又以て前と同じである。此の夜八条院(鳥羽天皇皇女、法皇の妹、暲子内親王)は八条殿にお帰りのようだ。疑うらくは明日の明け方、義仲を攻められるべきのようだ。左右能わず、左右能わず

「義仲勢僅かと雖も勇なり」
義仲其の勢幾ばくならずと雖も、其の衆おおいに勇をなすようだ。京中の征伐、古来聞かず、もし不慮の恐れ在らば、後悔は如何。

「近習小人により此の如き大事に至る」
小人等近習の間、遂に此の大事に至る。法皇の臣下を見ざるの致す所である。日本国の有無、一時に決すべきか。犯過無き身、只仏神に奉仕するのみ。

11月17日 [吉記]
「院渡御南殿」
京中は物騒のようだ。法皇は去る夜、南殿にお出かけである。武士が群れを成すようだ。

|

2006年10月18日 (水)

11月15日「義仲頼朝代官の入京を承伏す」

11月15日 天気晴れ、
晩に及び宰相(藤原定能)中将が来た。法皇御所中の事を語る。武士の守護は、ひましに怠らないようだ。法皇御所中の上下の人々或るいは受けず、或いは感心し、両様のようだ。又云う、頼朝の代官九郎、入京すべきや否や、頗る豫議有り。大略は進上する所の物並びに使者等、帰国すべき様其の指図有り。
「義仲頼朝代官の入京を承伏す」
然るの間又議案が出で来た。澄憲を以て重ねて義仲の許へ仰せ遣わされるの処、其の勢幾ばくも無いのならば、入京を許されるべき由、ねがいに承伏したようだ。又云う、只今主典代景能が来たり入る(頼朝の許に派遣された所の御使いなり)。此の一両日入京したようだ。よって頼朝の報奏の趣を問う処、大略御返事を申すに及ばず、専ら悦ばざる様子有り。詳細に於いては、始めの御使い(庁官康直)に申した。今の仰せ只前と同じである。早く帰参すべしと。敢えてもてなしの気配は無く、殆ど憤りと謂ふべきかのようだ。

11月15日 「吉記」
「平知康大神宮の託宣を称す」
ある人示し送りて云う、去る12日延尉知康は太神宮が託宣したの由と称すようだ。近日件の男は乱心である。信受すべきではない。
「平氏の動向を聞く」
叉聞く、平氏が備前国を焼き払うようだ。

11月16日 陰晴れ不定、今暁地震、
「地震」
「定能室平産す」
「法皇法住寺南殿に臨幸あり」
今日法皇は南殿においであるべし。御用心の様子、日来において万倍した。今日の出仕指しあうか。よって不参。
「所々にこうを堀、釘抜きを構う」
今夕所々にからぼりを堀り、釘抜きを構え、別段の指図のようだ。此の事は天狗の所為か。偏に禍を招かれるなり。左右能わず、左右する能わずと。蔵人源清実が来た。右大将(良通)を呼び云う、寮の御馬が不足、権立馬を進上すべしと。力及ばずの由を申した。馬無きに依りてである。

11月16日 「吉記」
「庁官康貞関東の事を語る」
庁官康貞が入り来る。関東の事を語る。

|

2006年10月17日 (火)

