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2006年9月11日 (月)

9月4日「義仲の許に落書あり」

9月4日 陰晴れ不定、
前源中納言雅頼卿が来た。私は病気のため簾を隔てて之と会見した。世上の事等多く以て談説した。其の中に私の為に無用の事等有り。
「義仲の許に落書あり」
去る日義仲の許に落書有り。たちまち義仲の所行の不当悲法等、悉く以て注載した。
「兼実を登用せざる事を難ず」
其の次、私が登用されないのは、尤も不便である。朝庭の重器たる由、詳しく以て之を載せるようだ。この事は私の辺の事を不快に存ずる者どものしわざのようだ。誠にこの事甚だ由無き事である。
「中原親能雅頼に飛脚を送り頼朝の上洛を告げる」
又語り云う、頼朝は必らず上洛すべし。次官の中原親能(広季の男)は頼朝とはなはだ深い知り合いであり、当時同宿した。くだんの者、又源(雅頼)中納言の家人であり、たちまち左少弁兼忠の乳母の夫である。くだんの男一昨日飛脚を以て示し送り云う、十日余りの日、必ず上洛すべし。先ず頼朝の使いとなり、法皇に申す事あり。親能上洛すべきである。万事は其の次に申し承るべしと。此の如し等の事、多く以て談語し、刻を推(うつ)して後、帰った。明日は公卿勅使参着の日である。供花を始められた。世の傾く所である。夜に入り、観性法橋が来た。出ながら之に会見した。くだんの人は内大臣(実定)母堂(藤原豪子)の忌に籠もる故である。語り云う、頼朝は今月3日に出国し、来月1日に入京すべし。是必定の説であるようだ。但し猶信受せられずの事である。

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