11月14日 「平氏に使いを遣わし勅命を以て神器を返還せしめんとす」

11月14日 天気晴れ、
「大外記頼業を以て両息に尚書を教授せしむ」
大外記頼業が来た。大将(良通)・中将(良経)両息共に尚書(書経、中国最古の経典)を頼業より受け始めた。是兼日の支度に非ず、臨期に思い立つ所である。頼業は明経道(大学の四道の一)において昔の名士に恥じない者である。よってその説を請け習わせるためである。
「平氏に使いを遣わし勅命を以て神器を返還せしめんとす」
16時頃、頭弁(藤原)兼光が法皇の御使いとなり到来した。
仰せ云う、三種の神器、御所を出てて外に在り、わが朝の大事これに過ぎたるはなし。よって試みに御使いを派遣し、促すのに勅命を以てするは如何。此の事天下の異変が有りし時、人々は議論し申し上げ、あらかじめ其の指図有りと雖も、自然に数か月を送る。しかるに去る9月の日、前内大臣(宗盛)が法皇に書を上る。其の状に云う、宗盛に於いて全く法皇に背き奉るの意思は無し。事態が図らざるに出で、あわてふためくの間、旧天皇に於いては、当時の戦乱を遁れんため、お連れし奉り京外の土に難を避けて逃れた。然るに此の上の事、偏に法皇の決定に任すべしと。此の状の如くならば、いよいよ和睦の儀を表し、彼の三神を迎え奉られるべきか。しかるに義仲は追討の時、官兵が敗績し、此の時に臨み、御使を派遣されるは、辺境の民の愚、恐らく士卒の弱少にへつらいに依る由を存念するか。此の条如何。能く考え協議し申し上げるべしといえり。
 申し云う、此の事旧天皇が難を避けて逃れた時、速やかに此の議有るべし。しかるに延びて今に及ぶ。遅れ怠るの条、悔いて益無し。まして彼の漏達の趣あるに於いては当然であろう。御使い派遣されるの条、異議及ぶべからず。そもそもかの報奏の旨、密かにして豫議有るべし。遠く離れた土地の間、御使い更に帰参の後、重ねて其の儀有らば、怠け続けたる処、自ら変化有るか。よって先の事まで考えはかる知恵の及ぶ所、然も議定有り、御使いに含められるべきであるといえり。頭弁(藤原)兼光云う、摂政(基通)が申されて云わく、御使いの上、その人が書いた文書を以て女院(建礼門院平徳子)に献ぜられるべし。殆ど疑いを避けるためである。左府(経宗)申されて云わく、御使い二人有るべきなりと。私は云う、此の儀共にそのようにあるべきだ。そもそも役目にふさわしい人を撰び、其の人を差し出されるべしといえり。頭弁(藤原)兼光は退出した。

|

2006年10月16日 (月)

11月13日「義仲頼朝追討の院宣を秀衡に示すとの浮説あり」

11月12日 天気晴れ、
「平資盛帰洛を望む旨を知康に伝うという」
伝聞、平資盛朝臣が使いを大夫尉平知康の許へ送り、法皇に別れ奉り悲嘆限り無し。今一度京都へ帰り、再び法皇の顔を拝せんと欲すのようだ。人々疑う所、もし三種の神器を持ち奉るかと。
又聞く、平氏其の勢数万に及び、追討は忽ち叶うべからずのようだ。

11月13日 雨下る、
「義仲頼朝追討の院宣を秀衡に示すとの浮説あり」
藤原季経朝臣が来た。語り云う、院の庁官康貞、一昨日上京したようだ。
ちまたの説に云う、秀衡は頼朝を追討すべき由、院宣有る旨、義仲は秀衡の許に示し遣わし、秀衡は件の証文を以て康貞に付き進覧したようだ。但し此の条定めて浮説かと。追って尋ね聞くべし。
今朝行家は鳥羽を出発したようだ。

|

2006年10月15日 (日)

11月8日「平氏追討の為行家進発」

11月8日 天気晴れ、
「平氏追討の為行家進発」
今日、備前の守源行家が平氏追討の為出発した。見物者は語り云う、其の勢270余騎のようだ。おおいに少なしと為す如何如何。今日義仲すでに打ち立ち、只今乱に逢うの事の如し。法皇御所以下京都の諸人、毎家騒動した。
「兼実密かに神鏡等無事を第一とする旨を行家に示す」
そもそも三種の神器、無事に迎え取り奉る条、朝家第一の大事である。しかるに法皇と臣下共に此の指図無し。よって私は密かに此の趣を以て行家に言い含めた(全く親睦の縁なし、然れども偏に天下を思うにより、或僧を招き詳細に以て聞達した。中心の誓い、上下鑑みるべきのみ)。

11月8日[吉記]
「源行家平氏追討に進発す」
今日備前の守源行家は平氏追討の為出発した。父子駕車、今夜鳥羽に宿り、或る者言う、追討使が駕車の例は何時の事かと。叉言う、出発の時降雪、源氏の為吉事を為すと。出門のところに伴う軍兵は三百余騎である。三千騎に及ぶべきようだ。

11月10日 天気陰、午後雨下る、
「方違」
「北斗堂供養」
伝聞、頼朝の使い供物に於いて江州に到着した。九郎猶近江に在るようだ。澄憲法印を以て御使いと為し、義仲の許に遣わし、頼朝の使いの入京は、不安あるべからずの由と。悦ばずの様子有りと雖も、ねがいに承諾のようだ。勢が少なきに於いては、あながちに相防ぐべきでもない由申さしめたようだ。

11月11日 天気晴れ、晩に及び雨下る、

|

2006年10月14日 (土)

11月7日「義仲を院中警護の人数に入る」

11月5日 天気晴れ、
「春日社奉弊、弥勒講」
伝聞、来たる八日行家が九州へ下向に一定した。義仲は下向すべからず。頼朝の軍兵と雌雄を決すべしのようだ。

11月6日 天気晴れ、
「春日祭」
「平頼盛鎌倉に赴き頼朝と対面すという」
或人云う、頼盛はすでに鎌倉に到着した。唐綾の直垂・立鳥帽子、侍二人、子息皆悉く同道して、各腰刀剣等持たずのようだ。頼朝は白糸葛水干・立鳥帽子での対面、郎従50人許りが頼朝の後ろに群居したようだ。
「相模国府」
その後頼盛は相模の国府に宿泊した。頼朝の城を去ること一日の行程のようだ。目代(国守の代官)を以て後見と為すと。能保悪禅師の家に宿泊したようだ。頼朝の居を去る一町ばかりと。この事修行者の説である。雅頼卿が書き記し送る所である。
「五体不具穢」

11月7日 天気陰、晩に及び雨下る、
「義仲を院中警護の人数に入る」
伝聞、義仲は征伐されるべき由により、殊に用心し心配の余り、此の如く承り及ぶ由、法皇に申し上げさせたようだ。よって法皇御所中の警護の武士中に入れられ申したようだ。行家以下、皆悉く其の宿直を勤仕した。しかるに義仲一人其の人数から漏れる由、殊に奇を成すの上、又両者の間に立って告げ口する者が有るようだ。行家は明夕に下向が必定のようだ。頼朝の代官が今日江州に到着したようだ。其の勢僅か56百騎のようだ。忽ち合戦の儀を存せず。只物を法皇に差し上げるための使いのようだ。次官中原親能(広季の子)並びに頼朝の弟(九郎)等が上京したようだ。
「梅宮祭の弊河原より立つ」
「院の返札あり」

|

2006年10月13日 (金)

11月4日 「頼朝代官不破関に着く」

11月4日 天気晴れ、
「頼朝代官不破関に着く」
伝聞、頼朝の上京は停止が決定した。代官の入京である。今朝のようだ。今日布和の関(岐阜県不破郡関ヶ原町)に着くようだ。先ず事の由を申し上げ、御定めに随い上京すべし。義仲・行家等相防ぐにおいては、法に任せ合戦すべし。そうでなければ過平(和平?)の事有るべからずの由仰せ合わすようだ。
又聞く、平氏が讃岐の国(香川県)に在りは一定のようだ。この日小槻隆職宿祢が来た。

11月4日 [吉記]
 或る説に云く、平氏は讃岐(香川県)八嶋に在り。九州の者ども菊池以下、追討し進上する為、すでに文司関を出たようだ。
「家領志芳庄の脚力平氏の動向を報ず」
また安藝(広島県西部)志芳の飛脚が到来して云く、平氏が十月二十日九州を遂い出されたのは一定。事すでに必然である。また出家の人の数は多いようだ。
「頼朝上洛の途より鎌倉に戻り代官義経明日入京するとの説あり」
東国より上京の者等の数は多い。その説に云く、頼朝は鎌倉を立ち、足柄上道に至る。
その勢は騎兵歩兵相並び三百万人に及ぶ。その食糧は仮令三万石を超えるの間、必要な費用が調達出来ないの由、猶予するの間、法皇の使の康貞の下りに逢う。仍って鎌倉に帰舘した。舎弟の字九郎冠者、その名は義経という。幾ばくの勢も連れず代官として上道した。今日明日入京すべし。院の別進と同道のようだ。
国々庄々に下向の者ども或いはこれを施行し、或いは空しく帰京した。反儀の是非、上京を企図の間、毎事落着出来ないの故である。
また秀衡が進出した。義仲の子冠者が行方をくらまし逃げたの由が風聞した。虚報のようだ。

|

2006年10月11日 (水)

閏10月29日「大和国兵士を平家追討に遣わすためか」

閏10月28日

伝聞、行家・義仲等は征伐のため下向した。来月一日は法皇の御衰日(不吉な日)の為に依り、延引、或る説に二日、或るいは八日と。

閏10月29日
「賀表加署の事」
賀表(祝意を表して奉る文)加署(公文書に署名)の事、先日左大臣(経宗)が次第を造って進上した。当日仗座(朝廷の公事の座席)に於いて加えるべしの由、造り載せらる。猶不審に依り大外記頼業の許へ問いの使いを派遣した。申し云う、この事に於いて煩い有るべし。よって兼日公家判賜るべしの由、昨日いつもより特に申し上げたりと。
「信円法皇に召さる」
この日奈良僧正(信円)が来られた。去る25日夕上京される所である。法皇のお呼び出しに依るようだ。よって27.8日両日参上した。
「大和国兵士を平家追討に遣わすためか」
然るに全く殊なる仰せ無しと。大略大和の国(奈良県)の兵士等を招集し、平氏の強者に用意されるように、指し派遣すべき故と。始めて衆徒(僧兵)を招集すべき由仰せ有り。しかれどももし大衆(僧兵)を発すならば、悪僧等が力を得るは決定、乱行非法を致すか。
当時は、随分奔走し、殊に大衆(僧兵)狼藉の聞こえ無し。今此の院宣の趣漏れ承れば、衆徒の乱暴、全くおきてに叶うべからず。此の条重ねて仰せに依り、指図致すべし。後日の恐れの為詳細申す所であるようだ。重ねて仰せ云う、申す所尤も然るべし。大衆の条重ねて御定めに随るべし。
「寺家より末寺荘園の兵士を催すべし、其の用意致すべし」
先ず只寺家の力を以て、末寺荘園の兵士を招集し、其の用意致すべしと。
「法皇と行家が双六の間信円空しく退出す」
先ず27日参上の処、行家と御双六の間他事無し。見参に入ると雖も、空しく退出し、昨日参上し仰せを頂いたようだ。御堂御八講の次、又上京すべき由示される所である。たちまち下向された。今度は入道関白(基房)の許へ参上しなかった。其の時間が無きに依りてであるようだ。

|

2006年10月10日 (火)

閏10月27日「義仲と行家不和という」

閏10月26日 天気晴れ、
今日は終日、師景文書等を見て指図した。
「義仲興福寺に頼朝討伐を語らうも衆徒承引せず」
伝聞、義仲は猶平氏を討つべき由院宣が下された。ねがいに承諾したようだ。又聞く、義仲は興福寺の衆徒(僧兵)に触れ云う、頼朝を討つ為関東に赴くべし。同道すべしと。衆徒(僧兵)は承引すべからずと。夜に入り帰宅した。この日五位蔵人親雅が大将(良通)を催促して云う、ついたちの日、必ず出仕すべしということだ。承知した由を申したようだ。此の夜大将(良通)・中将(良経)密かに詩有り、無事他聞すべからずと。

閏10月27日 天気晴れ、
「源義兼来る」
夜に入り武者が来たり云う(源氏の武者である。源義兼、石河判官代と号す、故兵衛尉義時の孫、判官代義基の子である)平氏を討つため、行家が来月一日出発すべし。彼に伴う為、明日先ず河内の所領に向かうべしと。
「義仲と行家不和という」
其の次語り云う、義仲と行家すでに以て不和、果たして以て不快な事が出で来たるか。返すがえす不便と。其の不和の由緒は、義仲が関東に向かうの間、同道するの由行家に触れる。之を逃げ口上の間、日来頗る不快の上、此の二三日は殊に以て口やかましい。然り間行家は来月一日に下向は決定。
「義仲其の功奪わるるを恐れて行家に具して下向せんと欲す」
義仲又其の功を行家に奪われない為、同道して下向すべき由風聞したようだ。只今の如くは、うわべは悪しからずと雖も、其の実必ず相互に油断を狙うかと。又云う、行家に於いては頼朝に立ち会いすべきではないの由、内々議定したようだ。

|

2006年10月 9日 (月)

閏10月24日「義広に備後国を賜い追討使とすべき事を義仲主張す」

閏10月24日 天気晴れ、
「義広に備後国を賜い追討使とすべき事を義仲主張す」
伝聞、義仲は法皇に重ねて申し上げて、義広を以て平氏追討すべきの由、申請を許されないの条、未だ其の意を得ない、猶まげて義広を使わそうと欲した。兼ねて又備後の国をかの義広に賜り、其の勢を以て平氏を討つべしと。仰せ云う、全く許さない儀に非ず、件の男は弱体の由をお聞きなされた。よって叶うべからずの由思いなされ、故に指図を仰せられないのである。しかれども猶宣しかるべき由、協議し申すならば、異儀におよぶべきでもないと。国事又お聞きなされた。但し忽ち役人に任ぜらるべきではないようだ。
奈良僧正(信円)が文書を送り云う、法皇より内密にお呼び出し有り。よって明日あからさまに上京すべきようだ。

閏10月25日 天気晴れ、
「諸社に楽器を奉納す」
「笙(しょう)二管賀茂社琵琶春日社龍笛熊野社」
「方違」
「信円上洛す」
「頼朝相模鎌倉城を起つも秀衡の襲来を恐れ参洛せずという」
伝聞、頼朝は相模の鎌倉の城を起ち、暫く遠江(静岡県西部)の国に住むべし。是を以て精兵五万騎(北陸一万、東山一万、東海二万、南海一万)が義仲等を討つべし。其の事指図する為のようだ。当然其の身が上京すべき処、奥州の秀衡また数万の勢を率い、すでに白河の関を出たようだ。よって彼の襲来を疑い、中途に逗留し、形勢を伺うべきのようだ。去る五日城に赴くようだ。

|

2006年10月 8日 (日)

閏10月23日「義仲三ケ条の事を院に奏す」

閏10月23日 天気晴れ、
早朝人告げる、今夕から明朝の間、法皇は南都(奈良)にお出かけなさるようだ。疑うらくは、吉野に引き籠もりなさるべきか。但し未だ一定ならずと。
「頼朝の縁者たるにより公衡恐れを成す」
10時頃、観性法橋が来て語り云う、少将藤原公衡は大宮権亮藤原能保(頼朝の妹の夫)の縁に依り(公衡は能保の妹の夫也)頗る恐れを成すようだ。
「義仲三ケ条の事を院に奏す」
12時頃、静賢法印が来て語り云う、去る夜、義仲が法皇御所に参り、静賢・(大蔵卿、高階)泰経等を以て伝え申し上げたようだ。其の申し状に云う、先ず法皇をお連れなさり、北陸に引き籠もるべき由が風聞した。以ての外の無実、極まり無き恐れである。この事相伴う所の源氏等(行家以下を指す)がとりついで申し上げる所か。返すがえす恐れ申す。早く証人を承るべきであると。
「志田義広を以て平家を討たしめんと欲す」
次いで、当時は平氏追討使無し。尤も不便。三郎先生義広を以て討たせようと欲した。又平氏の入京を恐れるに依り、法皇御所中の僧と俗人、京都市内の上下、資材を運び妻子を隠す、おおいに穏便に非ず。早く御制止有るべし。此の三ケ条であるようだ。仰せ云う、先ず法皇を取り奉るべき条、全く源氏等の取り次ぎ申すに非ず。只世間があまねく申す為に依りお聞きなされる所である。然れども全く御信用無きを以て、指図に及ばずと。次いで義広を追討使の事、仰せ切られると雖も、頼朝が殊に意趣存ずる者かといえり。静賢又云う、実に法皇をお連れなさるべき事は、必ずしもそう有るべきではないことか。事の道理無く、又其の必要無き事である。
「義仲に意趣を存する輩あり」
只毎事いきどおり恨むこと許さない間、もし北陸に逃げ籠るか、その時意趣を存ずる者ども、武士と云い、法皇の近臣と云い、自ら怨みを報ずるか。然らば定めて物騒かと(武士の中には、葦敷重隆、殊に意趣を結ぶようだ。又法皇の近臣(大蔵卿、高階)泰経の如く、同じく内々相を怨むと)。然りと雖も、其の恐れ、他人に及ばざるかと。又云う、かの宣旨の趣の事、定長が宣を伝え、頭弁(藤原)兼光が宣下のようだ。頭弁(藤原)兼光に問わるる処、たちまち改め直した。しかるに修正以前の宣旨を以て聞き及ぶか。全く用いるべきではない事である。其の由を以て義仲に仰せられるべき由、頭弁(藤原)兼光は申したようだ。良久しくありて帰り出でた。
伝聞、摂政(基通)の愛物・母堂等昨日の明け方鞍馬の方へ行かせたようだ。又入道(藤原基房)関白の家中は太く以て騒動したようだ。
又聞く、義仲の郎従等は多く伊勢国・美濃国等に派遣した。京中に勢力は無しのようだ。尹(いん)明語り云う、平氏再び繁盛すべき由、衆人の夢想等有るようだ。(藤原)範季(院の臣)が申し云う、昨日義仲に会見した。申し状の如くでは、謀反の儀は無しのようだ。
夜に入り、定能卿が来た。世上・法皇御所中の事等語る。南都へお出かけの事、未だ聞き及ばずのようだ。

|

2006年10月 7日 (土)

閏10月21日「頼朝追討の院宣を義仲請うも許されず」

閏10月21日 雨降り、
「頼朝追討の院宣を義仲請うも許されず」
義仲の所望の両条、頼朝を討つべき由の御文書を申しいただく事、並び宣旨の趣は、御定めに非ず。されば、公事を執行する人、いささか勘発有るべき条、共に 以て許さずと。この上今一重そむきなされるのかと。凡そこの両条の望み、太いに以て不当であり、許容無き条、尤も其の謂われ有りか。或るいは云う、平氏す でに備前(岡山県南東部)の国に来たる。凡そ美作(岡山県北部)以西、併せ平氏になびいた。殆ど播磨(兵庫県南西部)に及ぶようだ。疑うのは、もし義仲と 平氏は同意かと。
「基家逐電は義仲を恐れるか」
又云う、(藤原)基家卿が行方をくらまし逃げたようだ。頼盛の聟たるに依り、義仲に意趣が有るようだ。其の事を恐れ隠居したか。

閏10月22日 天気晴れ、
伝聞、今日義仲院に参る。
「頼朝の使者伊勢の国に来る」
又聞く、頼朝の使いが伊勢(三重県)の国に来たると雖も、謀反の儀に非ず、
「先日の宣旨を施行せんが為なり」
先日の宣旨を云う、東海・東山道等の荘園公領に、服従しない者どもあらば、頼朝に連絡し、指図致すべしと。よって其の宣旨の施行のため、且つ国中に仰せを 知らしめる為、使者を遣わす所であるようだ。しかし在地の民等は義仲の家来等の暴虐を憎み、事を頼朝の使いに期待し、鈴鹿山を切り塞ぎ、義仲・行家等の郎 従を射たようだ。
「義仲郎従等を伊勢に派遣す」
之に因り、義仲は郎従等を伊勢の国に派遣したようだ。
「家の重書を慈円の房に送る」
今日、家の重要文書等を山上に送った。慈円法印の無動寺の舎屋である。

|

2006年10月 6日 (金)

閏10月20日「義仲十月宣旨のことにつき遺恨を申す」

閏10月19日 天晴れ
「義仲法皇以下を奉じて北陸に向かうとの風聞あり」
有る人云う、来る26日に法皇が遠出有るべきようだ。是は昨日(藤原)範季(院の臣)が語る所の儀状か。将に又義仲は法皇以下主要な公卿等をお連れなさり、北陸に向かうべしの由の風聞がある。此の両事の間か。凡そ左右する能わずと。
「法皇新日吉社より忽ち還御す」
法皇は今日より三ケ日、今比叡(新日吉神宮)に参籠(昼夜こもって祈願する)なさるべしと雖も、天下の物騒に依り、忽ち以てお帰りのようだ。凡そ法皇御所の中の近臣のあわてふためくこと極まり無しのようだ。何事かは不明である。

閏10月20日 天気晴れ、
「静賢法皇の使として義仲亭に向かう」
早朝、大外記頼業が来た。昨日の召しに依りてである。粗く示し仰する事有り。申す所然るべし。今日静賢法印が法皇のお使いとなり、義仲の家に向かひ、仰せて云わく、其の心中説(よろこ)ばざる由お聞きなされた。詳細は如何。身の暇を申さず、俄に関東に下向すべしと。此の事等は驚き思しなされる所なりといえり。
「義仲十月宣旨のことにつき遺恨を申す」
申していわく、法皇を怨み奉る事二ケ条、
其の一は、頼朝を重用される事、よろしくない由申すと雖も、御承引も無く、猶以て重用された。
其の二は、東海・東山・北陸等の国々に下された所の宣旨に云う、もし此の宣旨に従わざる者どもにおいては、頼朝の命に従い追討すべしと。此の条は義仲にとって生涯の遺恨となるものであると。
「頼朝軍を防がんとして義仲東国に赴くという」
又東国への下向の条においては、頼朝が上京するならば、相迎え一矢射るべしの由、素より申す所である。しかるにすでに以て数万の精兵を差し、(其の身は上らず)上京を企てたようだ。よって相防ぐため下向しようとした。更に驚き思われる事ではありません。そもそも法皇をお連れなさり、戦場に臨むべし由、議論し申すの旨お聞きなされた、返すがえす恐れ申す。極まり無き無実であると(以上義仲の申し状)。静賢法印は帰参し、此の由申さんとする処、御行法の間に依り、申し入れが出来ない。然る間に義仲は重ねて使者を以て静賢の許に示し送り云う、猶々関東へお出かけの条、殊に恐れ申す。早くとりついで申し上げる人を承るべしと。
「源氏一族義仲宅に於いて会合すという」
件の事は昨日、行家以下の一族源氏等が義仲宅に会合し、議定の間、法皇をお連れなさるべき由、其の議案が出て来た。しかるに行家・光長等、一切然るべからず。もし此の儀をなさば、違背すべき由、執論の間、其の事は決定しなかった、
「源行家密かに委細を天聴に達せしむ」
件の詳細を以て、行家が法皇に内密に申し上げたようだ。義仲は無実を申した。定め以ていつわりか。恐れ恐れを為す、兼ねて又義仲は殊に申請の事があるようだ。頼朝を討つべしの由、一行の証文をいただき、東国の郎従等に見せたいようだ。此の事すでに大事である。左右する事は出来ない。
「平氏優勢」
又伝聞、平氏の党類、九国を出て四国に向かうの間、甚だ弱小であった。しかるに今度官軍敗績の間、平氏其の衆を得て、その勢力は甚だ強盛となる。今においては、直ちに追伐は困難のようだ。しかるに義仲等甚だ安平の由を称した。是は又いつわりの言葉のようだ。天下の滅亡只今来月に在るか。

|

2006年10月 5日 (木)

閏10月18日「四方皆塞がり」

閏10月18日 雨晴れ
「任子等の歯を取る」
「四方皆塞がり」
 晩に及び、(藤原)範季(院の臣)が来た。世上の事を談じた。此の次、くだんの男云う、四方皆塞がり、中国の上下、併せ餓死するだろう。此の事一切疑うべきではない。西海道に於いては反乱の地にではないと雖も、平氏は四国に在るので通行出来ないの間、又同じ事である。加えて義仲の所存は、法皇が偏に頼朝をこひねがい、殆ど彼を以て、義仲を殺そうとするかの由、偏った推量を成すか、将に告げ示す人有るかのようだ。此の如しの間、法皇を怨み奉り、兼ねて又、御行方をくらまし逃げる事を疑う。之に依り忽ち敗績の官軍を棄てて、迷い上京する所である。しかるに忽ち平家を討つ事は叶うべきではない。
「法皇自ら西国に赴かんとす」
 平氏が猶存在すれば、西国からの運上物は又叶うべきではない。よって且つ平氏を討たせる為、且つ義仲の意趣をかなえるため、法皇の叡慮より起り、早く西国にお出かけあるべきである。只先ず、播磨の国にお出かけ有るべし。しからば南・西国等の武士等、皆風に向かう子のごとく来るべきである。その時九州の軍勢を発し、平氏を征伐するべし。以後おかえり有るべきである。此の他凡そ他の計略無しと。たちまち此の旨を以て(大蔵卿、高階)泰経に示した。泰経は感心し、又静賢法印に示した。静賢又以て心に留めて忘れない、しかるに未だ此の旨は法皇の耳には達しないようだ。
「西国臨幸は頼朝にそむく恐れあり」
 私は之を案ずるに、立つ所の次第、其の理然るべきか。但しもし西海にお出かけが有れば、偏に義仲等に連れ寄せられ、頼朝との約束に背くの由決定あるか。此の天下を猶一日と雖も、頼朝に政権を執るべき運が有るかの由、素より愚に思案する所である。然れば偏えにかの頼朝に変更される条、尤も思慮有るべきか。愚意の所存、只道理を以て仰せ聞かれ、かれこれ仏神に祈願し、強ちに此の武士等を恐れず、正道を以て天下に行われば、多くの人の災は消えるべきである。只先ず、猶平家を討つべき由、義仲に仰せられ、別の使者を以て、又頼朝の許に詳細を仰せ遣はされるべきである。とやかく言う事無しに御下向の条、猶王者のふるまひではないだろう。然れども口外出来ないものである。(藤原)範季(院の臣)の議案は、小人の計略というべし。悲しむべき世である。

|

2006年10月 4日 (水)

閏10月16日「義仲院に参る」

閏10月16日 雨下
「義仲院に参る」
今日義仲が参院した。一一指図を承った。又一一申し上げたようだ。詳細は之を尋ねるべし。
「詩」

閏10月17日 天気陰、
「義仲院への申状」
静賢法印が内密に告げ送り云う、昨日義仲が法皇御所に参り、申し云う、平氏は一旦勝ちに乗ると雖も、始終不安に及ぶべきではない。九州の者ども、味方すべきではない由を仰せ遣はした。又山陰道の武士等、併しながら備中(岡山県西部)の国に在り。更に恐れ及ぶべきではないと。
「頼朝弟上洛という」
又頼朝の弟九郎(源の義経、実名知らず)、大将軍となり、数万の軍兵を統率し、上京を企てる由、承り及ぶ所である。其の事を防ぐため、急ぎ上洛する所である。もし事一定たらば行向かうべし。実でないならば此の限りに非ず。今二三日内、其の指図を承るべしということである。以上が義仲の申し状である。只今外聞に及ぶべきではない。密かに告げ申す所であると。平氏の不安有るべきでは無い由申しあげるの条、甚だ以て大言壮語の事か。
「秀衡東西より頼朝を攻むべき旨を義仲に示すという」
ある人云う、頼朝の家来等が多く以て秀衡の許へ向かう。依って秀衡は頼朝の士卒に異心有りの由を知り、内々飛脚を以て義仲に連絡した。この時東西より頼朝を攻めるべしの由であるようだ。此の告げを得て、義仲は兵を知らず、迷いて帰京したようだ。此の如き事は実否は知り難き事か。

|

2006年10月 3日 (火)

10月14日「京中騒動す」

10月14日 天気晴れ、
 16時頃人告げて云う、平氏の兵は強し、官軍の前陣は多く以て敗れた。よって播磨(兵庫県南西部)より更に義仲は備中(岡山県西部)に赴くの由の風聞した。よって又御使いを以て上京を制止された。承知したの由を申した。しかるに忽ち以て上京の由。今夕から明朝の間に入京すべしの由、昨日の夕飛脚が到来した。
「京中騒動す」
その後法皇御所中の男女、上下あわてふためき極まり無し。恰も戦場に迷い入るのようだ。その事漏れ聞ゆる間、京都市内の人屋、去る夜から今朝の間、雑物を東西に運び、妻子を近郊に遣はし、万人は驚き恐れて顔色が青ざめ、天下の騒動、敢えて云うべからずのようだ。私は遅く之を聞いた。使いを以て(藤原)範季(院の臣)の許へ問い合わせた処、巳に事実であるようだ。去る夜0時頃、(藤原)経家朝臣の妻が男子を産み、たちまち幼くして死亡したようだ。(藤原)頼輔入道の最愛の娘である。入道は飯室に在り。遣り告げたりと。父母現存した。其の哀悼を推察するに、実に以て悲しむべし。凡そ今年の出産は、多く此の聞こえが有る。恐れるべきことか。
「後白河法皇逐電の疑いあるも遂げられず」
今夜は終夜寝なかった。法皇が行方をくらまし逃げるべき由、世人が疑いを成す故である。然れども遂に以て其の事無く、夜が明けた。

閏10月15日 夜より甚雨
「改元の時期につき再度諮らる」
「兼実の返事」
「年内改元すべし」
「中原師尚申状」
「先例は 年改元行わる」
「乱逆鎮静の改元詮なし」
「義仲入京す」
今日義仲が入京した。其の勢力数は甚だ少ないようだ。

|

2006年10月 2日 (月)

閏10月13日「頼朝の申請により東海・東山道の荘園公領を本の如く領知すべき宣旨あり」

閏10月11日 晴れ
「頭弁(藤原)兼光消息」
「改元何月に行わるべきか」
「兼実返状」
「十二月改元に異議無し」

閏10月12日 天気晴れ、
「五節停止せられる」

閏10月13日 天気晴れ、
晩に及び、太夫吏小槻隆職宿祢が来た。世間の事を談じた。平氏は讃岐(香川県)の国に在るようだ。或る説に女房(女官)の船に天皇並びに三種の神器を同乗なさり、伊予(愛媛県)の国に在るようだ。但しこの条は未だ実説を聞かないようだ。又語り云う、院のお使いで庁官の泰貞、去る日重ねて頼朝の許へ向かった。仰せの趣旨は殊なる事無し。義仲と和平すべしの由である。
「頼朝の申請により東海・東山道の荘園公領を本の如く領知すべき宣旨あり」
そもそも東海・東山・北陸三道の荘園・国領を元の如く領知すべき由、宣旨を下されるべき旨、頼朝が申請した。よって宣旨を下された処、北陸道許り、義仲を恐れるにより、その宣旨を成されなかった。頼朝は是を聞けば定めて不快に思うだろう。おおいに不便の事である。この事未だ聞かず。驚き思うこと少なからず少なからず。
「義仲を恐るるにより北陸道は入らず」
この事、小槻隆職宿祢は不審に耐えず、(大蔵卿、高階)泰経に問う処、答え云う、頼朝は恐れるべしと雖も遠境に在る。義仲は当時京にある。当罰の恐れが有る。よって不当と雖も、北陸を除かれるとの由答えたという。天子の政、あに以てこの如しや。小人が近臣となり、天下の乱は止むべきの期待は無いようだ。
「北野小神の事未だ宣下なし」
「藤原資隆に良通の詩を見せしむ」

|

2006年10月 1日 (日)

閏10月3日・・・10日

閏10月3日 天気晴れ、
「西山に赴く」
「東寺に参詣す」

閏10月5日 天陰、午後雨下。
「皇嘉門院月忌」異母姉

閏10月6日 天気晴れ、
「良通今度の五節参入・御覧共に謹仕せず」
伝聞、頼朝の上京は成り難しの間、其の実はそうであるべきではないようだ。
又義仲は今二三日の間に帰京するだろう、又滅亡するだろう。

閏10月8日 
「泰山府君祭」
「頭中将隆房即位以前の節会の事を尋ね仰す」
「今年五節停止すべし」
「叙位下名の事」

閏10月10日
「方違」

|

« 2006年9月 | トップページ | 2006年11月 »